6 スキゾフレニア
「先生、何か見つかった?」
惑星調査船の簡易実験室で実体顕微鏡を見つめる佐伯に、無線通信士が尋ねた。
「よくは、わからんな?」惑星免疫学者が答えた。「やたらに元気な動植物の細菌が数多くいる以外はね」
「危険はありそう?」
「いや」
佐伯が実体顕微鏡から顔を上げた。
「おそらく大丈夫だろう」
右手の親指と人差指で強く目を押さえながら答える。
「危険はないと思うよ」
ほっとした表情でエブリン・パーネルが首肯いた。
「先生にそういって貰えればひと安心だわ」
そう呟くと、佐伯の隣の椅子に腰を下ろした。
「だが、わからないのは……」
「ねえ、先生?」
二人が顔を見合わせた。
「きみからどうぞ」
「先生から、先にいっていいわよ!」
「困ったな」
佐伯が当惑の表情を浮かべた。
無線通信士は何が面白いのか、肘をつき、折り曲げた手首に顎を載せて、優しい顔つきで佐伯を見つめている。その化粧っ気のない顔と少し垂れ下がった目尻が、佐伯に、その若い女性無線通信士に対する親愛の情をいだかせた。
「本当はきみもみんなと一緒に狩に行きたかったんじゃないのか?」
惑星免疫学者がいった。
「最初はね」無線通信士が答えた。「でもいまはひとつ発見をしたから……」
「どんな発見かな?」
「先生って、船長と同じ目をしてるわ」彼女が答えた。「はじめは科学班長のジョンと同じかなって思ったんだけど、あんなに醒めてはいないのね。一見穏やかそうなんだけど、じつは闘志に燃えているっていう目。キラキラしてるわ」
無線通信士が自分の目のことをいったので、佐伯も同じ目のことで、彼女に切り返すことにした。
「それじゃ、ぼくからもひとつ」佐伯がいった。「きみが船長を見つめるまなざしは、ドグ・温やリーザさんがミリオリーニ君を見つめるまなざしと、どうやら同じ種類のもののようだね」
「やっぱりわかりますか?」
無線通信士がふうっと大きく息を吐いた。
「先生って心理学者ね。もっとも、誰もそのことは隠してはいないんだけれど……」
少し悲しそうに彼女が呟いた。
「あまりにも公然の秘密として無視しているだけでね」
「人間はみな心理学者なんだよ」佐伯が答えた。「場所と状況に応じてね」表情を変える。「ただしぼくの場合は、学生のころ本当に精神病理学を習っていたんだが……」
「あら、それじゃあ、ドグ・温と一緒だわ」無線通信士が驚いたようにいった。「あの人も最初は精神科医になろうとしていたそうなの」
わずかに声をひそめ、
「ゲートのなかでリーザがいっていたでしょう。彼女、家庭の事情が複雑らしくって、それでティーンエイジャーのときに麻薬におぼれて……。でも、あの性格だからすぐに立ち直ったんでしょうけど、そのときに思ったらしいの。自分と同じような目にあっている人たちのカウンセリングの仕事をしたいって」
佐伯が首を傾げた。
「ならば、どうして宇宙船の船医になんかなったんだろう?」
「わたしも詳しくは知らないけれど」無線通信士が答えた。「彼女の先生に止められたらしいわ。そういう仕事は危険だって。つまり、どういったらいいのかな」
彼女はしばらく押し黙って言葉を捜した。
「つまり、彼女の精神がいまだに脆いってことかしら」
やっと相当する言葉を見つけると、無線通信士が続けた。
「精神を病んだ人たちと親しく付き合うと彼女の人格にもその影響が現われて、病気が再発するからって」
「統合失調症だったのかな、彼女は?」
「スキゾフレニアって、あの自分のなかに何人もの人格が住みついているっていうあれ?」
