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15 心的外傷

 ズキズキと身体を襲う筋肉性の痛みにリーザ・ペトローヴナは目を覚した。

 暗闇だった。

 網膜が光を感知していない。

 少なくとも可視中間領域の光子の数が九十個以内なのね。

 彼女は思った。そして冷静にそんな状況判断をしている自分をおかしく感じた。

「痛っ!」

 そんな笑いの反応に身体が痛みで答えた。腹筋が攣っていた。手も足も、身体全体が引き攣れていた。みんなはどうしたんだろう? ここはいったい? そしてわたしは?

 身体が重く沈む感覚から、自分がベッドに横たえられていることだけはわかった。暗闇とベッド。その組合せは彼女に嫌な過去を思い起こさせた。十二歳のとき、義理の父親に無理矢理処女を奪われたときのことだ。あのときもわたしはベッドに身体を横たえていた。義父の浮気を詰って、反対に酷く折檻されてしまったのだ。頬は腫れ、唇は切れ、身体中が痣だらけになった。つい二週間前に初潮があり、義父との再婚でアンビバレントな気持ちにはあったものの大好きな母親と、その喜びを分かち合った直後の突然の出来事だった。

 暗闇とベッドと身体の痛み。

 あのとき、悔し涙を頬に貼りつかせながら眠っていたわたしの部屋の戸が、辺りの気配を押し殺すようにそおっと開き、十二歳のわたしにはあんまり大きすぎる男のシルエットが四角い空間に浮き彫りになった。初めは誰だかわからなかった。それまでの十二年間、小犬のようなじゃれ合う恋を別にすれば、わたしは取り立てて誰かを好きになったことがなかった。憧れはあったかもしれないけれど、その恋はあくまでプラトニックなものに限られていた。思いだしたくない。いま考えてもぞっとする。彼女は思った。まるで動物のように毛深い手がわたしの足首から脹ら脛を這った。ぴくんと身体をよじらせてわたしが完全に覚醒すると、その手は素早くわたしの口にまわり、そのままわたしの息を止めにかかった。わたしはもがいた。けれども二十歳以上年の離れた大人の男の手の力の強さは、少女だった華奢なわたしのバタバタした手足の抵抗にひるむはずもなかった。

「女になったんだってな」

 まるでバービー人形のように見開かれただろうわたしの目を覗きこむと、ぞっとするような低音で義父がいった。

「それじゃあ、今度はおれが本当の女にしてやろう」

 さらに抵抗を続けるわたしの頬を広い掌で数回張りつけると義父が続けた。

 幸いにして、それから先のことはあまり詳しく憶えてはいない。ブラウスを引き裂かれ、露出した小振りな乳房の先端にあの男の唇が吸いつき、ざらざらした鬚と手と舌で身体中を嘗めまわされた。やがてどくどくと脈打つ男の分身が、コールドクリームを一杯に塗りたくられてわたしの秘所にぐいと押し込まれ、そして……。そして、たぶんわたしは気を失ったのだろう。気づいたときには、もうあの男の姿は部屋のどこにも見当らなかった。目映い朝の光が薄汚れたカーテンの隙間から差し込んで、シーツの上の赤黒い染みを、ことさら象徴的に浮き上がらせていた。股間にはまだ異物が詰まっているような感じが残っていた。

 ああ、いや!

 その悪夢から逃れるために、わたしはお酒に溺れたんだわ。母親が泣きわめき、獣のようなあの義父でさえ、後になって、わたしに詫びを入れようとさえした。完全無比のアル中患者。いかれ頭の不良少女。立ち直れたのが不思議なくらい(と彼女は思った)。お笑い草よね、そんなわたしが、かつて麻薬中毒患者だったらしい麗華さんを咎めだてするだなんて。お笑い草もいいところだわ。おかしくって涙が出ちゃう。

(そして彼女の意識は移ろい、マリー・アントワネット二世号船内で、はじめてミリオリーニに抱かれた日のことを思いだした)

 ああフェル、あなたは逞しかった。逞しくって、締まっていて、それでもって、たまらなく優しかった。あなただったのよ、わたしのあれから十何年も引き続いた悪夢を、心の底から完璧に取り除いてくれたのは……。わたしは身も心もあなたに捧げるつもりでいたのにさ。それなのにあなたは麗華さんに心を移した。忌まわしい元麻薬中毒患者の温麗華に。

(リーザは思った)

 そりゃあ、わたしだって子供じゃないわ。あなたが何処で誰と寝ようと構わない。少なくとも、うわべではね。でも、好きになってはいや。愛しては駄目。愛するのはわたしだけにして欲しかったのに……。

 そのとき、暗闇に光が差した。彼女が首をまわし、その方向を見て悲鳴をあげた。半分開け放たれた扉が作る四角い空間とそこに浮かび上がる男のシルエットが、彼女の悪夢を再現したのだ。彼女はもう一度悲鳴をあげた。

 が、違う。どこかがおかしかった。泣き声が聞こえたのだ。成熟した大人の声ではない。かといって、完全な子供のそれでもなかった。十二歳くらいだわ。たぶん。リーザは感じた。

 シルエットが近づいてきた。どことなく懐かしそうに……。

 相手には自分の顔が見えているんだ、とリーザは思った。間違いない。

 そのときふいにシルエットの顔が横向きになった。

 フェル? 

 でも、どうして? 彼女は混乱した。どうして彼が未成年の姿で?

「ああ、リーザ」

 さらに彼女に近づくと、未成年のミリオリーニがいった。

「お願い、ぼくを助けておくれよ。あの人が信じられないんだ」

 彼はリーザの胸に顔を埋めた。かすかな嗚咽が聞こえてくる。

「本当は悪い人じゃないのに、状況が彼を殺人者に仕立てあげたんだ。……怖いんだよ。ぼくは怖いんだ。だって、いつぼくがそうなるかしれないんだもの」

「いいのよ、怖がらなくても」

 少年フェルの柔らかな髪の毛を愛おしむように優しく撫ぜると、彼女はいった。もちろんすべての状況が把握できたわけではない。彼が何を恐れているのかもわからなかった。けれども彼女には、いまの彼に必要なのがいたわりであることだけはよくわかった。

(ああ、いいのよ、泣いても……。わたしでいいんなら、いくらでも甘えていいわ)

「いらっしゃい」

 と、マリー・アントワネット二世号、航路算定士のリーザ・ペトローヴナはいった。そして静かに彼と彼の心を迎え入れた。


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