【富田勢源入道②】黒谷の決闘(湯浴みの痣隠し)
日本には剣術が栄えた時代があった。
①平安時代の末期~鎌倉時代の初期
②鎌倉時代の末期~室町時代の初期
③戦国時代(室町時代中期~安土桃山時代)
④江戸時代の幕末
それらの中でも、剣術の諸流派が生まれた平安時代の末期や剣術が再び盛んになった江戸時代の幕末より、人を殺める戦が多かった戦国時代は別格だった。
その証拠に、明治時代の初期まで続く実戦的な剣術流派の多くが戦国時代に生まれている。
戦国の世に剣術で名を馳せた者は余多いるが、その中でも一際輝く巨星が幾つか存在した。
眼病を患い視力が低下した富田五郎左衛門吉景は、弟の富田治部左衛門景政に、富田氏の家督と中条流宗家を譲り、出家して勢源入道と号し隠居の身となった。
隠居後の永禄元年(1558年)頃、勢源は門弟を供に兵法修業の旅をし、京へ出ると黒谷に居を構えた。
黒谷は、法然上人(源空)【長承2年~建暦2年(1133~1212)】が比叡山から下り、草庵を結んだ場所として知られている。
その草庵の跡に、浄土宗の大本山である金戒光明寺が建立され、幕末には京都守護職の松平容保【天保6年~明治26年(1836~1893年)】が率いる会津藩1000兵が本陣を構えた歴史がある。
黒谷金戒光明寺は、京の人々から「くろ谷さん」と呼ばれ親しまれており、黒谷は寺院や宿坊が多く、秋には紅葉が美しい処だ。
黒谷金戒光明寺
或る日、神道流(=鹿島神道流)の遣い手という梅津兵庫介兼通と名乗る者が、黒谷にある勢源の住処に訪ねて来た。
武者修行で一旗揚げる為に、門弟と共に関東の常陸国から上京したという。
梅津は勢源と対面すると、「中条流の小太刀は役に立つ物では無い!」と早々(そうそう)に謗り始めた。
明らかに、中条流と勢源の名声を出しに使おうとする道場破りの手口と同じであった。
此処は道場ではなく、中条流の看板も掲げていない一軒家であったが、引き下がる理由は無い為、勢源は堂々と反論した。
「兵法は何も太刀の長短に因る物では無い。
大太刀故に、必ず勝つというのは僻言であろう。」と答えた。
難癖を付けて、癖言(偏った傾向の言行)と返された事に、梅津は大いに怒り、
「然らば、仕合をして決着を付けようぞ!」と言い放つと、太刀を握り勢源へと突きだした。
太刀を目の前にした勢源は、
「神道流は、無暗な私闘を禁じ、争う事を避けて勝ちを得る。
という教えと聞き及ぶが、お主の申す事は流儀に逆らう事ではなかろうか?」と諭す様に指摘をした。
すると、正論を受け答えられない梅津は、みるみる顔を赤くして喚いた。
「中条流は、手を出さずに口を出す流儀でござろうか?
それならば、刀を握る武士に在らず、主君に領地を返上して坊主にでもなれば良い!
一所懸命に成れない腰抜けに、剣法は不要と存ずる!」と唾を飛ばして吠えた。
挑発から始まった口論は、やがて互いの門弟同士による押し問答となり、近所から見物人が出る始末だった。
勢源は辞する事を良しとせず、梅津と仕合の日時を定めた。
梅津らが引き揚げた後、勢源は門弟の一人を使いに出した。
仕合は翌日の午ノ刻・昼九つ(午後12時)に、金戒光明寺の付近にある宿坊の平地となったが、当日になると梅津は門弟10人を引き連れて定刻より早く現れた。
梅津は長さ3尺5寸(約105cm)の大太刀程の木刀を持参し、前日の騒動を知り原っぱに集まって来た見物人へ、その剛正たる腕力を見せつける様に“ブンブン!”と素振りをして見せた。
見物人達は、その力強い素振りに“ヤンヤヤンヤ♪”と歓声を上げた。
一方の勢源は、弟子を一人連れて定刻の直前に現れ、小太刀と同じ位の2尺(約60cm)の木刀を片手に持ち、帯には一尺(約30cm)の月輪鉄扇(軍扇)を差していた。
平地の真ん中に、2名の武士が床几に座っており、その後ろには下人を含めた家来衆3名が控えていた。
