28 秩序
「そのことについてはわたしからお話しましょう」
リーザ・ペトローヴナERは三人の宇宙船乗りにいった。
「あなたがたの科学でも、宇宙が真空の量子場ゆらぎから生じたことは常識になっているのではないかと思います」
そういって、彼女はカウフマンを見つめた。
カウフマンが首肯く。
「原初の宇宙に真空ゆらぎが生じると、真空は自然にプラスとマイナスに分極して、ゆらぎ全体ではすべての物理量の合計が常にゼロとなった形で分化・発展していきます」
「そりゃあ、はじめがゼロだったんだから、いつまでたってもゼロはゼロでしょうね」
ロイが口を挟んだ。彼は自分の知っていることをもうひと言ふた言呟きたいと思ったが、船長と科学班長に睨まれたので、それは別の機会に譲ることにした。
励起現実の女性はいった。
「やがて宇宙が膨張して冷え、エネルギーが物質に固定化されはじめますが、そのとき、宇宙の分化にとって重要な相転移と対称性の自発的な破れが生じました。……相転移とは水蒸気(気体)が水(液体)、または水が氷(固体)に変わるような変化のことで、宇宙のエネルギー分化に関係します。対称性の破れとは、初めに方向がなかった空間に前後、左右、上下という区別がつくようになる現象のことで、宇宙の真空構造に関係すると表現すればいいでしょう。例えば、机の上にりんごを置くことを考えてみます。その場合、りんごは上向き、下向き、横向きのどの方向にでも置くことができますが、選んだ方向によってりんごの性質が変わることはありません。りんごの代わりに模様のないボールを置くことにすれば、前後左右上下の区別もつかなくなります。区別をつけるためにはボールを別の場所に置く必要があります。ところで、真の真空とは原理的にどんな対称操作によっても区別されることはありません。それが真空の定義だからです。ゆえに真空とはただひとつしかなく、その中に物質を置くことによって初めて多様性が生まれ、同時にエネルギーも高くなります」
リーザ・ペトローヴナERはそこまでを一気に説明すると、穏やかな表情でカウフマンを見つめた。その眼差しは、どう、もうそろそろわかってきたかしら? といいたげだった。彼女は続けた。
「ところが真空の量子場ゆらぎに、いまさっき説明した自発的対称性の破れの考えを取り入れますと、真空は自然に分極し、その中にエネルギー差が生まれることになります。つまり、あなたがたの基底現実は量子宇宙の励起真空に対応しているわけです」
「あの、ちょっといいですか?」
ロイがワイスコップとカウフマンの顔色を窺いながら、おずおずと手を上げた。
「どうも、よくわからないんですが、対称性の自発的破れってのは、いったい何なんですか?」
続けてワイスコップも訊ねた。
「簡単な例を上げてくれると助かるんだが……」
カウフマンがそれに答えようとしたが、ロイが嫌がった。
「できれば、へへ、そちらの美しい人に」
マリー・アントワネット二世号の科学班長は肩を竦めた。目でリーザ・ペトローヴナERに説明を促す。それを受けて、彼女が答えた。
「うーん、例えば、パーティーの会場で円形のテーブルに椅子を埋めるだけの人が座っているところを想像してみてください」
ロイとワイスコップが目を瞑った。
「それぞれの席の前にはナイフ、フォーク、ナプキンなどのセットが並べられています。隣の席との間隔が狭いため、それらのセットのうちナプキンは左右どちらが自分のものなのかわからない状態にあるとします。これが、対称性が破れていない状態です」
黒人機関士と船長が目を瞑ったまま大きく頷く。
「次に、テーブルに着いたお客のうち誰かひとりが自分の右側のナプキを取ったとします。すると、他のお客もそれにならって次々と右側のナプキンを取らざるを得ない状況が生じます。これが自発的対称性の破れなのです」
「つまり、初めは左右どちらのナプキンを取ってもいいという状況であったものが、客のひとりがたまたま右側のものを取ったために、右側のものしか取れない状況が作り上げられてしまった、と、そういうことですね」
ワイスコップが訊いた。
「はい、仰るとおりです」
励起現実の女性が答えた。
ロイは首を傾げている。
沈黙。
「もっとも問題なのは、真空に生じたそのエネルギー差を取り込んで、いくつもの状態間を繋ぐ存在が生まれてきたということなのです……」
リーザ・ペトローヴナERが不意にいった。
「その存在の吐き出す光子エネルギーが励起現実を成立させ、基底現実と励起現実間の行き来を自ら体現させている……」
カウフマンが息を飲んで、叫んだ。
「まさか、ティプラーのシリンダー?」
「ええ、そうです」
リーザ・ペトローヴナERが穏やかに答えた。
「彼らは宇宙の生き物なのです。形態の違う平衡状態間で時間発展するエネルギー変化を常食とする、反エントロピー生物」
彼女が静かにそう言い放ったとき、彼ら四人の存在する高次レベルの励起現実に、遠く、呼びかけるような声が聞こえた。たちまち空間がゆらぎはじめる。全体が透けてガラス繊維状になり、その向こうに、おぼろな森の姿が浮かび上がった。
「あなたがたの先生が、ようやく石を投じてくださったようです」
リーザ・ペトローヴナERがいった。三人の宇宙船乗りの顔をしげしげと見つめる。
「どうやらお別れのときが来たようです。わたしたちの考えが正しければ、おそらくあなたがたの先生の投じてくれたこのゆらぎは、次から次へと膨らみつつ、時間発展していくことでしょう。秩序が秩序を呼び、新しい平衡状態が、非平衡状態として、さらに新しい平衡状態を呼び寄せるのです」わずかに淋しげな表情を浮かべ、「お元気で。あなたがたのことは忘れません」
そして、最後に彼女はワイスコップにこう託けた。
「もうひとりのわたし、リーザ・ペトローヴナGRと約束しました『彼』の父親役をお願い致します」
彼らの前で言葉が形となって駈け抜けた。




