13 ある宇宙物理学者
「〈惑星検疫の仮定〉」
と、人気のなくなった惑星調査船の簡易実験室で佐伯は呟いた。
「だが、本当にその仮定だけで現在の状況が説明できるのだろうか?」
首を捻りながら考える。
いまから五年前の二一〇五年に、もと天体物理学者で、その後生物学に転向したイタリア人科学者エリオ・デルフが提唱した〈惑星検疫〉の考え方の骨子は単純明快なものだった。
人間を含めた多くの生物種は、それぞれ特有な免疫応答系を有している。抗原となる異物の侵入に対して、生体内に抗体が産生されるのだ。抗原はウィルスでもタンパク質でも、あるいは杉の花粉でもよい。いま考えている生体内にそれまでなかったものが抗原となるのである。その免疫応答系の類似として提唱されたのが、デルフの惑星検疫の仮定だった。そこでは生体は惑星環境に置き換えられ、異物は、例えば炭素型生物に対する珪素型生物などとして捉え直される。惑星自体が異物を排除しようという方向に働くのだ。
惑星は生きている!
もちろんそれが内容を伴わないただの空虚な理論であったなら、あまりにも馬鹿げたものとして、すぐに斥けられてしまっただろう。確かにいまでもデルフ型の惑星検疫の仮定は学会の異端である。遥かな過去、一九八〇年代後半から一般にもやっと根づきはじめた『惑星は生物に優しくない』すなわち『折あらば自身の表面の寄生物でしかない生物を抹殺しようとしている』という認識変化が現象論的にこの仮定と結びついている面が、例えば科学を隠語に溢れたオカルト類似物と見做すような多くは欧州の知識人に攻撃されたのだった。
だがこの理論には――数は少ないとはいえ――現象としての事実の裏付けがあったのである。
例えば〈リレイヤー第五惑星事件〉がそうだった。
海人草座α星を太陽と仰ぐ、地球よりやや小さめのその星の新陳代謝は、高い大気圧、湿潤性、大気中に充満する遊離フッ素量の多さなどから、それまで人類に知られていたどの惑星よりも高かった。そして大気中の不活性ガスの量も多かったが、これが後に重大な意味を帯びてくることになる。リレイヤーに対するスペクトル分析の結果と外周軌道距離から、その星の第五番目の従者にロジウムの鉱床が期待され、即時、採鋼船が派遣された。けれどもその結果は悲惨だった。採鋼船が第五惑星に到着して数時間後、惑星環境が船に襲いかかったのだった。
その過程を分析すると以下のようになる。
まず採鋼船の侵入により、アンモニア蒸気とアンモニア溶解性色素を主成分とする大気の流れに変化が生じた。それが惑星大気の光散乱などを通してその星の支配植物=成長鉱物である俗称ポリマーローズの成長過程に微妙な影響を与え、錯体形成反応を通して取り込まれる配位子(有機分子)の種類を変えた。そのためポリマーローズの化学反応支配金属イオンの安定状態が変わり、吸収する光の波長が短波長側(高エネルギー側)に移動した。これは金属イオンの安定状態が以前とは異なったエネルギー準位に遷ったことを示す。例えばルビーの赤色もエメラルドの緑色も、その色由来金属イオン(クロムイオン)は同じなのだが、それを取り巻く化学環境のわずかな違いによって生じるエネルギー準位の差が異なるため、異なった色として顕現してくるのだ。
最初に得られるエネルギーが高くなったため、ポリマーローズの生物としての代謝生成物が変化し、いく段もの複雑なサイクルを経て、最終的に大気中のアンモニア濃度とアンモニア溶解性色素濃度が劇的に増大した。いわゆる複雑系による増幅効果である。そして増大したアンモニアは最初に戻ってポリマーローズの別種錯体形成反応を促進し、さらに巡って大気中のアンモニア濃度と色素濃度を増大させ、遂には、リレイヤー第五惑星大気の熱力学系を近似的な平衡系から非線形非平衡系(散逸構造系)へと変化させた。
単純なモデルで考えれば、平衡系とは、対象とする系が充分に大きい容量の熱源に接している状態と考えられる。そのため熱源から常にエネルギーが供給されるので、系内に熱の移動はない。一方非線形非平衡系では、系が、やはり容量は充分に大きいが二つの異なった温度の熱源に挾まれている状態に対応する。そのため系内部の熱エネルギーの移動はいつまでも続き、平衡状態に達することはない。
