水泡のメランコリィ
水泡と読んでください。
緑や色付く木々に囲まれる大岩に腰掛け、さらさらと流れる音の中へキラリと糸を投げ入れる。傍らのバケツの中には二匹の魚がゆらゆらと待っている。後一匹は釣らなければと、竿を握る手に力が籠もる。
大雨の後なので川は水嵩を増し少し流れが速いこともあり、針がすぐに流れていく。
少女は竿を健康的な脚で挟み、長い髪を一つに縛った。木々の葉と共に髪がさらりと揺れる。
竿を持ち直すと、視界の中に上流から何かが流れてきた。雨に流されたゴミだろうかと目の前を通過していくのを見送るが、ふと人の形に見えた。
「!?」
身を乗り出して下流へ行くそれを目で追い、竿を岩の上に放り捨てて慌てて石を跳んで追い掛けた。
川から飛び出す岩に引っ掛かって止まったので、少女は躊躇いなく足のつかない川へ駆け込んだ。水は少女を避けるように飛沫を上げ、引っ掛かるそれに向かって呑み込んだ。
手を伸ばしてそれを掴み、引き寄せて岸へ上げる。やはり人間だった。
「大丈夫!? 生きてる?」
同じくらいの年の頃の少年だった。肌は水で冷えているが、胸に耳を当てると生きている音がする。
「水飲んだかな……」
頬をぺちぺちと叩くが返事がないので、仰向けに寝かせて軽く顎を持ち上げた。遣り方は知っているが実践は初めてだ。気道を確保し顔を近付けた所で、少年の眉がぴくりと動く。
「っ……えほっ! げほっ!」
「良かった生きてる!」
薄らと目を開けた少年と目が合う。焦点が合っている。
「大丈夫? 救急車呼ぶ?」
手を突きながら体を起こすので、慌てて支えた。
「僕は……」
「川で溺れとったんやけど、水着ちゃうし、足でも滑らせた?」
一番最初に少年が思ったことは、凄く訛ってるな、だったが、全身ずぶ濡れの小柄な少女をぼんやりと見て漸く理解した。
「川に落ちた……」
「うちの上着着せたろ思たけど、びっちょびちょやからごめんな」
「……何で助けたの?」
「え? 流れてたからやけど」
少し気になる言葉だったが、深くは考えなかった。小さくくしゃみをするので、少女も釣られてくしゃみをする。
「……そう」
少年はゆっくりと目を伏せた。
「病院行く?」
「いい」
「それじゃ家まで送ったるな」
「いい」
何処に行くのも拒む少年に少女はきょとんと目を瞬いた。家が遠いのだろうかと考える。
「じゃあ……うちに来る? 服乾かさな」
「それなら……」
やっと許可が出て安心した。
にこりと笑い、少女は大岩まで戻って釣竿とバケツを提げる。
少しふらつくが、少年もしっかりと立てるようだ。バケツの中を一瞥し、興味がなさそうに木々の向こうの道を見る。
「これな、今日の晩御飯の鮎!」
「鮎……」
「見たことない? 川魚は皆鮎って言うねん」
「そんなわけないでしょ」
「え?」
長年信じてきたことを否定され衝撃を受けつつも、少女は留めてあった自転車までふらふらと辿り着き籠にバケツを入れた。
「後ろ乗りぃ」
スタンドを上げてにこにこと笑顔で自転車に跨る少女を少年はじっと見た。
「乗るって……どう」
「普通に跨いで座って、うちに掴まればええよ」
「…………」
どうやら自転車の二人乗りは初めてらしい。少年はおっかなびっくり自転車を跨ぎ、少女の濡れた服を掴んだ。
「落ちそうやったら全力で掴みな」
木立の中を自転車が走り、時折大きな木漏れ日に目を細める。土の上ではガタガタと揺れてバケツの水が跳ねて少年は少女の服を強く握り締めたが、舗装された道では少し力を緩めることができた。
木々を抜けると何もなく、田園が広がる。
「そーいえばなぁ、どうやって川まで行ったん? 徒歩?」
自転車を漕ぎながら、背後に届くように少し声を張る。
「折り畳み自転車」
「えっ! 自転車取りに行かな!」
「いい」
「そればっかりやなぁ」
黄金色の田圃の間を赤い蜻蛉がスイスイと泳いでいる。風を受けながら少年はぼんやりと蜻蛉を目で追った。
疎らに立った家の内の一つへ、庭の中に自転車を留める。園芸の花を植えているとかではなく何本か木が生えていて、雑草も好き放題に伸びていた。柿の木が元気に伸びて橙色の実をぶら下げている。
バケツを手に玄関を開けるので、少年も付いていく。
「上がって」
「お邪魔します……」
靴箱の上には何だかよくわからない木の置物や紙で作られた人形などが並んでいた。
「あら柚真ちゃん、おかえり。お友達?」
からしゃらと音を立て、玉暖簾からお婆さんが顔を出す。少年はびくりと硬直してしまった。家に誰かがいる可能性は当然あるはずなのに、何も考えていなかった。
「川で拾ってん」
間違ってはいないが、もう少し言い方はなかったのかと少年は不満だったが、口止めもしていなかったので諦める。川で流れていたことはできれば黙っていてほしかった。
「あらそうなの。お名前は? 何処の子かしら」
にこやかに微笑みながら尋ねる。拾ったとは言っても川で流れていたとは思っていないようだ。
「叶本奏です。東京から来ました」
「とっ、東京!? 都会やぁ」
横から少女が一番に驚いた声を上げた。言ってはいなかったが、そんなに驚くことかと奏は居心地が悪くなる。
「うちは笹城柚真。こっちはうちのおばーちゃん。あとおじーちゃんがおって、三人暮らしや」
「そう……なんだ」
両親が出てこないので少し引っ掛かるものはあったが、詮索はしなかった。
「ふふ。ゆっくりしていってちょうだいね」
「ありがとうございます」
軽く会釈をして玉暖簾の中へ戻っていき、柚真も後に続くので行き場のない奏も付いていく。その部屋の中は台所だった。
「おばーちゃん、二匹しか釣れへんかった」
「じゃあ柚真ちゃんと奏くんで食べなさい。こっちの夕飯はもう準備してあるから」
「はーい」
流し台にバケツを置き、柚真はぬるりと滑る魚を鷲掴む。
「えーと、何て呼べばええ? 叶本君? 奏君?」
「別に何でも」
「そんならカナちゃんにすんで」
「普通に苗字でいい」
蛇口から水を出し魚を洗う様子を物珍しそうに見ながら、魚と目が合い逸らす。
「叶本君は内臓食べる?」
「聞き方がグロいんだけど。あんまり好きじゃない」
「じゃあ掻っ捌いて内臓抉り出すな」
「グロいんだけど。捌けるの?」
「上手いかどうかは別として、捌けるよ。今日はそのまま塩焼きな」
