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さながら『DEATHNOTE』のLのように膝を曲げて椅子に座り、彼女からもらった本を指でつまみ上げる。店主は「二人で4000円でいいわよ」と言って僕らを見送ってくれた。おにぎりやら、豚キムチ、おでんの具、最後にはお茶漬けまでつけて、いつも店主はそれくらいの値段しか払わせてくれない。僕は財布を出そうとするあの子もいた手前、黙って1万円を置いて店を出た。店主は少し驚いた顔をした後、また入ってきたときと同じ顔で「またきてね」と扉を締めた。
僕は本を机において、備え付けの万年筆のキャップを確かめるように開ける。ビジネスホテルにはなぜか聖書があることが慣習になっていると教えてくれたのはたしか父だっただろうか。彼女が言うには、自殺願望は身の丈に合わない”贅沢”であるらしい。ただあくまでも、”認識的な”違いによるタナトスを指している、ということは強調しておくべきかもしれない。彼女は『Woman』の作中で苦しむ満島ひかりのことを馬鹿にしたりはしないだろう。そんな生に不都合な欲動は精神を包含する身体を持つとはいえ我々生物の見せる”自然”な現象ではなく、ただ我々が選択するものであってそんなものが選択できるのであればより生に都合の良い選択もできるだろうと、僕らの精神なんてそんなものでしか無い。というのが彼女が最後に言っていたことなのかもしれない。
”だから私は決めたの、何があっても、能天気でお気楽でバカな私でいようって”
役所に行けばパスポートが作れる。成田までのチケットを買って、そこからアメリカだろうがカナダだろうがエチオピアだろうが明日にでも行くことができる。財布が気になるなら、ギターかピアノをもっと安くで買えば音楽の深淵に触れられ、パソコンかタブレットを買えば形而上学とは別に新たに広がる抽象空間の存在に気づける。僕が今、こうしてBill evans の『Danny Boy』を聴きながらパソコンで黒いキャレットを眺めているように。
「今からでも、コンビニに行けばピザマンだって買えるじゃないか。『血の轍』を踏んでようがね。」
パソコンを閉じ、彼女が渡してくれた本をおもむろにもう一度手に取る。本を少し曲げ、右手の親指で頁をなぞると指が引っかかったのがわかった。そのページを開くと、そこにしおりはなく、1000円札が三枚、綺麗に折り曲げて入っていた。よくカバンの中で落ちなかったな。左側のページにはこう書かれていた。
「それに反し、過去を忘れ、今をなおざりにし。未来を恐れる者たちの生涯は極めて短く、不安に満ちたものである。終焉が近づいたとき、彼らは、哀れにも自分がなすところなく、これほど長い間、何かに忙殺されてきたことを悟るが、時すでに遅しである。また、彼らが時に死を願う事があるという論拠を持って、彼らの過ごす生が長いという事実を証明できると考えてよい理由はない。彼らは思慮のなさから自分が恐れる当のものへと突き進んでいく不安定な情緒に苦しめられるのである。彼らが死を望むのは往々にして死を恐れているからに他ならない。」
彼女はいつからこれを渡すことを計画し、どうしてまた、3000円もいれていたんだ?またノートパソコンを開き、彼女から渡されたURLをブラウザで踏んだ。僕らはURLが渡されたあの日から、毎日とは言わないまでもお互いに、閉じているが拓けたコミュニケーションを続けていた。そこに既読マークはつかなくとも、コメントも(できるにせよ)せずに。ただお互いがそれぞれに。
明日、いや、日付が変わったから今日の欄にページが一つ追加されている。
「勘違いしてほしくないんだけど、私は「徳」だとか「最高善」だとか大味な単語に集約させるギリシャの哲学がそんなに好きってわけじゃないんだよね。ただ、今読んでる本が偶然これだからそれにお金を挟んで渡してるだけです。お金に関しては、マニキュアとか化粧品を買うからか何か知らないけど、男に勘定してもらうのが当たり前だと思っているのが気持ち悪いと思っていて、他人は否定しないけど、私はそうしたくない。でもやっぱり、多分できた男ほど払ってくれようとすると思うのよ。その面子は潰したくないじゃん。それで考えたんだけど、払ってくれる前に隠れてお金を渡しておいて、その場では払ってもらって、事後的に”別に男の子のそういうとこ侮辱するつもりはないんだよ”って伝えるのが最善なんじゃないかって思ったんだよね。未来の、というかもう明日なんだけど、明日の私がどうやってセネカの『生の短さについて』を渡しているかしらないけど、この文章は明日会う直前にアップしとこうと思います。君はいつものようにこれを読んでくれているだろうから、私は明日の夜中の君に話してるかな。
貴方さえよければ、またいきましょう。
To That Ocean Of Tree.
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今度は割り勘で。」