25 物語
フェルナンド・ミリオリーニはリーザ・ペトローヴナに抱かれながら、ゆっくりと齢を重ねていった。
リーザは初め母親のように、そして姉のように、若い女性のように、妹のように、恋人のように、彼を愛した。ミリオリーニも初めは拙く、そして徐々に逞しい男性性を発揮しながら、彼女の愛に答えた。二人の間で言葉が消え、行為が言葉となった。長い長い年月が流れた。
「ぼくは旅に出なければならないよ、リーザ」と、その世界で二十になったときミリオリーニはいった。「ここは確かに快適で、きみはとても愛おしいけれど、このままでは、ぼくは井の中の蛙だ。天国知らずの地獄在住者だ。ぼくは自己を確立するために旅にでなければならない」
恋人ペトローヴナは答えた。
「まあ、あなたはいったい、ここのどこが不足だというの? あなたがわたしを愛していて、わたしがあなたを愛しているのに、それ以外に、あなたはいったい何を求めるというの?」
「いいかい、よくお聞き、リーザ」とミリオリーニはいった。「この世の中には、たぶん、愛だけでは解決できない問題があるんだ。例えば、ぼくの胸の中に蟠る暗黒の渦。ぼくはその正体を、どうしても見極めなければならない。それが、ぼくに課せられた使命だからだ。許してくれ、リーザ。ぼくは行かなければならない」
「ふん、くだらない」とリーザはミリオリーニを鼻で笑った。「それなら教えてあげましょう、あなたのその胸の中の暗黒の正体を」
「なんだって?」と驚愕の表情を露に示しながらミリオリーニが叫んだ。「リーザ、きみはいま何といった?」
「聞こえなかったの、お馬鹿さんね」とリーザ。「ま、男なんて、皆そんなもの。女に飽きると、すぐに権力欲に取りつかれる。他人の幸せを踏みにじり、武勇譚と称して、自慢げにそれを語りたがる」
「リーザ、お願いだ、茶化さないでくれ? きみはぼくの暗黒の渦の正体を本当に知っているのか?」
すると――
「あなたは幼いころ父親に捨てられたのよ」と、あまりにも素気なくリーザが答えた。「国を滅ぼす悪い王子として、山の中の木の洞に。けれどもメス熊が、その乳を用いて、あなたを育てた。あなたはあまりにも幼かったので、その当時の記憶はもちろん持っていない。けれども、あなたの心には、暗く、湿った、無の思いが、しっかりと根づいてしまったのです」
リーザは悲しげに彼を一瞥した。
「あなたは父親を恨んでいるのよ」
「すると、すると、きみはそのメス熊なのか?」
驚きの心を隠さずにミリオリーニがリーザに尋ねた。
だが、リーザは答えなかった。ただ悲しげに首を振るばかりだ。ミリオリーニの眼が、一瞬、怒りに燃え上がり、困惑し、やがて失意の色に変わった。
「リーザ、きみはこれまでずっと、ぼくをたぶらかしてきたのか?」
リーザはその問いにも答えず、すっくと立ち上がると牛飼い小屋の開け放たれた小窓を差し示した。
「わかっていたわ」と彼女はいった。「いずれこの日がやってくることは……」
窓辺に近寄ると大きく溜息をつき、ミリオリーニに振り返った。
「おゆきなさい、あなたを捨てた父親のもとに。西の国の大王、略奪と搾取の始祖、リチャード・アルメリック・ワイスコップ王のもとへ」
彼女が手を大きく一振りすると、見る間に小窓が上下左右に延び、ミリオリーニが通り抜けられるほどの大きさになった。
「あなたの知恵と勇気を自覚するために……。そして自己同一性を確立するために、ここより旅立ちなさい」
彼女がそういうが速いか、いまや旅立ちの門へと変化した荒屋の小窓から中空に舞い延びる一本の白い道が現れた。道はゆるやかに延び、その先は流れる雲の中に隠れていた。
「行ってもいいのか?」
しばしの躊躇いの末、ミリオリーニがいった。リーザは横を向いている。その表情は、今更何を、といいたげだった。
「おい、聞いているのか、リーザ!」とミリオリーニは再度リーザに問いかけた。
けれども彼女は答えない。
ミリオリーニが立ち上がった。恐る恐る、白い道に近づいた。半身を乗りだして、その遠い道の果てを不安げに覗き込む。ついでリーザに向き直ると、柔らかいその髪を撫でた。灰色の眼の奥をじっと見つめる。
「ありがとう」ミリオリーニはいった。
そして二度と振り返ることなく、彼は白道を天へと駈け昇っていった。
荒屋の窓辺にひとり取り残されたリーザ・ペトローヴナは大きな溜息を吐くと、その小屋の柱の影に隠れた人物に呼び掛けた。
「もう、出てきていいわよ」
現れたのは蒼いサリーを纏った女性だった。長い髪、細い身体、灰色の眼と、その姿はどこをとってもリーザそっくりだった。
「これでいいんでしょう、もうひとりのわたし」リーザはいった。「嫌な役だったわ」
「でもそれが、いまの彼には必要だったのです」
中性的な声色で、その女性が答えた。
「わかってる。でも、わかるでしょう。あなたが本当に、もうひとりのわたしならね」
「お気持ち、お察しします」
「やめてよ、そんな他人行儀ないい方は……。怒るわよ」
リーザ・ペトローヴナは力なくそう呟くと窓辺に歩き、目を細めながら、逞しいフェルの姿を追いかけた。
「後は船長におまかせということね」リーザが呟く。「うまくやってくれるといいけど……」
「大丈夫ですよ、きっと」
励起現実の住人のひとり、リーザ・ペトローヴナERが答えた。そして、その目映く輝く掌をリーザ・ペトローヴナGRの肩にそっと掛け、
「ええきっと、大丈夫ですとも」と囁いた。