慣れた手付き……と言う程でもないかもしれないが包丁で切り込みを入れて、ぐちゅりと内臓を取り出す。あまり得意ではない光景だったので、奏は目を逸らした。
「おじーちゃんいるかもやけど、奥の部屋で座っててええよ」
「ここでいい」
どんな人かわからない人と二人きりになるのは避けたかった。柚真もまだ知らない人ではあるが、歳が近くやや年下に見えるのでまだ良いと言える。一応川で流れている所を助けてくれたので、自分にとって害はないだろうと今の所は判断している。
「叶本君、東京ってことは旅行?」
作業をしながら尋ねてくる。
「一応」
「泊まり?」
「一応」
夏休みは終わっているが、親の仕事が忙しかったので、休みが終わった後にこうして旅行に連れ出されている。旅行如きで学校を休むことは良しとしないため、連休を利用している。世間体を気にした家族サービスと言うやつだ。
「この近くやったら送って行けるけど、自転車取りに行かんとなぁ」
「気を遣わなくていいよ」
「そう?」
ぶっきらぼうな奏をちらりと一瞥し、柚真は魚に塩を振る。柚真もあまり人と話すことは得意ではないのだが、ここまでではない。何とか場を繋ごうと話し掛けるが、先程会ったばかりの人と話す話題が思い付かない。
黙々と塩を塗り込んでいると、祖母が話し掛けてくれた。
「そういえば貴方達、随分と濡れてるわね」
「あ。川に入ったん忘れてた!」
奏は忘れていなかったが、柚真は忘れていたらしい。
「あら。じゃあ先にお風呂に入ってきなさい」
「叶本君、先入って。着替え用意する。服も洗お」
「着替えなんてあるの?」
柚真は小柄だ。服の大きさが合わないと思う。
「おじーちゃんの服持って行く」
何当然のように柚真の服を先に考えているんだと奏は遣り場なく床に目を落とした。
奏と柚真は順に風呂を終わらせた後、食卓につく。畳の上に大きな四角い机。先に座っていた柚真の祖父が奏を一瞥するが、何も言わなかった。奏は軽く頭だけ下げておく。気難しそうだと思った。
前に置かれた先程の塩焼きと煮物と豆腐を見下ろす。和食を食べるのは久し振りかもしれないと考えながら柚真を一瞥した。
柚真は手を合わせ、箸を握る。
「絶対魚美味しいから、先食べてな」
「え? ……うん」
程良い焦げ目と所々に白く纏った塩。柚真はそのまま箸で掴んで齧り付いているので、魚はあまり好きではないが倣って奏もそのまま齧り付く。皮がぱりと弾けた。
「美味しい……」
「せやろ? もっと釣れたら良かってんけど、雨の後やしなぁ」
「雨の後は釣れないの?」
「この前台風で凄い降ったから」
「ああ……」
何の魚かは知らないが初めて食べた釣りたての魚はとても美味しくて、米の存在も忘れてすぐに平らげてしまった。その様子を柚真はにこにこと喜んで見ている。
そうして夕飯を終え、案内された客間で休みながら、奏は暗くなってしまった外に目を遣る。空気が澄んでいるのか、星がたくさん見えた。
「今日……泊まってもいいかな?」
剥いた柿を持ってきた柚真はきょとんと足を止めた。
「泊まるって、ここに?」
「ぁ……」
無意識にうっかり口に出していたことに気付き、奏は慌てて口を閉じる。だがもう柚真に聞こえてしまった。今日会ったばかりの人に何を言ってるんだと奏は睫毛を伏せる。ここは民宿じゃない。
「じゃあ布団持ってくるな」
柿の皿を置き、柚真はすぐに踵を返す。何故泊まりたいのか何も訊かれなかったことを怪訝に思いながらも、行き場を失った目が柿に落ちる。庭に生っていた柿だろうか?
一応親には連絡を入れておく。騒ぎにされても面倒だ。携帯端末は一緒に川に浸かったが、防水なので大丈夫だ。通話に出てこないので、留守番電話にメッセージを残しておく。淡々と端的に。そして端末の電源を切った。
布団を抱えてよたよたと戻ってきた柚真が柿の皿を踏みそうになるので慌てて皿を避け、どっかと布団が置かれる。自分が持ってきた皿の存在をすっかり忘れている。奏は立ちながら柿を一口齧った。まだ少し固いが甘かった。
「うちの布団も持ってきてええ?」
「え、何で」
「だって修学旅行みたいやん!」
「修学旅行行ったことない」
「そうなん? うちも」
へらりと笑いながら布団を敷き、またすぐに部屋を出て行く。
修学旅行に行ったことのない人間に会ったのは初めてだった。周りのクラスメイト達は皆修学旅行を楽しみにしていて誰も欠けなかったので、修学旅行に行っていない人間などこの世の圧倒的少数派だと思っていた。
再びよたよたと布団を担いで戻ってきた柚真はどっかと先の布団の横に置き、奏は自分の布団を部屋の端まで引き摺った。
「めっちゃ離れるやん!」
「隣で寝るとは言ってない」
「まあええわ。この距離でも話せるやろ」
「話?」
「修学旅行の夜て言えば、恋バナやん! 恋バナ!」
「そんな話題ないんだけど」
奏は少し顔が引き攣ってしまった。寝させないつもりなのだろうか。恋の話題などないが、あってもそれは女子同士でするものではないのだろうか。
「え、ないん……? うちもないんやけど……」
「何でぼ……俺が一人で話すことになってるんだよ」
「魚も柿も食べた癖にぃ」
手に持った柿をじっとりと見るので、すぐに畳に皿を置いた。食べかけの柿は戻せないので、仕方なく急いで食べた。
「柿もうええん?」
「いい」
柚真も柿を一欠片咥え、皿を持って部屋を出る。奏は洗面所へ行き、出してもらった歯ブラシを使った。恋の話は免れられそうで良かった。本当に何も話題なんてない。
布団に入ってカーテンの隙間から星を見上げていると、ぱたぱたと柚真も戻ってきた。遅いと思ったらどうやらパジャマに着替えていたらしい。いや待っていたわけではないのだが。
「気を取り直して、修学旅行と言えば枕投ぶっ」
早く寝たかったこともあり、最後まで言わせず枕をぶつけた。
「不意打ちは卑怯!」
「ぶっ!」
顔面から剥がれた枕を拾い、奏の顔面に叩きつけた。
このまま相手をしていると相手の思う壺だ。奏は遣り返さずにそのまま目を閉じた。
「えー。もう寝んの?」
畳を這って顔を覗き込む影が奏の瞼に落ちるが、気にせず目を閉じていた。
「夜は寝るものだから」
「恋バナなかったら、怪談でもええよ。怖くないやつ」
影が遠離り、布団に潜る音がするのでそろそろと目を開けると、布団からこっちを見る柚真と目が合った。