非線形非平衡系の一番の特徴は、平衡系では見られない特殊な〈ゆらぎ〉の選択的増幅によるマクロな秩序構造の発生といえる。本来バラバラであるはずのミクロな統計的熱ゆらぎの中に生じたある性質が、エネルギーや物質の絶え間ない流れに引きづられて協調的に作用するようになり、結果として、一定方向に非可逆的に変化する周期的でマクロなゆらぎを生じるのである。例えば水流の中にできる渦は自発的に大きくなったり、小さくなったりする場合があるが、これが積算されたマクロなゆらぎ、いわゆる「散逸構造」の周期性なのである。あるいは化学時計といわれ周期的にその液色を変えるベローゾフ❘ジャボチンスキー反応が、その好例といえるだろう。これはその錯体形成反応と酸化還元反応のマクロなレベルでのゆらぎに基づく。
リレイヤー第五惑星の場合、その周期性は光ポンピング作用、すなわちレーザーの形で現れた。
大気中に豊富な不活性ガスと遊離フッ素から励起二量体が形成され、エキシマ由来のレーザー光が、雷雨時の雷よろしく希土類採鋼船を襲ったのである。エキシマとは基底状態の分子一個と励起状態の分子一個とが結合した、励起状態にあって初めて安定に存在できる二量体のことである。ポリマーローズの通常とは変わってしまった錯体形成反応によって増大したアンモニア溶解性色素が、通常は電気的励起でしか作り得ないエキシマの存在を可能にしたのだ。
そして、それが事故を発生させた。
以上が、リレイヤー第五惑星における〈惑星検疫〉の実例である。
もちろんこの例は、実際上の生体系の免疫応答とは異なっている。
その意味では、〈惑星検疫〉という仮定の名称は、あくまで比喩的なものであるといえた。
リレイヤー第五惑星の場合は、その星の複雑系を介した非線形非平衡系の特徴が支配的に現れたが、〈惑星検疫〉の型は、それぞれの惑星によって異なっている。デルフが唱えた型(様式)の〈惑星検疫〉は、上記のような惑星環境の物理的な連鎖から生じる現象に限られていたが、その範疇においても、より物理的増幅効果の大きいものから、そうでないものまで、多種多様な現象が確認された。さらに別の型――これはかなり特殊な惑星と支配生物との共存関係がないと望めないものだったが――では、まさに生体の免疫応答に類似のものまで観測されていた。だが、いずれにせよ〈惑星検疫〉という現象が、その惑星に住む生物を含めた環境構造と、主に熱力学の第二法則に基づく多段階過程であることに疑問の余地はなかった。
佐伯は思った。
おれたちはこの謎の惑星に不本意ながらも侵入した。そこで一体何を見た? 微生物が地球のものと似ていた。よかろう。そしてそれが顕微鏡の向こうから巨大な目となっておれを見返した。何故だ? おれの気の迷いなのか? それとも簡易的な探査では見つけられなかった麻薬、あるいは浮遊性アルカロイド類か何かが惑星表面に漂っていたとでもいうのだろうか? そして食料捜しを主目的として惑星探査に出かけた船長以下三名の船員の突然の消失事件……。
彼らは何かを見たのか?
無線連絡が跡絶えるその刹那、この惑星の謎を解く鍵となる何らかの事象を目撃したのだろうか?
わからん! 状況を解析するには、あまりにもデータ不足だ。
佐伯は考え込みながらかっと見開いていた目を閉じると、不意にそれを開け、惑星調査船簡易実験室の天井をしっかと睨んだ。彼が見つめていたのは、もちろんその天井についた染みなどではない。天井を遥かに通り越した天空の彼方に浮かぶ惑星周回軌道上のマリー・アントワネット二世号と、いまではそのただひとりの乗組員となった船医、温麗華を見つめていたのだった。
「彼女がオープンの無線記録から何かを掴み取ってくれればいいのだが……」
そう呟くと佐伯は、上着の内ポケットに忍ばせた葉巻を取り出して火をつけた。
「やれやれ、ついにお守りに手をつけちまったな。……ま、仕方ないか」
それから数秒間、佐伯はまったく久しぶりに胸一杯吸い込んだ葉巻の紫煙に噎せ返った。




