2 ティプラーのシリンダー
佐伯がブリッジに駆けつけると、この三ヶ月の航宙のあいだにすっかり馴染んだ七人の乗組員――男四人と女三人――の姿がある。みな、所定の位置に待機している。
「全員揃ったようだな」
船長のリチャード・A・ワイスコップが言う。
「では現在の状況を説明しよう。カウフマン、頼む」
長身、痩せ型の男が船長の言葉を受けて、一同の前に進み出る。
「既にみんな、船長からおおよそのことは聞いていると思うが」
マリー・アントワネット二世号の科学班長ジョン・カウフマンが言う。
「我々がつい今しがた――正確には七分二十二秒前――に突入したのは本船の時空センサーや他船の報告から考えて、どうやらティプラーのシリンダーらしい、ということがわかった。俗にいうスターゲートのことだ。詳しい解析は現在コンピューターが行っている。記録によると過去三十二年の間にティプラーのシリンダーに突入した一般航宙船数は十七隻。そのうち三隻が現在まで所在が確認されていない」
「ちょっと待った、科学班長」大男の黒人機関士ロイ・メルがカウフマンを遮る。「解説中、大変申しわけないんだが、そのティプラーのシリンダーってのは何なんだ!」
「ひとことでいえば、タイムマシンのことよ」
無線通信士のエブリン・パーネルが横合いから答える。
「充分な長さを持つ回転する円筒状物体は、その回転速度が光速に近いとき、タイムマシンとして機能する」
「そして、より正確には」航路算定士のリーザ・ペトローヴナがつけ加える。「シリンダーの長さ掛ける回転速度(|角速度)が光速の二分の一より大きいとき大局的因果律が破られるのよ」
無線通信士をチラと見つめ、
「フランク・J・ティプラーが合衆国国立科学財団の協力を得て一九七四年に発表した『回転するシリンダーと大局的因果律違反の可能性』の理論は、そもそも一九四九年にクルト・ゲーデルが示唆した宇宙項がゼロでないアインシュタイン方程式の解に端を発したもので、これは回転する宇宙像を示したものだったんだけれども……」
「お二人さんの博識には敬意を払いますがね」機関士のロイがうんざりしたように言う。「今おれが知りたいのは科学的厳密さじゃないんだ」肩を竦めて首を左右に振る。「そのシリンダーがおれたちにとって脅威になるかどうかってことだ」
「ロイのいう通りだ」ワイスコップが口をはさむ。通信士と航路算定士に目をやり、「きみたちは、しばらく黙っていてくれないか」
二人がしぶしぶ首肯く。それを見届けて、
「では、カウフマン、続けてくれ」
ワイスコップが言うと科学班長が改めて一同を見まわす。
「先ほども説明したように、これまで確認されたティプラーのシリンダーに突入した航宙船数は十七隻で、そのうち三隻が行方をくらましている。言い換えれば残りの十四隻が特に破損もなく我々の時空に帰ってきたことになる。簡単な算術だな。もっとも、その帰還には二時間から四週間の過去または未来へのラグタイムがあったわけだが……。つまり、うまくいけば十七分の十四の確率で、我々は助かるだろうということだ。この答でいいかい、ロイ?」
黒人機関士がこくりと首肯く。
「そう悪い確率じゃないですな」
「ひとつ聞いていいかしら?」
船医の温麗華が腕を組んでから尋ねる。
「どうぞ、ドグ・温」と船長。
「これまで、そのシリンダー場の中に捕えられた人間に何か異常があったという報告は?」
「それは、ありません」
「ありがとう、科学班長」
その名に違わず美人で、しかも聡明な船医がカウフマンに礼を言う。
「ということは、今のところわたしの出番はないようね」
「シリンダーを潜り抜けて帰ってきた連中の中には、その体験に神秘性を感じて宗教家になっちまった宇宙船乗りもいるって話を聞いたことがあるぜ」
一等航宙士のフェルナンド・ミリオリーニが船医に言う。
「そういったのも、あんたの仕事の範疇じゃないのか?」
「それが、この船内で起こればね」
一等航宙士に涼しい目を向けるとドグ・温が答える。
「さあさあ、また無駄口が始まったぞ。困った連中だな」
ワイスコップはそうぼやくと、肩を竦め、彼の船、マリー・アントワネット二世号の乗組員のなかで、ただひとり自分の部下ではない惑星免疫学者の佐伯啓介に呆れ顔をして見せる。
「いつも、こんな調子なんです。なんともはや……」
が、実際のところ、佐伯は彼ら乗組員たちの馴れ合い的なユーモアのセンスとでもいうべきものに感動中だ。船が現在陥っている状況を真剣に考えるなら、常人ではとてもそんな感覚ではいられまい。おれたちは宇宙の孤児になりつつあるんだ、と佐伯は思う。もう泣こうが喚こうが、二度と故郷を見ることはできないかもしれない宇宙の孤児に……。が、ここに居合わせた連中ときたら、少なくとも表面的には、そんな恐怖をおくびにも見せていない。これが、荒くれの宇宙船乗りたちの気質なのか? 佐伯は乗船して初めて彼らのもうひとつの――そして、おそらくは本来の――顔を見たようだ。
「わたしからも、ひとつ質問してもいいかな?」佐伯が言う。
おれもあんたたちの仲間になってやろうじゃないか! 少なくとも、この状況が続く間は……。
「なんなりと、先生」科学班長が応える。