「怖くない怪談って何なの」
目を逸らして再び目を閉じる。
「怖いと寝られへんやん」
「怖い話をして二度と話し掛けられないようにしてやろうか」
「今までで一番長文喋ったぁ」
「…………。あのな……」
目を開けて柚真の方を見ると、目を閉じていた。
「……寝たの?」
「…………」
先に寝たらしい。
「早いな……」
会話を止めると、外の虫の声がよく聞こえた。虫の合唱の中で眠れるだろうか。
だがその心配を余所に、奏も気付けばぐっすりと眠っていた。
翌朝は八時に起こされ、奏はまだぼんやりと朧気な頭でぐるりと見渡し、柚真の姿を見て自分の家ではないことを思い出した。
「早いな」
「おじーちゃんとおばーちゃんが早いから」
「あぁ……」
妙に納得する理由に、欠伸を噛み殺す。
「服乾いたから置いとくな。朝御飯はな、都会の人は洋食やと思って、ハムエッグ作りました!」
「凄い偏見」
「でもパンないから、ご飯です!」
「中途半端」
「ご飯に海苔の佃煮載せてええからぁ」
「話が噛み合ってないんだけど」
「海苔の佃煮は最強やと思う」
「食べたことない」
「えっ……人生十割損してる……」
「損しかしてないの? 俺」
「大丈夫。今日から得になれるから」
よくわからない会話だったが、こんな風に最後に会話をしたのはいつだっただろうかと考えようとしてやめた。それは別に思い出さなくても良いことだ。奏は布団から出て、乾いた服に手を掛ける。
「なぁ、今日は何か予定ある?」
廊下で着替えを待ちながら問う柚真の声に奏は少し考える。観光……なんてことも親が言っていた気がするが、頭を振る。
「予定はない」
「じゃあな、海の方行かへん?」
「海? 泳ぐの?」
まだ残暑はあるが暦ではすっかり秋だ。奏は眉を顰めながらズボンを穿く。
「お盆済んだら泳いだらあかんのよ。クラゲ出るし」
「クラゲ……」
「泳ぐだけが海ちゃうからな」
よくわからなかったが、海を見ながら散歩でもするのだろうかと、行く当てもないので奏は承諾した。
朝食は柚真の言った通り黄身が固まったハムエッグとご飯だった。その前にとんと真っ黒い海苔の佃煮の瓶を置かれる。奏は初めて食べたが、海苔の風味が口に広がり少し甘い味付けも美味しくてハムエッグの存在を忘れてご飯を食べきってしまった。柚真は少し不満そうな顔をしたが、海苔の佃煮には勝てるはずがないと自分に言い聞かせた。
朝食を済ませると昨晩の柿が出され、黙々と食べた。
海の方へ行くと言うことは昨日の川とは反対方向だなと奏は頭の中の地図を開く。放置している自転車はきっともう誰かに持って行かれていることだろう。誰に持ち去られようと、どうでも良かった。
柚真は今日はスカートを穿いて、手にはバケツではなくバスケットを提げる。自転車の籠にバスケットを載せ、昨日のように奏に自転車の後ろを勧めた。
「それ、俺が前じゃ駄目?」
突然の申し出にきょとんとするが、柚真はすぐにハンドルを譲った。
「ええよ」
少しサドルの高さを上げ、奏が跨る。人に見られる姿が、後ろに座るより前の方が良いと思う。
ペダルを踏むと、二人分の重みなのでやはり重く感じたが、それより重みによりバランスを取るのが難しかった。
「うっ、わっ」
「もうちょいスピード上げな!」
柚真は後ろで楽しそうに笑って奏の腰を掴んでいるが、少しくすぐったいのが気になって仕方がない。
「スピードって……重い」
「えっ?」
足を踏ん張りながらもふらふらと蛇行する。小指の先程の小さな石にも躓きそうだ。
「あっあっ田圃に落ちる! あかんあかん!」
笑いながらも足で地面を掻き自転車を止めさせ、落ちる寸前で止まった。バスケットが投げ出されなくて良かった。
「慣れやな」
「っ……」
少し悔しい。渋々柚真にハンドルを返し、昨日と同じく後部に甘んずる。サドルも勿論元の高さに戻した。柚真はすいすいと漕ぐので、簡単なのだと思っていた。いや体力の問題か。
田園と赤蜻蛉を抜けると、遠目に海が見えてくる。思ったよりも遠かった。
適当に自転車を留め、バスケットを提げて砂浜に下りる。台風の後だからか、ゴミもたくさん打ち上げられていた。
見える場所にバスケットを置き、柚真は駆け出す。
「海やー」
漂流物とぼこぼこと足場の悪い砂の上で柚真は派手にすっ転んだ。
あまりに自然に転ぶので、奏はびくりと肩が跳ねてしまった。さすがにこれには駆け寄る。
「大丈夫?」
「うぅ……」
体を起こす柚真を見て、奏は思わず笑ってしまった。
「ふっ、ふふ」
笑う奏に柚真は目を丸くする。
「叶本君笑たぁ」
「いや、だって、砂が」
「砂?」
一緒に洗濯したらしいハンカチをズボンのポケットから取り出して、柚真の顔に貼り付く砂を笑いを殺しながら払ってやる。柚真も漸く気付いた。
服に付いた砂も払い、何とか立ち上がる。裾の長いスカートで良かった。短いと危うく丸見えになる所だった。どんな顔になっていたのか柚真にはわからないが、会ってから一度も笑う所を見たことがなかった奏が笑ってくれたことが嬉しかった。
「それで、何するの?」
「台風の後は色々打ち上げられてるから、面白いもん拾うねん」
「面白い物? ゴミ? ……貝殻?」
「面白いもんは人によるな。うちは流木一つでも面白い」
「ただの木でしょ?」
「あ、ビニールみたいなんが落ちてたら気ぃ付けて。クラゲ触らんようにな」
「ああ……クラゲいるんだっけ」
柚真が近くに落ちていた細い枝を拾って歩き出すので、奏も後に付いていく。誰もいない静かな海辺を歩くのは悪くなかった。紺碧を流した海は穏やかだ。
柚真は枝で何かの海藻を引っ掛けて振っている。奏も足元に目を落としてみるがゴミはゴミにしか見えないし、貝殻も欠片ばかりだ。その中に埋もれて、親指の爪くらいの小さな青い物を見つける。
「飴?」
柚真に倣って落ちている枝で穿り出して転がす。
「あー。それは硝子! ええもんやなぁ」
「これがいいの?」
「すっごい長い時間掛けて海で磨かれて丸ぅなったビーチグラスや。青い硝子はちょっと珍しい。ほら瓶って白とか茶色が多いから」
「まあ綺麗ではあるけど。あげるよ」
「ほんま? けど叶本君が見つけたんやし、記念に持っとって。うちは鯨の骨とか欲しい」
「鯨……? いるの?」
「運かなぁ。まだ見たことない」
再び歩き出し、枝を振る。
