22 レンマの理論
「気に食わねえな。全く気に食わねえ」
何処とも知れない光と闇の空間の中で黒人機関士のロイ・メルがぼやいた。
「だってそうでしょう、船長に科学班長。励起現実まではいいですよ。このおれにだって原理的に理解できないわけじゃない。でも、なんでその世界を司る支配原理が、ええと、なんつったっけ、あ、そうそう、レンマの論理でなきゃいけないんです。心の構造原理でなきゃね。……これは単なるおれの希望なんですが、宇宙の構造というものは、もっと数学的に洗練されたもんだと思っていたんですがね」
「まあ、そういいなさんな」
傍らにいたワイスコップが彼を宥めた。
「とりあえず助かって、確かに比喩的説明とは言え、それなりの答えが得られたんだから、おれは充分満足しているよ」
隣のカウフマンに向い、
「なあ、そうだろう。『郷に入れば、郷に従え』というやつだ」
カウフマンが答えた。
「ロイ、きみがレンマの論理をどのように理解したかは知らないが、科学の半分以上が現象の記述だってことを忘れてはいけないな。例えばフーリエの熱拡散方程式がそうだし、突き詰めていえば、熱力学第二法則が関連する物理現象はすべてその範疇に入るといえる。その考えでいけばレンマの理論を基本的原理として充分洗練された数学的体系を構築することは可能だし、実際いまそれを試しているところなんだ」
カウフマンはその場に同席した彼ら三人以外の第四の人物にチラリと目を向けた。
「それに心の科学の領域でそう沢山の数学的記述が見られないのは、単に心理学者や脳神経生理学者が、そういった記述に慣れていないからに過ぎないんだ。実際、有能な神経外科医(対動物)でもあった神経心理学者のカール・プリブラムが一九六〇年代の後半に記憶と心の在処に対するホログラフィ理論を提出して学会を沸かせたことがある。これは記憶や心の在処を脳神経細胞終端部のすべてのシナプスの電気的ポテンシャル変化が形成する波面とその干渉パタン――すなわちホログラム――として捉えたパラダイムからなるんだが、その記述には充分洗練された高等数学が使われているよ」
「お説、ますますごもっともなんですがね」とカウフマンの長広舌の末にロイがいった。
「おれ自身の考えとして、気に食わないことに変わりないですな」
ワイスコップとカウフマンが肩を竦めた。
すると、その場の第四の人物が穏やかに彼らの会話に口を挾んだ。
「振動子が乱れはじめました。あなたたちとの会見は、またしばらくお預けとなりそうです」
ぎゅっと唇を引き締めるとワイスコップがいった。
「やれやれ、またしても地獄の責め苦の始まりか。私観だが、この世界は人間の良心に対して少々厳し過ぎるような気がするよ」
黒人機関士が同意した。
「なんといっても心の世界ですからね、ここは……」
しかしワイスコップの言明にもかかわらず、三人の表情は思ったほど暗くはなかった。
「計らずも精神分析治療をされたというところでしょうな」
パラメータを四つに押さえたコンタクト用の位相空間から励起現実に張られた彼ら個人の心を規定ベクトルとするヒルベルト空間に再び投げ返される刹那、マリー・アントワネット二世号の科学班長ジョン・カウフマンはいみじくもそう呟いた。
「後は先生の勘と行動力に期待するしかないでしょう」




