32 ある懸念
スターゲートを潜る数時間、マリー・アントワネット二世号の乗員それぞれは寛いで過ごした。すでに肝が座ってしまったのだろう、全員、何があっても驚かないぞという顔つきをしている。
「『歩く哲学惑星冒険記』なんて題名で本を出したら、売れるんじゃないかね?」
「いやあね、この中に文才のある人なんていないわよ」
「それにしても気にかかるのは、基底現実と励起現実の存在論的差異ですね。やはり、原子や分子の励起状態とは同列に比べられない」
「難しい話はよしにしましょうや、科学班長。ガブリ、しっかし、これ、慣れるとなかなかいけるぜ」
「おれが感じる危険はだな、つまり、ヘーゲルの弁証法は収容所国家を生んだし、西田の場所の論理は、結局のところ当時の若者を聖戦に駆り立てることしかできなかってことんなのさ」
「何いってんのよ、付け焼刃は刃こぼれするわよ」
「でも、フェルのって結構立派なのよね。びっくりしちゃった。今度私のこと抱いてくれない」
「だーめ、フェルはわたしのモンよ。ねえ、麗華さん」
「いきなりこっちに振らないでよ。これでもわたしは傷心の身なんですからね」
「お、いいねえ、いい女は愁い顔が一番」
「ばか。あんたって、ほーんと、進歩しないのね」
笑いがさんざめく。
「船長、ちょっとお話があるのですが」
そういった賑やかな船内の空気とは異質の口調で佐伯がワイスコップに告げた。
「できれば、人のいないところで……」
金属採鉱船船長は黙って頷くと、あんまり羽目を外すんじゃないぞと笑顔で船員たちを一喝してから、艦橋の外に出た。
「なんでしょうか、先生? その顔つきでは、あんまり良い話とは思えませんが……」
「ええ、確かに、浮き浮きするような話ではありませんね」佐伯が応えた。
航宙船の廊下は冷え冷えとしていた。船員たちの笑い声から遮断されて、ひっそり閑としている。常夜灯の明かりだけが、やけに眩しく輝いて見えた。
「〈惑星検疫の仮定〉の話ですか?」
船長室に入ると、ワイスコップが先に切り出した。
「ご存じでしたか?」
驚いて、佐伯が言葉を返した。
「ですが、どうしてそれを……」
「高次レベルの励起現実に囚われていたとき、ジョンがふと口にしたんですよ。それほど多いというわけではないが、これまで発見された惑星のいくつかにはまさに惑星検疫の名に値する散逸構造系が発見されたのに、何故もっともよく知られた惑星、つまり地球にはそれに相当する現象がないのか、とね。もちろん、気象現象だとか、生体系、社会活動などの、ありふれた散逸構造系を抜きにしての話ですよ」
佐伯は薄くなった頭髪を二、三度撫ぜるようにかき毟ると、意を決してワイスコップに告げた。
「くどくど説明しても仕方がないのではっきり申し上げますが、西田の論理の拡張版ともいえる山内のレンマの論理から導かれた地球におけるその排除対象は〈高次レベルの存在と出会ったもの〉となることが、計算の結果、判りました。宗教的な意味での高次存在と物理学的な高次存在が同一のものかどうかは知りようがありませんが、さらに計算機にその対象に属するものを尋ねると〈あなたがた〉と解釈できる答えが返ってきました」瞬間、言葉が途切れる。「つまり私たちは、二度と地球に帰りつけないのかもしれません」
ふっと大きくため息をつくと、ワイスコップが応じた。
「『預言者、故郷に入れられず』ですな」
彼の瞼の裏に磔となったメシア・キリストの姿が浮かんだ。そこに一瞬、群衆から石を投げられる自分たちの姿が重なり……
「今度の事件を通してはっきりわかったように、人間の心は形式論理の思考をしません。いわゆる理性では動かないのです。だから……」
「先生、逆に、それを信じてみようという気にはなりませんか?」
ワイスコップが佐伯の話に割って入った。
「え?」
「だから、その理性的でないところを信じてみるんです」
ワイスコップは苦笑した。
「確かに私たち人間は愚かかもしれないし、ときには無謀なことも行いますが、いつもいつも愚かだったというわけではありません。この船が、いまここで航宙しているようにです。そこに賭けてみませんか?」
腕組みをすると、やはり苦笑して佐伯が答えた。
「たぶん、そういわれると思いましたよ。……人間がお好きなんですね」
「金属採鋼船の船長なりにね」
ワイスコップがはにかみながら答えた。
「私もです」
佐伯が同意する。
「一介の惑星免疫学者なりにね」