こんな綺麗な色の硝子や貝殻でも探しているのかと思えば、生物の骨を探しているとは。でもそう言われると少し興味はある。博物館は嫌いではない。
「綺麗な貝殻もええと思うけどな。全部遠い海の中にあったもんやと思うと、そこに簡単に手ぇ伸ばせるんが奇跡みたいで、嬉しいやん」
振り向いた柚真は本当に楽しそうで、柔らかく微笑む。
「そんなに好きなら、潜ったりもするの?」
「潜るんはしたことないなぁ」
「泳ぎ得意じゃないの? 昨日の川もあんなに流れがきつかったのに」
「あれなぁ。あれはうちがニンフやから」
「ニンフ? 虫?」
「えっ待って、虫って何!?」
「そのままの意味……」
「ちゃうて! ニンフ言うたらギリシャ神話の川とかにいるっていう妖精やん!」
「ああそっち」
「こっち以外知らんけど!」
やや脱線してしまったので、慌てて軌道修正する。虫のことは知らないが、妖精だと言うことは伝わってくれた。
「とにかく、ニンフやねん」
真面目な顔をして妖精だと言う少女を、全く信じずに何かの比喩だと解釈する。
「泳ぎが凄く得意ってこと?」
「うーん……せやなぁ、そんなん誰も信じひんよなぁ」
「そうだね」
「そろそろお昼やし、食べながら話そか」
「近くに店あったっけ」
「ちょお、こっちー」
踵を返して走り出すので、慌てて追いつつ走り出さずにやや速度を上げて歩く。
「走るとまた転ぶ」
「二度目はないわー」
言った通り今度は転ぶことなく、最初の地点まで戻る。そんなに歩いていないと思っていたが、下を見て歩いていたからか結構距離ができていた。色々な色模様の小石に、欠けた貝殻、珊瑚の欠片。たくさんの流木に海藻、何かの実みたいな物。ぽつりと転がる浮き球――。
それらを跨ぎながら、手を振る柚真に辿り着く。
道と砂浜が交わる段差に腰掛け、柚真は持ってきたバスケットの蓋を開いた。中には彩り鮮やかなサンドイッチがぎっしりと並んでいた。家でパンがないと言っていたが、これを作るために使ったのだと奏はすぐに察した。
「お食べぇ」
「いただきます」
「遊んでもろてるけど、叶本君は一人で旅行来たん? 誰かと来たんやったら、そっち行ってくれてええからな」
「親と来たけど、気にしなくていい」
「そうなん? フリータイム?」
「まあ……何でもいいけど、それでいい」
何だか歯切れが悪いと思いながらも、柚真もサンドイッチを手に取る。一口齧り、海の向こうの地平線を見る。
「うちの親はなぁ、この海の何処か向こうにおるねん」
「海外?」
「んーん。たぶん底の方」
「…………」
すぐに察した。柚真の両親はもうこの世にはいないのだと。先程鯨の骨が欲しいと言っていたことを思い出す。本当に流れ着いてほしい骨は両親の骨なのではないかと。ただの推測なので確認する気はないが、親が健在にも拘らず逃げるように柚真の隣にいるのが心苦しくなる。
「溺れたうちを助けるために来てくれたんやけど、結局助かったんはうちだけで、その時ニンフになったんや」
何故そこで急にニンフが出てくるのか奏にはわからなかったが、黙って話を聞くことにした。溺れないように泳ぎを練習したと言うことだろうか。
「そのタイミングが悪ぅて、引越しもあって中学の修学旅行は行かれへんかった。小学校はただの風邪やけど」
「何か……ごめん」
「えっ、何で謝るん?」
「…………」
黙ってしまった奏の横顔を見、もう一度海の方へ、今度は少し視線を下げる。
「何か話したくなったら、いつでも言ぅて」
奏は先程拾った青い硝子を指で抓み、ころころと弄る。表面は磨り硝子のようにザラザラとしていて、やっぱり飴のように見える。ゴミの中で小さくても目立っていた青は確かに綺麗だった。
「……俺は…………逃げたくて」
ぽつりと呟くように漏らされた声は、穏やかな潮騒にも消されてしまいそうな程か細かった。
「笹城さんの方が辛いだろうから、こんなこと言うものじゃないんだろうけど」
目を瞬きながら柚真は奏を見る。奏が言いにくそうにするのは言いたくないと言うより、柚真のことを意識しているからだと気付く。柚真は言葉の邪魔にはなりたくなかった。
「辛さの度合いとか大きさとか、そんなんないから。どんなことでもその人が辛い思たら、その人には一大事やから。比べるもんちゃう。皆同じ辛いや。あとうちは……体見つかってへんし、実感はそこまでないって言うか」
訥々と話す柚真の横顔は確かに気にしていない風だったが、本心はわからない。ただ、奏に気を遣ってくれていることはよくわかった。大した話じゃないと突き放されそうな気がして、今まで誰にも言ったことがなかった。柚真ならと言うか、まだよく知らない人だからこそ話せそうな気がした。
「……上手く言えないけど、俺の所は親の束縛と言うか、勉強への執着が凄くて。逃げたくてあんまり考えずに川に落ちたんだけど、助けられて」
川に流されていた時のことを思い出し、柚真は目を見張る。足を滑らせて転んだのだとばかり思っていた。川から引き上げた時の奏の言葉が引っ掛かったことを思い出す。
「助けたん……嫌やったんや」
「あの時は……そうだったけど」
「川に流すんは桃だけにしといて」
「桃……?」
「うちは溺れてる人見るん嫌やから、助けてもぅた。せやから、おあいこにしよ」
サンドイッチを突き出し、柚真は笑う。どうして笑えるのだろうと奏は思ったが、この人にさっき笑わされたのだと思い出す。その前に最後に笑ったのはいつだったのか、覚えていない。
「このサンドイッチ……何?」
柚真が差し出したサンドイッチにはハムでもレタスでも玉子でもなく、薄ぺらい橙色が挟まっていた。
「これな、都会ではフルーツサンドが流行りなんやろ? スライスした柿挟んでみた」
「昨日から柿三回目だけど」
「フルーツサンドわかる? 都会っぽいやろ」
「田舎にもフルーツサンドあるでしょ。あとこれ……フルーツだけのサンドは見たことない」
「え? フルーツ少ない?」
「そうじゃなくて」
食パンに柿のスライスしか挟まっていない。何かが足りないことはわかる。だが奏もフルーツサンドを食べたことがなかった。
奏はもくもくとフルーツではない方のサンドイッチを齧り、柚真は首を傾げながら柿サンドを食べた。
バスケットの中が空になる頃、奏は海に目を上げた。
「今日も泊まっていい?」
「ええよ!」