武士は、勢源を見つけると手を挙げて振り、“此方に、早く来い来い!”と招き、場にそぐわぬ緊張感の無い笑みを浮かべていた。
平地の真ん中で勢源と梅津が向かい合って立つと、武士は床几から立ち上がり大音声で宣言した。
「拙者、本日の仕合の立会人(検分役)を務める、鞍馬流九法の常陸波門でござる。
中条流の富田勢源入道吉方殿。
神道流の梅津兵庫介兼通殿。
互いに正々堂々の勝負を、一所懸命に心掛ける様に!」
多く集まった見物人らは、まるで芝居を見る様に“パチパチパチ♪”と拍手をし、「待ってました!」と掛け声までする者がいた。
昨日に勢源が使いを出した相手は、この常陸波門であった。
波門は、中条流の祖である念流(判官流)と同じく、京八流(京流)を祖にする鞍馬流の遣い手であった。
京の湯屋で波門と知り合い、同じ剣術流派の流れを汲む剣客だった事もあり、意気投合をして酒や茶を飲む仲となった。
この仕合の公正に裁く為、仕合の日時を決めた際、梅津に検分役の条件を飲ませた。
勢源の門弟が使者として波門宅へ行き事情を話すと、
「それは中々面白き事だ!名人のお手並みを拝見しよう。
勢源入道殿に、常陸波門が立会人を喜んで御引き受けすると伝えよ。」と波門は答え、御機嫌の笑みを浮かべ下人を呼んだ。
勢源と梅津は互いに一礼をして、距離を取り静かに構えた。
検分役の波門が手を挙げ「いざ勝負!」と言うと、梅津は大木刀を右肩に打ち担て“ジリジリ”と前に出ながら木刀を少しづつ動かしたが、勢源は正対に立ったまま微動だにしなかった。
梅津は飛び込んで肩に担いだ構えから大木刀を打ちに掛かけたが、勢源は踏み込むと小木刀で素早く受け流した。
上段からでは無く、肩口から捻る様に打ち込んだ梅津の太刀筋は、神道流の【巻き打ち】という技法で、相手からすると軌道が小さく速いのが特徴だ。
今度は勢源が至近距離から横に打ち返すが、梅津は振り下ろしたままの姿勢から、潜り込む様にして身を沈めて避けた。
梅津は低い所から力強く踏み上がり、勢いに乗せて下段の逆袈裟切りを繰り出すが、勢源は横向きにした小木刀で受け捨てると、半身で回転する様に踏み込みながら腰に差した鉄扇を抜き、スレ違う隙に最短距離で梅津の頭部を強かに打った。
中条流の【燕廻】という技を、咄嗟に応用した妙技であった。
勢いと大木刀の為、梅津の受けが遅れて間に合わず…
小木刀を捨て短い鉄扇に持ち変えた分、勢源の速さが勝った。
その場に立ち尽くした梅津の額から血が噴き流れ、“フラッ”とよろけた。
“ドッ!”と見物人から歓声が上がる。
波門の隣に居た武士が、「見事なり…ただ、少々惜しい。」と呟いた。
検分役の波門が「勝負あり!富田勢源入道の勝ち!!」と宣告すると、
「いやいや、待たれよ!拙者の太刀の方が先に当たっておる!」と梅津が異議を唱えた。
「いや、少しも当たっておらぬ。拙者の万全の勝ちでござる。」と勢源は主張した。
結局、このまま論争になって揉めに揉めた為、波門は額を割った傷を確認して、梅津に手当をさせた。
梅津は出血があったが直ぐに止まり、意識もハッキリしていたので、命に係わる事は無さそうだった。
騒ぎを聞き付けて野次馬が増えた為、波門は匆々(そうぞう)しい両者を立ち去らせて、一旦この場を収めた。
仕合を終えると、勢源は門弟と共に湯浴みをして帰宅した。
黒谷は寺院や宿坊が多く、寺院の施浴である功徳風呂(蒸し風呂)が多くあり、勢源は風呂に入る時刻を考えて…態々(わざわざ)、仕合の開始時間を昼にしたのであった。
京には、鎌倉時代以降から銭湯の走りとなった湯屋が多くあり、勢源も京に滞在する間の楽しみとしていた。
湯浴みした身体を涼ませて居た所に、検分役の波門が酒瓶を携えて、近江者の下人を従えて訪ねて来た。
「梅津がの己の木刀の方が先に当たっていると言い張り、困った困った!
