31 帰還
ヒュウと風が唸り、一天俄かに掻き曇った。辺りの空気が震えている。金属性の鋭い唸りが一瞬のうちに森全体を覆い尽くした。キーン、キーンと、唸りは次第に強まってくる。
「先生、こわいわ!」
佐伯の傍らでエブリン・パーネルが叫んだ。
「いったい、この森、どうしちゃったのかしら?」
佐伯はいった。
「まあ、そう怖がりなさんな。秩序ってものは、少し冷静になって眺めれば、いつだって、いくらか気味の悪いものなんだよ!」
佐伯は震えるパーネルを左腕で抱き寄せると、金属音とともに強まる風に負けまいとして、自らも大声を張り上げていった。
「見てごらん! たぶん、あの人影が船長たちだ!」
果たして佐伯の指差した中空の一点には、欝蒼と茂った森の木立と二重写しになって、なにやら判然としない人影が蠢いていた。
言葉の断片が聞こえてくる。
つまり、シリンダー生物に
できるのは原子や分子
でいえば
電子状態間の 遷移で、そのなかに含まれる振動
や回転 準位間の
移動は駄目なの でしょう。だから、
その間の 移動には、散逸構造の 複雑な絡みが
必要なのです。
科学班長の 説明、 今回は
特によく、 わかり ませんね。
『知者は水を楽しみ、 仁者は山を楽しむ』
の喩えだな。
おれた ち仁者は 心の安らかさ
を重んじれば いいのさ。
「ジョン、ロイ、それに船長!」
その声の断片を聞きつけて、パーネルが叫んだ。
「みんな、無事だったのね!」
初め朧げだった人影は、たちまちの内に像を結んだ。透けた肌に色が染み込み、くっきり際立った光の輪郭が周囲の風景から切り離された。まるで墨絵に色が塗られて、描かれた人物が、そのまま跳びだしてきたみたいだわ、とパーネルは思った。三人の宇宙船乗りの姿が完全にこちら側の風景領域に属したとき、右手を伸ばすと、すかさず彼女はいった。
「おかえんなさい、船長、科学班長、そして宇宙一の機関士、ロイ・メル将軍」
「へへへー」
マリー・アントワネット二世号の黒人機関士は答えた。
「身に余るお言葉感謝しますよ、宇宙一勇猛果敢な無線通信士のエブリン姫」
「あら、わたしは勇猛果敢なだけなの?」とパーネルが切り返す。
ロイが答えた。
「いや、失礼。宇宙一勇猛果敢で、しかも比ぶべき相手もいない、宇宙一の美女の姫様」
「よろしい」
いって、パーネルは笑った。その笑いに引きつられて、残りの四人も笑顔を浮かべた。
ワイスコップが佐伯にいった。
「今回は先生に大変お世話になってしまいました。どうも、ありがとうございます」
深深と頭を下げる。
「いや、私の方こそ勉強になりました」佐伯が答えた。
二人がきつく握手を交わす。が、佐伯の表情はいまひとつさえなかった。それは、どうやら正気に戻ったらしい無線通信士を思ってのことではなく、マリー・アンワトネット二世号の大型計算機とリンクされた小型調査船の計算機が弾きだしたもうひとつの解答が気になってのことだった。
「ところで、フェルは?」
「おい、あれを見ろ!」
ロイと軽口を叩き合っていたパーネルが帰還者の中にミリオリーニがいないことに気づき、まだ納まらぬ森のゆらぎを目で探ると、そこに実体化しつつある二つの塑像の姿が浮かび上がった。全裸で複雑に絡み合った塑像は急速に人間の肌の色を帯び、彼ら一行からさほど遠くない位置に実体化した。
「ねえ、あれ、フェルとリーザよ」
パーネルが首を捻った。
「フェルはともかくとして、どうしてリーザがここに?」
「船長の出番です」
ワイスコップの背を軽く叩くと、カウフマンがいった。
「約束ですからね」
ワイスコップが重々しく頷いた。
「ねえ、なにが始まるの?」とパーネル。
「ユング心理学の応用だってさ」ロイが答えた。「どうも今回は、おれのわからんことばっかり起こる」