最初はきょとんとするが、柚真はすぐに笑顔になった。
「叶本君はいつまで旅行なん?」
何気なく訊いたことだったが、奏の顔は一瞬で曇ってしまった。
「……明日、帰る」
「それじゃあ、連絡先交換しとこ! 東京は遠いけど、いつでも話せるから」
「え、ぁ……うん」
ポケットから携帯端末を取り出し、奏は電源を切っていたことを思い出す。真っ黒な画面を起動させると、メッセージの通知が何件か。全部親からだった。留守番電話を入れてすぐに電源を落としたので当然だ。柚真と連絡先を交換してまた電源を切る。明日帰る時にまた電源を入れれば良い。
食後もまた砂浜を歩き回ったが、意外と時間を潰せるものなのだと奏は感心した。砂の上でしゃがみ込んで手を動かす柚真を見てそう思った。
そろそろ陽が沈み出す頃、やっと柚真が顔を上げる。手には幾つかの貝殻と白い硝子と何かの海藻とか。宝石でも見つけたかのように目を爛々と自慢気に見せているが、奏にはよくわからなかった。
帰りも柚真の運転で帰路につき、田園と赤蜻蛉の間を走る。
その途中で奏は柚真の服を掴んだ。
「帰りは俺が漕ぐ」
「えっ、できる?」
奏より歩き回っていた柚真は疲れているだろうし、朝もサンドイッチを作るために早起きしているはずだ。帰りくらいは何とか漕ぎきりたい。
自転車を止めてもらい、前後を交代する。漕ぎ出しは力が必要なので、柚真は後ろで何度か地面を蹴った。それに奏が気付いているかはわからない。
「凄い走れてる!」
「このくらい、俺だって」
「――あっ、あー! あかんあかん!」
勢い込んで暫くは走れたが、小石に躓いてふらついてしまった。地面に足を出すのも遅れ、ふらふらと田圃に突っ込む。二人はどさりと土に投げ出された。刈る季節なので水が張られていなかったことは不幸中の幸いだった。稲は半分ほど刈られていたので、丁度稲のない所に転がって良かった。
「あはは!」
「かっこわる……」
「大丈夫やって。夜とか落ちてる人おる」
「いるんだ……」
「偶にな」
「……ん、何か動い……、!」
「!?」
バネのように跳ね、奏は横にいた柚真に飛びついた。が、すぐに我に返る。
「蛇が……ごめんっ」
身を引くが、下がると蛇に近付いてしまうのでまた柚真に近付いてしまう。柚真も蛇に気付き「ひっ」小さく声を上げた。
「しっ、縞蛇やから大丈夫! それとは別にうちも蛇は無理やからぁぁ!」
じっとこちらを見て動きを止めている蛇から脱兎の如く距離を取り、騒ぎながら急いで自転車を引き上げた。
「うちが自転車漕いでええやんな!?」
「う、うん」
蛇が滑るように移動を始めたので、急いで自転車に跨った。誰が漕ぐとか言っている場合ではなかった。
息を切らせながら家に着くと昨日のように柚真の祖母が顔を出し、柚真も台所へ行くので奏も付いていく。夕飯の準備の最中だった。
「柚真ちゃん、あとやってくれる?」
「はーい」
大きなボウルの中に肉と野菜が混ぜ合わされた物がある。手を洗って柚真はペラペラの白い円形の皮を一枚抓む。
「もしかして餃子?」
「うん。叶本君も手伝ってぇ」
「どうやるの?」
「スプーンでちょっとタネ掬って、皮畳んで閉じる」
実際に遣りながら包んで見せる。奏も見様見真似で遣ってみたが、皮を閉じるのが思ったより難しかった。
「タネが包めたらええんよ。形に完璧求めやんでも食べれたらええ」
「それでいいの……?」
「叶本君、真面目やねぇ」
「…………」
そうして出来上がった餃子は柚真が焼いた。
形は不格好でバラバラだったが、味は美味しかった。皿に天こ盛りにされた餃子は全て平らげるには多すぎたが、普段よりかなり食べた方だと奏は思う。腹がぱんぱんで苦しかった。
その日の夜も柚真は布団を運んできて奏の隣に敷いた。奏はまた自分の布団を壁の端まで引っ張った。
「今日は恋バナ何か思い出したぁ?」
「別に何も」
「ちょっとでも好きな人とかぁ」
修学旅行に行ったことがないのでわからないが、こういう話が定番なのだろうか。布団に潜る柚真を一瞥し、窓の外の星を見上げる。この景色も今日が最後だ。
「好きな人……」
ぽつりと反芻し、柚真の布団を見た。
「早いな」
柚真はもう寝息を立てて眠っていた。相変わらず寝付きが良い。
いつの間に眠ったのか、奏もすぐに眠ってしまった。きっと一日中遊んで疲れたのだろう。虫の合唱は相変わらず賑やかだった。
翌朝はまた柚真が先に目を覚ましていた。奏も起こされる前に起きた。
「今日の朝御飯は卵焼きにしようと思たけど上手く巻かれへんかったから、スクランブルエッグにしました! 都会は洋食やからええな。あとウインナー付けました。どう? ホテルっぽい?」
食卓に置かれた皿に目を落とし、奏は手を合わせた。
「スープと、デザートにヨーグルトでも出てきたらホテルっぽい」
「それは盲点やった。さすがホテルやなぁ」
「俺の分だけわざわざ別に作ってるよね。ありがとう」
「うちの分も一緒に作ってるよ」
「玉子がちょっと固い」
「それ気にしてるとこや。火入れ過ぎてまうねんな」
自分のスクランブルエッグを突きながら反省する。昨日の目玉焼きも黄身固めが好きだというわけではなかったらしい。
「食べられたらいいよ」
「昨日うちが言ぅたことやのに釈然とせぇへん……」
この日は奏が東京に帰る日なので、食事の後はすぐに柚真が自転車に奏を乗せて川の方へ走った。置き去りにしている奏の自転車を取りにだが、疾っくに誰かに持ち去られていると思っていた自転車は落ち葉を被りながら置き去りのままそこにあった。自転車がなくなっていれば帰れない言い訳ができたのにと少し残念に思った。
そこからはあっさりと別れた。連絡先を交換したので、話したい時には話せるが、もう会うことはないかもしれない。携帯端末の電源を入れると、現実に引き戻された気がした。二日も電源を切って逃げていたので、戻ったらさぞ怒られるのだろうなと腹を括る。できればまだここにいたかった。その言葉は何処にも吐き出すことはできなかったが。
お互いにそれぞれの日常の中に戻り、連絡先を交換したので遣り取りはしたが殆どは週末に数回だけだった。電話は一度もしなかった。身の回りで撮った写真を偶に送り合ったり、そんな他愛のない遣り取りばかりしていた。生活感のある写真が送られてくる時が特に柚真には楽しく思えた。
