29 呪文
神話を語る舌を持たねば
自らが神話となるよりあらざるよユラギ……
* * *
自分の居る場所に走り寄ってくる佐伯に気がつき、エブリン・パーネルが大きく手を振って叫んだ。
「せんせーい。わたしはここよ!」
動きの止まった木々の間から、佐伯の荒い息づかいが聞こえてくる。はぁはぁはぁ、と。やっぱり若くはないのね。エブリン・パーネルは思った。船長ほど逞しくもないみたい。フェルとも、ロイとも、科学班長とも違うわ。けれども彼女は、佐伯のどこか子供らしさを残した目の輝きに惹かれるものを感じていた。お父さんっていう年齢じゃないわね。彼氏? 恋人? うーん、せいぜい、お兄さんっていうところね。
「はーい、元気してた!」パーネルが叫んだ。
(こりゃ駄目だ、完全に子供に戻っている)佐伯は思った。
肩を竦めてパーネルにいう。
「とにかく、無事でいてくれてよかった! はぁはぁ。来るのが遅れて済まん。はぁはぁはぁ」
荒い息がなかなかもとに戻らない。
「歳は取りたくないねぇ」
「歳は取りたくないわね」
二人で同時にいった。
笑う。見つめる。見つめる。見つめる。見つめる。表情が緩む。また笑う。微笑がこそばゆい。
「もう終わっちゃったわ、リスと木のダンス」パーネルがいった。「先生、来るのが遅すぎるのよ」
「いや、済まんな」佐伯は答えた。
我ながら面白みのない返事だと思いながら……。
「私をほっぽっといて、調査船で一体何をしてたの?」パーネルが問う。
「船長たちとの連絡の方法を考えていたんだ」佐伯が答えた。
「ふうん、そう。で、それ、見つかったの?」
「何とかね」
佐伯はできることなら、この役割を誰かに代わって貰いたいと思った。年端もいかない子供に戻ったような気がした。学芸会か謝恩会で舞台に登り、練習のときには何とかこなした架空の空々しい台詞を、改めて観衆――その中には、もちろん両親もいた――の面前で再び繰り返さなければならない、あの胃の痛くなるような、気恥ずかしい、自意識過剰の精神状態を思い返して、とにかく気が滅入った。だが、あのときはまだよかった、と佐伯は過去を振り返った。あの頃、自分には何の悩みもなかった。人生の垢にまみれていない分だけ、未来は可能性に満ち溢れていたのだ。無論、子供の自分には反論があるだろう。宿題とか、友人関係とか、淡い恋心とか、生命の不思議とか、植木算や鶴亀算をマスターしたときの感激とか、大人になるまでに取りこぼしてしまったいくつもの悩みや新鮮な感動を、もしいま問いかけたなら、子供の自分はいきいきと語るに違いない。だが、と佐伯は思った。子供のおれは生命の危機に直面することはなかった。自己同一性の危機に晒されることもなかった。
佐伯の心は移ろった。
勉学にしか興味がないと本人さえそう思っていた男を追いかけて海を渡った女は、結局待ち切れずに男の元を去った。無い金をはたいて買った真実と誠実のペリドットは、貰われる相手もなく宝石商に返された。身ひとつ、バイクひとつの気ままな旅。そうだ、旅に出て半年後に変わった娘に出会ったな。名はアイリスといった。麻薬中毒患者の娘だった。アイリス、虹の女神か。懐かしいな。ほんの一時期にせよ、おれは彼女の止まり木になれたのだろうか? 佐伯は思った。あの娘、まだ生きているのかな?
「先生、どうしちゃったの? 急に黙り込んで……」
そして、いまおれの傍らには若い娘がいる。上目づかいでおれを見つめている。安心して、頼りきった目だ。佐伯は苦笑した。まあ、いいだろう。これもまた一興だ。佐伯は腹を括った。
「呪文を唱えるときには精神の集中が必要なんだよ」
パーネルの頭を二、三度軽く撫ぜると佐伯はいった。
背広の内ポケットから、くしゃくしゃになった紙片を取り出す。メッセージの書かれた紙片だった。大地を踏みつけるようにして立ち、曲げた人差指と親指の間に紙片を挾むと、まっすぐ前方に突き出した。
マリー・アントワネット二世号の無線通信士はキョトンとした顔つきで佐伯を見つめている。なにが始まるのかしら? でも、面白そうね。
佐伯ははじめた。
「聞け! 天よ、地よ、木の精よ。汝等の背後に隠れたる現世の諸相を曝け出せ! 我が言の葉の儘に真の姿を見せしめよ!」
佐伯は大声でそう叫んだ。もはや羞恥心はなかった。傍らで、うっとりと自分の言葉に耳を傾けるエブリン・パーネルを愛おしく感じた。彼女は子供のような目をきらきらと輝かせて彼を見ていた。佐伯は再び苦笑した。どうやら、おれには潜在的にロリータ・コンプレックスの気があるようだな。そして彼はついにキーワードとなるメッセージ=マントラ(呪文)を口にした。
「神話を語る舌を持たねば自らが神話となるよりあらざるよユラギ!」