すでに塑像は人間となり、立ち上がったミリオリーニは船長めがけて駆け出していた。パーネルは自分の上着を渡しに、ペトロヴーナのところに向かった。
青年ミリオリーニがいった。
「やあやあ、にっくき敵、西の国の大王、略奪と搾取の始祖、リチャード・アルメリック・ワイスコップ王よ。ここで会えたが百年目、いざ尋常に我と勝負せよ!」
言葉はアナクロだったが、ミリオリーニの表情は真剣そのものだ。
「うむ」ワイスコップが答えた。
実際、彼はそれ以外になんと答えてよいのかわからなかったのだ。
「お相手いたそう」
佐伯は苦笑を浮かべてその光景を見ていた。彼は思った。どうやら、おれひとりが学芸会の参加者ってわけじゃなかったようだな。やれやれ……。だが、どちらが勝っても、たぶん事態は丸く納まるのだろう。佐伯は戦う二人がどちらも剣を持っていないことに感謝した。とくと見物させてもらうよ、お二人さん。
初めにミリオリーニが攻撃を仕掛けた。強い図突きでワイスコップの胸を打ったのだ。一瞬たじろいだが、ワイスコップはすぐに反撃に転じた。鋭い手刀がミリオリーニの肩を打つ。ミリオリーニが「うっ」と叫んだ。ワイスコップも必至だった。なにしろ相手は若くてタフだ。手心を加える余裕はなかった。すかさずミリオリーニがワイスコップに跳びかかった。もんどり打って、二人が倒れた。ミリオリーニが上になる。ワイスコップが相手の腕を掴んで巴投げをかけた。彼には柔道の心得があったのだ。が、その一瞬後、猫のようにしなやかに受け身を返して、ミリオリーニが立ち上がった。ワイスコップも立ち上がる。技はかけられないな、とワイスコップはいまの経験から判断した。向こうは裸だ。手をかける場所がない。相手の突進を誘い込まなければ、柔道本来の技はつかえない。
一方、ミリオリーニも思っていた。くそ親父、なかなかやるじゃないか!
戦いはそのまま延長戦にもつれ込んだ。相手を牽制しながらの喧嘩技が乱れ舞った。勝負は互角だ。が、ワイスコップの息づかいがいくらか荒い。くそっ、好い加減に目を覚ませ、フェル。ワイスコップは思った。その一瞬の思いが油断となったのだろう。ミリオリーニの鉄拳がワイスコップの顔面に炸裂した。こんの野郎! 息を吐き出しながら頭を振ると、ワイスコップは再び自分の顔面に繰り出されたミリオリーニの腕を掴み、投げ技をかけた。ミリオリーニの身体が宙を舞う。が、彼も疲労していたのだろう。受け身ができず、もろに背中から地面に落ちた。が、回復は速く、すっくと立ち上がると突進して、ワイスコップの腹に強い一撃を加えた。ワイスコップが苦しげに呻く。と、そのとき、ミリオリーニの目の色がふいに変わった。憑物が落ちたのだ。身のこなし素早く、構えの姿勢をとったミリオリーニの目に、すでにワイスコップに対する敵意はなかった。
ミリオリーニのその微妙な変化に最初に気づいたのは、誰あろう、対戦相手のワイスコップだった。彼はやっとの思いで持ち上げた両腕の構えを解くと、数歩ミリオリーニに近づき、いった。
「フェル! 正気に戻ったか?」
一等航宙士を見据える。
ミリオリーニが答えた。
「船長?」
彼の言葉は覚束なげだ。
「おれは、どうして、ここで、なにを?」
ミリオリーニはあわてて辺りを見まわした。見知った顔がいくつもあった。ロイ、ジョン、エヴ、佐伯、そして、リーザ。素肌にパーネルの長いジャケットを羽織ったリーザ・ペトローヴナを見たとき、ミリオリーニの顔に理解の表情が浮かんだ。そうか! 彼女がおれの自己同一性の危機を救ってくれたんだ! そう思ったとたん、素裸の彼の男性シンボルがむくむくと首をもたげはじめた。
「武士の情けだ、フェル。こいつを羽織れ」
ワイスコップがいい、彼は自分のジャケットをミリオリーニに投げて渡した。ミリオリーニは真っ赤になりながら、後ろを向いてそれを腰に巻いた。