「おばーちゃあん」
「どうしたの?」
「東京! 行ってみてもええ?」
「あら、奏君に会いに行くの?」
「えっ、ぁ、ちゃうねん! ちょっと行きたい店? とかあって」
「ふふ。いいわよ。こっちに越してきてからなかなかお友達の話も聞かないから、新しいお友達ができて良かったわ。行ってらっしゃい」
「ああ……はは、それは……うん」
突発的に思い付いたことだが、柚真は急いで押し入れから大きなリュックを引っ張り出した。
奏とメッセージの遣り取りをしていてわかったことがある。奏には年下だと思われていたようだが、二人は同じ高校一年生だった。柚真は小柄なのでよく中学生に間違えられるためそれは気にしていない。同級生だと言うことで親近感が湧き、以前より親しくなったと思う。
善は急げと言うが、翌朝柚真は学校を休んでリュックを背負って赤いマフラーを巻き、新幹線に乗った。新幹線に乗ったのは引越しの時以来だった。東京に行くのは初めてだった。
走り抜ける窓外から見える都会はとてもキラキラと輝いていた。
目的の駅に着くと早速人混みに流されたが、携帯端末を頼りに電車を乗換える。送られてきた写真の中に学校の制服が写り込んでいる物があったので調べてみた。なので学校の場所はわかる。突然行って驚かせてやろうと思ったのだが、いざ近くまで行くと迷惑なのではと心配も過ぎってしまう。今日は平日なので授業も普通に行われているだろう。そろそろ授業が終わる時間だ。
学校に着いた頃にはもう下校する生徒が校門を潜っていた。生徒達に紛れて校舎へ入る。
クラスまではわからなかったので、一年生の教室を端から順に尋ねようとリュックを背負い直したが二つ目で当たりが引けた。教室の入口にいた男子生徒に声を掛ける。訛りを隠すために敬語を使った。
「叶本君はいますか?」
「え? 叶本? さっき出て行ったけど」
「すぐ戻ってきますか? 帰りましたか?」
「トイレだと思うけど……いつ戻ってくるかは」
「お腹の調子悪いんですか?」
「あ、いや……」
何故か言い淀むので小首を傾げるが、場所を教えてもらった。旧校舎のトイレまで行っているらしい。
教室の中で生徒達が柚真を見て話しているのが聞こえる。
「誰かの妹?」
「小学生?」
小学生は心外である。
旧校舎の方へ行くと途端に廊下に生徒の姿はなくなったが、きょろきょろと似たような景色を進んでいく。
教えてもらった男子トイレに到着すると、手洗い場の蛇口に嵌められたホースがドアの中へ続いていた。中から楽しそうな笑い声も聞こえる。トイレ掃除をしているから、いつ戻るかわからないと言っていたのだと合点が行った。
掃除ならばドアを開けても良いかとそわそわとするが、暫く待ってみても中からは誰も出てくる気配がなかった。水の音と笑い声だけが聞こえる。
きっと中で遊んでいるに違いないと割り切り、柚真はそっとドアを開けてみた。これだけ待っても人が出てこないのなら、トイレに用のある人は中にはいないだろうと判断した。
狭いトイレの通路の奥まで続くホースを目で辿り、そこに立つ三人の男子生徒の背中越しに、壁の前に力無く座り込み俯いている男子生徒が見えた。笑う三人の前に座る生徒は髪から水が滴っていた。立っている一人の手に水が流れるホースが握られている。他の二人はそれぞれデッキブラシを持っていたが、掃除ではないことはすぐにわかった。状況を察して、柚真はリュックの紐をぎゅっと掴む。とても昏い感情が見えた。
外気で冷えた右手を伸ばす。背を向けている生徒達は気付いていないようだ。
ホースが吐き出す水がぐにゃりと曲がり、くんっと柚真の手に渡る。突然手から引き剥がされるように離れたホースの行方を追い、不愉快そうに生徒が振り返った。
「は……? 何お前」
生徒から笑顔が消え、後の二人も振り返る。
「返せよ」
俯く生徒が少しだけ顔を上げ、濡れた髪の隙間から虚ろな昏い目が見えた。
「私服? 誰こいつ」
「何してるんですか」
ホースからは何でもないように水が溢れ続ける。生徒はホースを一瞥し、舌打ちした。
「見てわからない? 俺達仲良く遊んでんの。つか女子が男子トイレに入ってくんなって」
「遊んでるんですか? じゃあ私も混ぜてくださいよ」
ぴくりとも笑わず、無感動に言う。
「は? 何言っ」
そして立っている生徒に、口を狭めたホースを向けた。
「うわっ」
「冷た!」
「何すんだお前!」
勢いのついた水は三人の体に当たって弾ける。
「おいホース!」
「くっそ!」
水を受けながらも前進する。ホースの口を押さえただけの水には歩行を止める力はない。
伸ばされた腕は柚真の腕を掴もうとする。
「仲良しに見えるわけないやろ! 三人だけで勝手に遊んでろ!」
ホースの口の指を弛め、どぼどぼと流れる水は床に付かないギリギリを滑って生徒達の足に絡む。座っていた生徒だけが、低い目線の先で水が浮いていることがわかった。
生徒達は体勢を崩して壁にぶつかる。
「いっ!」
「何だよ!?」
「何しやがった!?」
床にギリギリ付かない水はくるりと円を描き、生徒の死角を通り足や腕を引っ張り転ばせる。何をされているのか見当もつかない生徒達は次第に焦りだした。
「何だこいつやばい!」
「くそっ、何なんだよ!」
口々に吐き捨て出入口に走り出す。柚真は道を空け、振られる拳も水を絡ませて避ける。
廊下を走り去っていく音を確認し、浮いていた水はぴしゃんと床に落ちた。
「水、勿体ないな」
水を止めてホースを置き、座り込む少年の前にしゃがむ。
「久し振り。奏君」
顔に貼り付いた少年の髪を指で拭う。奏は虚ろな目で少し驚いたように柚真を見、逸らして伏せた。
「……何で来たの」
「久し振りに会いたいなぁって」
「こんな所……」
「奏君、立てる?」
立ち上がって手を伸ばし、奏は逡巡したが手を掴んだ。
頭の先から靴の先までぐっしょりと濡れている。髪や服からぼたぼたと水が滴り続ける。初めて会った時のことを思い出し、柚真は深く詮索はしないことにした。
「そのままやと風邪ひくから」
柚真は一歩下がり、奏に掌を翳す。次の瞬間、服や髪が吸った水がパンッと外側に弾けた。キラキラと水滴が一瞬止まって見える。
「何これ……」
奏は自分の制服を掴み、眉を顰める。ぐっしょりと濡れていた制服は全く湿っておらず、からからに乾いていた。靴も、髪もだ。