どうしても聞かぬので、貴殿の何れかに傷痕があるかを確認する事になり、参上した次第でござるよ。」と畏まった物言いをし、波門は屈託の無い笑みを浮かべた。
それを聞いた勢源は、
「幸い丁度、湯浴みを致した処でござる。直に篤と御覧下され。」と両腕を広げて、波門に習い畏まって答えた。
「そういえば、仕合の時に御主の隣に居た御仁は誰ぞ?」と勢源が尋ねた。
波門が勢源の身体を確認しながら、
「おう、あれは儂の知り合いで、松山家中の中村新兵衛という者だ。」と答えた。
「三筑(三好筑前守)の近臣である松山新介のか?ほう、あれが“槍の中村”か。」と勢源は一人感心した。
「そうじゃ、新兵衛も京流槍術に長けた者での、儂が刀術を教えて、代わりに奴から槍術を教わる仲じゃ。」と勢源の腕や脇を見ながら、波門は答えた。
【槍の中村】の異名を持つ中村新兵衛は、畿内を治めて権勢を振るう三好筑前守長慶【大永2年~永禄7年(1522~1564年)】の側近を務める松山新介重治の侍大将で、その槍働きの活躍は抜群であり、京で知らぬ者がおらぬ程の武将だった。
この永禄元年も、室町13代将軍の足利義輝(参議・左近衛中将を兼任)【天文5年~永禄8年(1536~1565年)】と相伴衆の三好長慶が対立をし、義輝が挙兵をするに至った。
6月に山城国で将軍山城の戦い・鹿ヶ谷の戦い・北白川の戦いがあり、三好方として参戦した新兵衛は戦功を上げた。
京で戦が続く最中、新兵衛は波門に誘われたとはいえ、敢えて仕合の見物をしたのであった。
それだけ、富田勢源の武名は近隣諸国に知られており、この勝負は武辺者にとって注目の的だったのだ。
何処にも、勢源には傷らしきものは見当たらなかったが…
勢源の左手の甲に添えた右手を、波門が“ヒョイッ”と手首を取り除けると、赤味の帯びた小さい痣があった。
“ニヤリ”と波門は笑い、勢源の顔を意地悪そうに覗き見た。
それを見た勢源も「フッ…」と笑った。
実は、梅津の最初の一撃が勢源の左手の甲を掠めており、赤い痕が付いたのだ。
しかし、勢源の鉄扇は梅津の頭を捉えており、真剣ならば致命的な一撃となっていた。
仕合でも稽古であっても、致命傷を与えた方が勝負として勝ちであった。
それを検分役の波門や新兵衛は見逃さなかったが、勢源は湯浴みで体温を上げてまで、痣の色を誤魔化そうとしたのだ。
兵法者が、己の腕を振るい勝負をするという事は、相手に弱みを見せずに勝ちを収めるのを良しとしなければ成らない。
正に、「命懸けで戦う者は、敵に隙を見せる事なかれ!」に尽きる。
越前朝倉氏の名将である朝倉太郎左衛門尉宗滴【文明9年~天文24年(1477年~1555年)】は、
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候。」
(武士は犬畜生と蔑まれ様が、勝つ事こそが真なり。)
と述べたと、『朝倉宗滴話記』に記されている。
剣客のみならず、侍や武士は勝ちに徹しなければ、生き抜く事が出来ない時代であった。
「梅津の木刀の間合いを見誤り、多少触れてしもうたわ。」と酒の入った椀を飲みながら、勢源は独り言の様に呟いた。
「奴も流石は神道流の遣い手よ!大木刀の長さを担いで間合いを鈍らせた。
お主でも測りきれなんだな…大分、目が悪うなったか?」と椀の酒を飲み干して、波門は口元を拭った。
「うむ、三十を過ぎてから一段とな。
その方は、態々それを言いに来るとは酔狂な事だな。」と勢源は再び笑みを浮かべた。
「なんの、それだけではござらぬよ。入道殿(勢源)に集る蝿退治に出向いたのよ!」
そういうと、波門は刀に手を掛け外へ視線を移した。
勢源宅の周辺に怪しげな人影が幾つか見え隠れした。
「やれやれ、今日は難儀な事だらけじゃ。」
勢源も小太刀を手にすると立ち上がった。
波門の下人と勢源の門弟は、静かに両人の足半(踵の無い半分の草鞋)を用意した。
足半を履くと破門は、「次の酒は、入道殿の奢りじゃな!」と笑って言うと、家の外へ出ていった。
勢源と波門は、仕返しに来た梅津の門弟達を片っ端から打ち据えた。
怪我はさせたが懲らしめる程度で、命は取らぬ様に手加減をしたが、実力差は明白であ有り、梅津の門弟達は這這の体で逃げ去った。
後に、梅津ら師弟は早々と京から姿を消したという。
武士が諱(=忌み名・名前)を、主君・親以外の者から呼ばれる事は無いが、物語上では台詞等で敢て使用しています。
数字は、基本的にアラビア数字(インド数字)の表記が多くなります。
【参考史料】
・『山崎軍功記』
・『武芸小伝』全10巻5(5冊)
(別名:『干城小伝』・『本朝武芸小伝』)
日夏繁高・著(正徳4年=1714年成立)
・『撃剣叢談』全5巻 三上元龍・著(寛政2年=1790年成立)
・『中条流兵法手鏡』
・『本朝武藝小傳』
・『朝倉宗滴話記』萩原宗俊・著(永禄3年(1560年頃成立)
(別名:『宗滴雑談萩原覚書』・『宗滴兵談』・『宗滴夜話』)
【参考資料】
・『富田流道統継承の研究』岡田一男(日本文化大学)
・『奥州に於ける富田流(當田流)』岡田一男(国学院大学)
・『三輪氏族譜』三輪信太郎(1937年出版)
・『福いろ』福井市観光公式サイト
・『福井市文化遺産』HP
・『東京銭湯』HP 東京都浴場組合
※当方の都合を含め、各話毎(エピソード毎)に使用した【参考史料・資料】を表記しています。