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17 否定の種類

「SがPである」とはどういうことかというと、マリー・アントワネット二世号のコンピューター・ディスプレイを食い入るように見つめながら温麗華は思った。例えばそれは「馬は動物である」というようなことだわ。つまり動物という概念の中に馬という概念が含まれているという主張ね。もっと拡張していえば、述語の中に主語が含まれているということになる。とすれば、その述語Pとは一般的なもの、一般概念ということになって、主語Sは特殊ということになる。特殊なものが一般の中に含まれる。包摂関係。うーん、これが普通の形式論理的考え方ね。

 彼女はふっと溜息を吐いた。

 ところがヘーゲルの論理というのは、そういった判断をまったく別の立場から眺めている。つまり特殊、すなわち個物こそが一般で、主語が、すなわち述語であるという具合に……。個物と一般がひとつである。個物と一般はあくまで別のもので、どうあっても混じり合わない。けれどもそれがひとつになったのものが本当の実在、絶対精神だと考えるから、そこに矛盾が生まれてくる。ヘーゲルはそれを個物が一般である、すなわちSがPの意味を持っているというふうに捉えて、矛盾の統一を主語の側に引き寄せて考えた。もともと一般である個物が自分自身を特殊化した。一が多を作ったと。

 彼女はもう一度ふうっと溜息を吐いた。

 そして西田の論理。彼はヘーゲルと同じ前提に立ちながらも、矛盾の統一に対してまったく反対の立場を取った。つまりヘーゲルの考えでは世界はどうしてもひとつの絶対精神というようなものになってしまい、そのひとつの世界が自分自身の裡に矛盾を含んでいるため、それが無限に発展し、無限に動いていくということになる。けれどもその場合、あくまで一が特殊化するのであるから、特殊化された多のあいだの対立が、どうしても希薄化されてしまう。現実世界に即していえば、個人の自由意志というものを考え難くしてしまうのだ。そこに絶対矛盾的自己同一という西田独自の判断のアプローチが生まれてきた。つまり一と多、一般と特殊(個物)はあくまで対立する。けれども一なくして多はありえず、多なくして一はありえない。ではどうしてそれがひとつになることができるのか?

 西田はそれを次のように考えた。

 一というものはその中に必ず多という意味をもっていなければならない。一というものは一としては考えられないのであって、一というものは必ず自分自身を否定しなければならない。自分自身を否定するということは、そこに多というものが成り立つ。絶対多というものが成り立つ。つまり一の絶対否定がすなわち多であり、同様の考えから多の絶対否定がすなわち一であると考えたのだ。即の論理。だからこの世界はいつでも一であるとともに多であると。ひとつの世界として、自分自身を限定するとともに、またその一を否定して多になると。一と多の間の絶対否定という媒介を通して世界はいつまでも動いてゆくと考えたのだ。そしてそれが媒介される場が絶対無の場所、すなわち一瞬の現在、絶対の述語面である、と。

 西田の論理はかなり現実に即しているように思える、と、またしても溜息を吐きながら温麗華は思った。けれどもヘーゲルがそれまで培われてきた西洋合理思想の影響を受け、自分の論理を計らずも肯定の立場からまとめあげてしまったように、西田は東洋思想の伝統的立場に拘泥して、それを否定の立場からまとめあげてしまった。いや、違うか? その立場から、すべての事象を説明しようとしてしまったのね。だから場所の論理を用いた歴史の解釈は無残なものになってしまった。ヘーゲルのそれが大胆にも成功を納めたのとは裏腹に。

 だけど、実際の役には立たないことを祈って乾杯された数学理論が時代の要請に従って物理学や化学など現象論の理論モデルに適応されたように、首尾一貫した論理は、どこかにそれがピタリと当て嵌まる場所を持っている! 先生の言に従えば、ここ〈レンマの惑星〉では生と死を媒介にして動物(猿)と植物オニユリが絶対矛盾的自己同一の関係にあった。たぶんね。そしてプレパラート上の細胞コロニーはその死の瀬戸際に、先生の意識内の〈目〉という概念を通して、その見られるという行為を相対化した。見られるものが、すなわち見るものに変わったのだ。意識の世界。いいえ、そんな生易しいものじゃないわ。だってここでは――温麗華はぞっとした――もしかしたら生と死までが相対化されているのかもしれないもの……。

 そしてここが、もし先生の考えたように、そういった一種超越的な論理構造を支配原理とする励起現実であるならば、そこにいる基底現実内のわたしたちは励起した原子の基底状態よろしく、存在論的な〈無〉ということになってしまう。

 彼女は髪を掻き上げると、右手の親指と中指を両方のこめかみに当ててぎゅっと押した。

 わたしが初めてこの惑星の周回軌道に乗ったときに感じた、あの何ともいえない気づまりな雰囲気は、わたしの精神の基底が計らずもそういったぎっしりと詰まった緻密な無を感知してしまったからなのかしら? 船医は思った。それとも、いまのいままで病気の再発を恐れて直視することを避け続けてきた意識の世界が、この環境変化を敏感に感じ取り、わたしの内面からわたし自身を破壊しようと再び蠕動したその震えのシグナルだったのかしら?


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