「吮疽の仁(部下をいたわること)ですね、船長」
ジャケットを巻き終わると、振り返ってミリオリーニがいった。
「ありがとうございます」
その一等航宙士の言葉を聞いて、ワイスコップが頼もしげに首肯いた。素足の航路算定士は逞しい裸の青年を見つめて涙を流している。
ワイスコップの尻ポケットで無線機がビーと鳴った。
「こちら船医です、船長」
惑星周回軌道上の温麗華がいった。
「ご無事で何よりでした」
すでに彼女は惑星探査とオープンの無線信号から船長たち一行の帰還を知っていたのだ。
「ありがとう、船医」とワイスコップ。「なにか変わったことでもあったのかな?」
船医が答えた。
「はい。できましたら、船長、一刻も早くご帰還された方がよろしいかと思います」
「というと?」
「数光秒先の宙域でスターゲートが口を開けているのを発見したからです」
「本当か?」
「はい」
「わかった、すぐそちらに向かう」
「お気をつけて」
「了解した。……わざわざ、ありがとう、船医。以上だ」
ワイスコップは無線機を切った。カウフマンに顎をしゃくる。
「どう思う?」
「率直にいえば、話ができすぎていますね」カウフマンが答えた。
「うむ、おれもそう思う。だが、彼女が告げたように、シリンダーが形態の違う平衡状態間で時間発展するエネルギー変化を常食とする反エントロピー生物だとすると、先生の投じてくれた餌は、彼らにとって、かなり美味いものだったとも考えられるぞ」
「もしかすると彼らは自分たちの餌、あるいは餌の味つけのために、航宙する宇宙船を浚っては、またもとの時空に返しているのかもしれませんね」
そういうと、カウフマンは考え深げに腕を組んだ。
「うーん、おれにはとんと想像がつかんな。そもそも、そんな時空構造そのもののような奴が生物だということが信じられん」
「エネルギー代謝をするというのが、生物の定義のひとつです。それと生殖器能を持つことが……」
「奴が子供を生むというのか? それこそ、信じられんな」
ワイスコップは嘆息した。そして、なにげなく常態に戻った森の木々に目をやった。
すると――
「おい、あいつら、いつの間に現れたんだ!」
ワイスコップの言葉に全員が樹上を見やった。そこには、いつの間に集まったのか、数十匹の猿様生物がいた。それぞれが手に何かを持っている。そのうち一匹が彼ら一行に向かって、ふわりと、そのなにかを投げた。すると、それが誘い水であったかのように、次々と猿たちが彼らの頭上にその何かを投げ降ろした。マリー・アントワネット二世号の乗員たちは適宜逃げまわった。
そのなにかのひとつを両手でしっかと受け止めると、大柄の黒人機関士がいった。
「船長、これ、食いもんですぜ!」
そして佐伯の制止も聞かず、彼はその林檎大の果物にガブリと噛みついた。
「うっ」
ロイが唸った。
「大丈夫?」
「おい、平気か?」
「馬鹿野郎、ここまできて、なんで……」
何人かが口々にいう。が、数秒後、なに食わぬ顔でロイが答えた。
「船長、これ、食味が違いますよ。甘くも、辛くも、しょっぱくも、苦くもなくて、むちゃくちゃにコクがあって、すっぱい」
彼は笑った。
「でも、へへ、食えそうですぜ」
その場の全員から歓声が上がった。
「よーし、引き上げだ!」
ワイスコップが全員にいった。
「シリンダーが消えちまったらことだからな。急ぐぞ!」
船医、温麗華を除くマリー・アントワネット二世号の七人の乗員は、その惑星の猿様生物がくれた不思議な味の果物を二台のジープとバイクに一杯に積み込むと森を後にした。彼らの去った森の中では数十匹の猿様生物が一斉に歯を剥き出してにっと笑い、そしてそのまま色とりどりの野鳥の姿に変わった。




