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20 過去

 胃の腑がギリギリと痛んだ。手の先が冷たい。足の先は痺れている。雨にくすんだコンクリートの地面に直に触れた頬と腹と剥き出しの腿がねっとりと濡れて気持ち悪かった。

(このまま死ぬのかしら、あたし……)と温麗華は思った。

 身体を動かす気力はなかった。けれども同時に、自らの血中を巡る悪夢のコークが切れかかっていることには気づいていた。

(また、のたうちまわるのかしら。もうお金がないのに……)

 ストリートギャングの真似ごとをしたり、現金輸送車を襲ったりして金を稼いだ。好きでもない中年男の腹の下に組み敷かれたり、フェラしたり……。もっともそういったプレーでは、十回に九回は相手の隙を見て、金だけ貰っておさらばしていた。化粧ののりがよかったので、その時の顔と普段の顔を区別できたのが幸いしたのだろう、袖にした男や女に見つかって、後から料金分の奉仕を強要されることはほとんどなかった。

(でも、もう駄目ね。こんなに病的に瘠せ細った、目ばかりがぎょろりと脹れた中国娘を、もう誰も相手にしない)

 深夜の雨に濡れたコンクリートの路面は、ますますねっとりと彼女の剥き出しの肌に絡みついた。

(このまま死ぬんだわ)と再び彼女は思った。

 継子苛めされて家を飛びだした十四の娘の成れの果ての死。

 だが、そのこと自体には何の感慨もなかった。ただ薬が切れた先に待つ、自分の意志ではどうにもならない禁断症状の責め苦の末の醜い死だけが嫌だった。せめて死ぬときくらいは綺麗に死にたかった。

 その男が通りかかったのは、そうやってわたしの意識がもっとも朦朧としていた深夜、ロサンジェルス西地区の暗い路地裏でのことだった。

「生き倒れかい?」とその男はいった。「タダで助けてやる気はないが、何だったら半月ほどおれに買われないか?」

 男の英語には訛りがあった。rとlの発音が不明瞭だった。

「どうだい、イエスかノーか? 黄色いお嬢さん」

 そのとき、どうしてわたしがこくりとその男に頷いてしまったのか、正確な心の動きはいまでもわからない。ただそのときのわたしの目にはその男があまりに老成して見えたこと、そしてもしそんな男だったら、わたしを綺麗に死なしてくれるかもしれないとふっと思ったのだろう、という気はする。

「名前はなんていうんだい、お嬢さん?」

「アイリスよ」

 ストリートネームをわたしは名のった。

「じゃ、ご一緒して貰おうか、虹の女神アイリスさん」

 そのときだけはちゃんとrの音を発音して、男はいった。

 その日から男とわたしの奇妙な共同生活が始まった。セックスの関係はなかった。ロサンジェルス郊外のFを頭文字にもつ小さな町のさらにはずれの荒屋での男の役割は、ほとんど医者といえた。それも有能で手先が器用な精神療法家だ。最初の酷い禁断症状が訪れたとき、彼はわたしのセックスを指先で巧みに操り、それを乗り越えさせた。もっとも以来二度と、彼はその方法をわたしに用いようとはしなかったが……。

「癖になったら、きみが困るからな」

 二週間目の朝、わたしがようやく正気を取り戻すと彼はいった。

「きみは頭のいい娘だ。単なるヤク中のセックスマシンじゃもったいない。せいぜい長生きしなよ、お嬢さん」

「あんたって、変な奴」

「だろうな」

「何して暮らしてんの?」

「ヤク中娘を救済してる」

「本当の職業は?」

「いまは働いていない」

「どうやって金稼いでんの?」

「指輪を金に替えた」

「馬鹿な奴」

「だろうね」

「女に振られたんだ」

「そうだよ」

「かわいそう」

「大きなお世話だ」

「淋しい?」

「いくらかはね」

「いまでも愛してんの?」

「わからんな」

「なんだったの?」

「サファイアさ」

「違うわ、別れた理由よ」

「忘れたよ」

「ドジな奴」

「なんとでもいえ」

「美人だった?」

「ああ」

「あたしより?」

「そうだな」

「肌の色のせい?」

「いいや」

「東洋人だったの?」

「ああ」

「馬鹿な女ね」

「いや、頭はよかったよ」

「惚れてたんだ」

「そうだよ」

「泣いたの?」

「おれがか?」

「ううん」

「さあな」

「見なかったんだ」

「強い女だったよ」

「ねえ」

「なんだ」

「あたしのこと欲しくない?」

「いらないね」

「ケチ」

「ねえ」

「なんだ」

「湿り蒲団の縄、解いてくれない」

「駄目だ」

「もう治ったわよ」

「いや、まだだ」

「お腹すいたわ」

「嘘をつけ」

「本当よ」

「じゃ、食わせてやろう」

「ねえ」

「なんだ」

「トイレ行きたいわ」

「そこですりゃいいだろ」

「あたし、もう正気なのよ」

「恥ずかしがってんのか?」

「そうよ」

「ちゃんと始末してやるよ」

「いや」

「目を瞑っていてやるよ」

「ばか」

「ふん、急に娘に戻りやがった」

「悪かったわね!」

 結局それから七日の間彼と暮らした。彼が最初に約束した通りの日数だった。結局のところ、わたしは大したヤク中患者ではなかったようだ。けれども彼はわたしには曖昧な記憶しか残っていないわたしの地獄を確実に見ていた(正気のとき、人は自分の狂気について語れないものだ)。

 ひとつだけ憶えていることがある。何が話の発端だったのかは忘れたが、宗教と奇跡について彼と話していたときのことだった。

「宗教を信じるか?」という彼の質問に対して、わたしは答えた。

「ううん、信じないわ。というより、わたしは宗教が嫌いだわ」

「どうして?」

「宗教は人殺しと人種差別を生むからよ」

「だけど、それで救われている人たちもいるんだぜ!」

「信じるものは救われる、ね。もちろんわたしはそのことについて、宗教を信じている人たちに対して、口を挾むつもりは全然ないわ。でも宗教は、布教活動っていう形で人間を食べるからね」

「しかし、世にある宗教は一神教だけじゃないよ」

「仏教のことをいっているの? あんなのは、ただの達観的お節介だわ」

「わかった。じゃ奇跡はどうかな?」

「わからないよ」

「信じる気はあるの?」

「目の前でそれを見ればね」

 すると彼は奇跡を起こした。それまで何もなかった自分の掌に一輪のアイリスの華を咲かせたのだ。

「驚いたぁー! あなた手品師だったの? てっきり脱落した医学生かなんかだと思ってたのに……」

 そう、そのときまでにわたしは、彼がその草臥れた風貌からは想像できないくらい若いのだということに確信を抱いていた。

「つまり、おれがいいたいのは」と彼はいった。「きみがこのまま立ち直れたら、それが奇跡だっていうことだよ」

 その瞬間、わたしは彼を愛したと思った。「人間中心主義なのね」

「この世の中に生きる理性ある者たちはみんなそうだよ。残念ながら、望むと望まずに関わらずね」

 でも最終的にわたしが彼から奪えたのは、胸にミッキーマウスがプリントされた黄色いTシャツとリーのジーンズと白くて花模様のついた妙に可愛いバックストラップと二百クレジットも中に入ったポシェット(あと下着類もね)だけだった。ぼさぼさ頭で、鬚もじゃで、じじむさくて、最後まで名乗らず、サングラスを外さなかったあの男は、ついにお終いまでわたしを子供扱いにしたのだ!


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