「いや、そうじゃないんだ」佐伯は苦笑した。「よくそう間違えている人がいるんだがね、その症例は多重人格症といって、その昔、日本では分裂病と呼ばれていた統合失調症とは直接的な関係はないんだ。統合失調症というのは、少し難しい言葉でいえば、ある人間が、自己の自己性が危うくなるという異常事態に直面して、他人に対して統一のとれた整然たる対応が困難になるという状態のことなんだ。だからそれを外から見れば、一見、精神機能が支離滅裂になっているように見える。だから病名をより正確にいえば、人格の統合を失調した病症となる」
「ふうん、そうだったの」無線通信士が答えた。「でもどうしてそれが、彼女がその病気だったってことになるの?」
佐伯が答えた。
「きみはいまドグ・温が精神を病んだ人たちと付きあうことが危険だといっただろう。そういった影響されやすい自己を持つことが、ノイローゼなどの神経症と違う、統合失調症を含めた精神病の代表的な特徴なんだよ。自分が存在する、つまり自分が在る、ということ対する障害が表面化するということだね」
「環境に左右されやすい状況的な自己……」無線通信士が飲み込みよく呟いた。「そういうことね」
佐伯が頷いた。
「環境、あるいは広い意味での他者が、彼や彼女たちにとっての最大の脅威なんだ」
通信室で無線機がビーと鳴った。
「あら、船長から連絡らしいわ」
パーネルがドアの向こうを覗き込むようにして、いった。
「じゃ先生、またね」
右手を左右に軽く振ると、無線通信士は簡易実験室を去った。
佐伯は伸びをして首をぐるぐるとまわすと、再び実体顕微鏡に向き直った。
「おや?」
ふいに、そんな言葉が口をついた。
コロニーの様子がおかしいのか?
寒天培地の上に十あまり局在した黒っぽい茶色の班点が、奇妙な具合に蠢いたのだ。それはまるで死を予感した生物の断末魔の痙攣のようだった。
こりゃ、いかんな、と佐伯は思った。コロニーが成長し過ぎて、中心部が窒息でもしたのだろうか? しかし、たかがそれくらいのことでコロニー全体がふるえるとは……。
次の瞬間、彼の見たビジョンは空白だった。完全な闇。そのはるか向こうで何かが光っていた。彼は目を凝らした。するとそのものがグーンと近づいてきた。涙滴型の巨大なもの。それは目だった。すべての闇を覆いつくすほど膨れ上がった巨大な目が、彼をじっと見つめ、そして瞬きした。佐伯は悲鳴を上げた。
「先生、一体どうされたんですか?」
佐伯の叫び声を聞きつけて、通信室からパーネルが駆け戻ってきた。放心状態の佐伯の肩をつかみ、激しく前後に揺さぶった。
「目だ!」佐伯が叫んだ。「顕微鏡の中から目が見返してきた……」
「なんですって!」
あわててパーネルが実体顕微鏡を覗き込む。
何もなかった!
少なくとも、それまで佐伯が見ていたはずの動植物の細胞コロニー以外には……。
「先生、何もありませんよ」
「そんなばかな!」
荒々しくパーネルを脇に退かせると、佐伯が実体顕微鏡を覗き込んだ。
すると、そこには無線通信士のいった通りの光景があった。
目など存在してはいなかった。
通信室では急き立てるように無線機が鳴っていた。パーネルは佐伯と通信室を二、三度とっかえひっかえ見返すと、無線に出るために隣室に向かった。
「緊張が続いて、疲れきっているだけよ、先生」
部屋を出る前に、最後にパーネルが佐伯にいった。
「ああ、本当にそれだけならいいんだがな……」
人気のなくなった簡易実験室の戸口に向かい、佐伯がよわよわしく呟いた。
「だが、どうしてこの惑星の生物は……」
そして、それまでに彼が感じていたもうひとつの疑問が口についた。「こんなにも地球の生物とよく似ているのだろう?」