そこで咳をひとつしてから佐伯が尋ねる。
「ティプラーのシリンダー、つまり通りのいい名前ではスターゲートの実際の機能は航時機というよりは物質転送機だと思うんだが……」
「つまり、宇宙が常に動いているってことね」通信士のパーネルがまたしても口をはさむ。「月は地球に対して、地球は太陽に対して、そしてその太陽は銀河系の中心に対して時間とともに位置を換えていますからね」
「いいから黙って先生のいうことを聞けよ」
一等航宙士のミリオリーニがニヤニヤしながらパーネルを遮る。
「あんたは子供の頃、人の話は最後まで聞けって教わらなかった口だろう。それとも、そんなことさえ憶えていないくらいお転婆なガキだったのかね?」
「ふん、よけいなお世話よ!」
エブリン・パーネルがぷいと横を向く。
困ったな、という表情を浮かべて佐伯が言う。どうやって言葉を継ごうかと考える。そして、
「いや、私が聞きたいのはそういった科学的な問題じゃないんだ」
ややあってから佐伯が言うとマリー・アントワネット二世号の全乗組員が首を傾げながら佐伯を見つめる。
「じゃあ、一体、先生は何が知りたいの?」とペトローヴナ。
「単刀直入にいうと、外が見たいんだよ。もし私たちが本当にスターゲートの力場のなかに捕えられているとしたら、その超常空間の眺めは、どんなものだろうかと思ってね」
佐伯が言い終わるまえにカウフマンがパチンと指を鳴らし、ブリッジのメインスクリーンをオンにする。
「もちろんこの様子は、初めからコンピューターとリンクして光学記録はしているんだが」
カウフマンが言うと、
「さすがはジョン」とエブリン・パーネルが素早く言葉を添える。「やることが抜け目ないわね」
当然という顔つきで科学班長が首肯く。乗員全員がメインスクリーンを凝視する。
うごめく霧だ! それも色つきの、と佐伯がその光景を感じとる。青から赤までの幅七六〇ナノメートルほどの光がその百倍にも千倍にも分光され、さまざまな濃淡を作りながら、一時も休むことなくきらきらとスクリーンの中で踊っている。いや、それどころではない。今にもそこから溢れ出て、ブリッジ内に侵入してきそうな迫力だ。
「まあ、きれい!」と無線通信士が叫ぶ。「まるで虹を細片に切って海の上にばらまいたみたい」
「生きてるみたいに脈動しているな」ロイ・メルが感想を述べる。
「紫方偏移のせいかな? 全体が青みがかって見える」一等航宙士が呟く。
「わたしにいわせれば、ドラッグ患者の幻覚ね、これは」
大きく肩を竦めると、ドグ・温が言う。
メインスクリーンのサイケデリックに明滅する色彩に目をこらすとリーザ・ペトローヴナが不思議そうに船医に尋ねる。
「麗華さんって、ひょっとすると、昔、麻薬中毒患者だったわけ?」
「どうして?」と船医。
「だって、そうでもなきゃ、幻覚の中味なんてわかるわけないでしょう」
「違いないな」
フェルナンド・ミリオリーニがニヤニヤしながら断定する。
「今度女医に診てもらうときは注意したほうがいいな。なにせ麻薬中毒患者は仲間を求めるって話だから」
「なによ、フェル、あんただって昔は閉所恐怖症だったじゃないの」船医が言う。「それが今では立派な宇宙船乗りとはね」
「へえ、彼女、自分から麻薬中毒患者だって認めちまったぜ」
「少し黙っていてくれないか!」
船長のワイスコップが苛立ちを隠せない声で二人を遮る。
「この船では個人的な諍いはよしてくれ」
ワイスコップの怒声に全員が静まりかえる。
沈黙。
「済みません、船長」
「済みません、船長」
フェルナンド・ミリオリーニとドグ・温の二人が同時に謝罪する。
「謝るなら、おれにではなく、きみたち双方にだろう」
船長が厳しい目で二人を見つめる。
「もっとも、生きて再び故郷に帰れたときは、存分にやってくれてかまわんぞ。船長のこのおれが許す。『喧嘩するほど仲がよい』という諺もあるくらいだからな」
船長が表情を緩める。船医と一等航宙士がお互いの顔を見つめると大きく肩を竦め、それからぷっと吹きだす。船内になごやかな雰囲気が戻ってくる。航路算定士が何気なさを装ってチラリと二人を見つめる。
「悪い夢を見なければいいが……」
佐伯がポツリと呟く。
「この色彩は、私には強烈過ぎる。職業柄、みんなが気味悪がる浮腫みたいな浮遊生物とか、湿地に密生する群体ポリプなんかは平気だが……」
「同意しますよ、先生」
カウフマンが佐伯に言う。左腕の時計を見つめ、
「さてと、十分は経ったな。我々が生き残れるにせよ、そうでないにせよ、あと二、三分で解答が出るってわけだ」
「どういうことだ?」と黒人機関士。
「スターゲートに突入して帰還したこれまでの航宙船の報告によれば、船がゲート内にいた時間は十五分程度だったそうだ。もちろん、主観時間でだ」
「わくわくするわね」無線通信士が小娘のように華やいだ声で言う。「わたし、お祈りしようかしら」
「あんたがか、エブリン?」機関士のロイがおどけた調子で口を挾む。「よせやい、気味が悪い」
「ともかくだ」と二人の言い争いを制するようにワイスコップが言って全員を見まわす。
「わずか数分のあいだのことだ。その間、静かに動静を見守ろうじゃないか、愛すべき船員諸君!」