「せやから、ニンフやって。水をな、こう操れんの」
初めて会った時もずぶ濡れだったが、会ったばかりでこの力を見せるのは躊躇われた。今ならその躊躇いもなかった。
床に落ちた水を、指をくるりと回してもう一度浮かせる。自然現象では考えられない水の動きだった。冗談だとしても、仕掛けがわからない。真実なら、流れの速い川に飛び込んで流されずに奏を助け出せたことにも筋が通る。水を自由に操れるなら、流されないよう川の水を操ればいい。
奏はズボンのポケットに入れていた青い硝子を抓み出して握り締めた。
「あ、それ海で拾ったやつ」
「見られたくなかった」
「え?」
「こんな嫌な所」
奏は柚真と目を合わせない。川で会った時のような無感動な体温が冷めるような冷たさに戻ったようだった。そのことがとても寂しく思えた。
「何で……? 悪いんはさっきの人らやん。追っ掛けて人間洗濯機したろか?」
「人間洗濯機って何……。……とにかく、僕が弱いだけだから」
「奏君……」
よく見ると頬に掠ったような小さな傷があることに気付いた。柚真は足元に転がったデッキブラシに目を落とす。硬いブラシを擦りつけられたのだろう。痛くて苦しくても誰にも言えなかったのだろう。教室で奏の居場所を訊いた時、生徒は居場所を知っていた。何が行われているのかも知っているようだった。なのに何も行動していない。それが答えだろう。
柚真は巻いていたマフラーを外し、奏の首に回した。
「乾燥させたけど、水で冷えたやろ? 温度はすぐに戻らんからな」
奏は巻かれたマフラーに手を遣る。とても温かかった。
「うちも男子トイレに長居したないし、帰ろっか奏君」
「…………」
一歩二歩と歩くと、奏もゆっくりと付いてきた。それを確認しながら教室に荷物を取りに戻ると、残っていた生徒は奏を見て驚いていた。廊下に水の足跡があったので察した。先程の濡れた生徒達を見たのだろう。それとも奏が濡れることは日常茶飯事で、濡れていないことに驚いているのか。
荷物を取る間、生徒は誰も話し掛けてこなかった。柚真は一言何か言いたい気持ちもあったが、奏はそれを望んでいないだろう。
教室を出て学校を出ると、奏は漸く口を開いた。
「そのリュック……登山でも行くの?」
「ちゃうし!」
全く予想しない言葉だったが、先程のあれを掘り返したくないのだろう。だったらもう先程の話は終わりだ。それで奏の気分が落ち着くならそれでいい。
「奏君すぐ見つけられるかわからんかったから、泊まる予定で来たんや」
「いつ来たの?」
「今日! すぐ見つかって良かったぁ」
へらりと笑うと、奏に目を逸らされた。少し不満だ。
「観光?」
「んー。何処か行けたらと思うけど、何も考えてへん。昨日思い立ったからな」
「行動力……。……あ、これ返すよ。自分のがあるから」
首に巻かれた赤いマフラーを解き、柚真に手渡す。その手で鞄から紺色のマフラーを掴むと、バラバラと落ちた。
「あ」
破れたわけではなく、明らかに鋏で切られたような断面だった。
「さっきの人ら? ほんましょーもないことしかせぇへんな。やっぱり人間洗濯機……」
「……いいよ。そんな風に言ってくれる人は初めてだったから、それだけで充分だから」
「そう……?」
「それより、折角来たんだから、見せたい物があるんだけど」
早々に話を切り上げ、話題を変える、飽くまで話は掘り返さない。だが徐々に氷が溶けていくように冷たさが和らいでいくことに柚真は安心した。
「見せたい物? 何やろー」
行き場を失ってしまった赤いマフラーは首に巻かず手に持ったままで歩いた。
街中も駅も何処も彼処も人混みで、キラキラとした電飾も相俟ってお祭りみたいだと柚真は思った。
「小さい鞄は持ってきてないの? そのリュックずっと背負ってるの大変でしょ」
「何も考えてへんかった」
「何か買う?」
「東京は物価が高いんじゃ……」
「安い物もあるよ。ほら、あそことか」
指差した先にはファンシーな小さな雑貨屋があった。若い女性客で賑わっている。
「大人はあんまり買わないかもしれないけど、中高生向きの店がある」
「うわぁ、凄い可愛い!」
大きなリボンも魅力的だったが、先程学校で小学生に間違えられたことを思い出し、落ち着いた色合いのポシェットを手に取った。蓋の縁のレースカットが可愛い。大きさは財布と携帯端末が入れば良い。
「色々お世話になったから、俺が買うよ」
「ええん!? 誕生日でもないのに!」
ポシェットを手に足をぱたぱたと柚真は興奮気味に目を輝かせた。余程嬉しいらしい。こんなに喜んでくれるなら、お礼のし甲斐があると奏は思う。誕生日は知らないが、クリスマスは近いので丁度良いプレゼントかもしれない。
大きなリュックはロッカーに詰め込み、身軽になった柚真は今度こそ見せたい物に向かう。
奏が連れてきたのは、サンドイッチの専門店だった。お洒落な具材が詰め込まれたサンドイッチの横に、色取り取りの果物が挟まったフルーツサンドが並んでいた。
「フルーツサンドを見せたくて」
スライス柿サンドを思い出し、柚真は顔を覆いたくなった。
「フルーツだけちゃう……意味がわかった。白いやつ……」
「生クリーム」
「それかぁ。これもうケーキやん」
「食べる?」
「食べたい!」
目を輝かせる柚真に弱いのかもしれないと奏は思い始めた。こんな顔をされたら、買ってあげたくなる。振り向く柚真と目が合いそうになり、慌てて逸らす。
「どれしよぉ。ケーキやったらやっぱり苺かなぁ」
苺サンドを買ってもらった柚真は店先に置かれた椅子に座り、早速袋を開ける。
「二個あるから、奏君の分」
袋を目の前に差し出され、奏は躊躇ってしまう。
「え、と……いいよ全部食べても」
「半分しよ!」
「ぁ、うん……」
圧に負けて受け取ってしまう。存在を知ってはいるが、奏もフルーツサンドを食べるのは初めてだ。あの柿サンドを数に含めるかは悩む。
「美味しいなぁ。ケーキやぁ」
にこにこと食べる柚真とまた目が合いそうになり、奏は慌てて逸らす。
「奏君、今日めっちゃ目ぇ逸らすやん」
「……そんなことないと思うけど」
「うちの目ぇ見てみぃ」
「…………」
「めっちゃ逸らすやん」
やはり柚真の方を見られない。奏自身も何故見られないのかわからないが、目が合いそうになると胸の奥がざわざわとするような違和感がある。変な感じだった。
「どっ、何処か行きたい所とかないの?」
「話も逸らすやん」
「海……水族館とか?」
「せやったら深海魚見たいなぁ」
無理矢理話を逸らしていると、漸く柚真も折れた。
「深海魚って、例えば?」
「デメニギス見たいなぁ。頭透けてて脳味噌見えてる魚」
「グロくない?」
一応携帯端末で調べてみるが、出てきた画像は本当に頭が透明だった。だが思ったよりは綺麗だと思った。
「生体を展示してる水族館は無いらしい。少し前にアメリカの水族館にはいたみたいだけど」
「えっ」
「深海魚だったら、この辺りだと神奈川の水族館にいるって」
「えっ神奈川って何処?」
「東京の隣だけど」
「行けそうやったら行ってみたいな」
「蛇苦手なのに深海魚は平気なんだね」
「一緒にしたらあかんて。蛇は足無いのに地上を動くから怖いんや。せやから海蛇は平気」
「そうなの?」
理由に半分程は理解できるが、残りの半分は首を傾げる。
苺サンドをぱくぱくと食べ終え、柚真は満足そうだ。奏も最後の一口を運び、立ち上がる。今から水族館には行けないが、他に柚真の行きたい所があればと思う。
周囲の店をきょろきょろとする柚真の少し後ろからぽつりと、柚真にしか聞こえないような声で奏は呟くように言った。
「柚真の所、泊まってもいいかな?」
柚真はハッと振り返り、目を丸くした。
「うち取ったホテル、ビジネスホテルの小さい部屋やねんけどっ」
「良かった、カプセルホテルじゃなくて。俺は椅子で寝るから」
「ぇ……まあ、ええけど」
奏が親から逃げたい気持ちはもう知っている。だからこそ突き放したくはなかった。奏も泊まるのなら二人部屋を予約したのだが、こう言い出すことまで頭が回らなかった。
「何か凄い修学旅行っぽいな?」
「そうかも」
行ったことはないけれど。
「修学旅行の晩御飯って何食べるんやろ……ステーキ?」
「それはないと思う」
話しながら歩いていると、反射的に奏は硬直し一瞬足を止めてしまう。柚真に気付かれる前に無理矢理足を動かすが、視線は地面へ落とす。人混みの中にクラスメイトの姿を見つけた。トイレにいた生徒達ではないが、他のクラスメイトも苦手だった。奏が何をされても無関心で何も言わないが、同調しているのか携帯端末の中では悪口を書き込んでいる者がいることを知っている。顔を見るだけで吐き気がする。
時々、柚真も実は裏では嘲笑っているのではないかと思うことがある。完全に信じることができないでいた。だがこの笑顔が嘘だと思いたくなかった。
「晩御飯はホテルの中で食べない?」
「ん? まさかコンビニパーティ? 楽しそう! ええと思う!」
コンビニなんて何処でもあるのにそんなに喜ぶことなのかと奏は不思議だったが、柚真の家の周りは田畑だらけでコンビニなど目に入ってこなかったことを思い出す。ここでは少し歩けば幾らでもコンビニに行き着く。それが柚真には珍しい光景なのだと察した。クラスメイトがいて逃げたいだけなどとは夢にも思わないだろう。
コンビニを何軒か回り、膨れたビニル袋を手にホテルへ行った。柚真の言った通り部屋は狭かったが、ベッド一脚に机と椅子。椅子があって良かった。
机にビニル袋を置き、大きなリュックはベッドに置く。
「あ、椅子使うよね」
「ええよええよ。奏君座りぃ。ベッドでもええけど」
奏は遠慮がちに椅子に鞄を置いて座る。こういうホテルは初めてだった。柚真も初めてのようで、トイレ兼浴室のドアを開けてはしゃいでいる。
「めっちゃ楽しいな! 修学旅行みたいやし、知らんお菓子いっぱいあるし」
「柚真は修学旅行行きたかったんだ」
何度も聞いた言葉に、ついぽつりと漏らしてしまい、慌てて口を噤んだ。楽しんでいる柚真に水を差すことになってしまう。
「行きたかったよ。行ったことないとこに旅行行くん面白いもん」
「……そ、か」
歯切れの悪い返事に、柚真はすぐに心当たりを見つけた。奏の学校での扱いを見ると、柚真のように行けなかったのではなく奏は、行かなかった。あまり柚真だけで盛り上がるのも悪い気がする。
「肉まん! 食べよ!」
「ごめん、ノリ悪くて」
「そんなん気にせんでええて! うちも関西おったけど漫才とかできひんし!」
「ああ、それでその訛りなんだ。じゃあ都会も初めてじゃないんじゃない?」
「初めてちゃうけど、そんな頻繁には行かんし、久し振りやし」
袋から肉まんを取り出して奏に手渡しつつ、柚真は慌てたようにベッドに腰掛ける。
「フルーツサンドも知らないくらいだから、慣れてないのはわかるよ」
「あれは掘り返すもんちゃう……」
「ふふ」
ぶんぶんと首を振る柚真がおかしくて、つい笑ってしまう。現実の日常に帰ってきてから、もう笑えないのだと奏は思っていた。自然に笑えたことに自身が驚く。
「笑てる方がええよぉ。楽しそうな奏君見るん好きやぁ」
「ぇ」
突然の好意に目を丸くして柚真を見るが、彼女の興味はもうリモコン片手にテレビの方へ向いていた。チャンネルが多いとはしゃいでいる。
奏もまともにテレビを見るのは久し振りだったので、一緒になってぼんやりと見てしまった。
だらだらと晩御飯を済ませ、風呂は先に柚真が入った。奏が風呂から上がると柚真はカーテンの隙間からじっと星の見えない外を見ていた。
「都会って明るいね」
「……そうだね」
柚真の頭越しに奏も外を見る。もうすぐ日付も変わる時刻だが、まだビル群には明かりが点り、車のライトが筋を引いて走っている。この明かりが全て消える時間はないのだと思う。
柚真は眠そうに欠伸をしながら振り返り、いそいそとベッドに向かう。
「奏君もベッド使てええよ」
「!?」
「うち小さいから、いけるやろ」
「いやそれはちょっと……」
修学旅行とはそういうものなのか? と謎に包まれた行事のことを考えるが、行かなかった奏にはわかるはずもなかった。
もぞもぞとベッドに入り壁の方へ寄る柚真を見て、意識をしているのは自分だけなのかもしれないと奏は困惑した。だったら意識をしている方が失礼なのではないかと思ってしまう。
柚真の家の時のように布団を引き離せないので、ベッドから落ちそうなくらいできるだけ端に寄って横になった。
「何か話とかするぅ?」
そう言った柚真は既に目を閉じている。顔が近い。柚真の家ではもっと早い時間に寝ていたので、起きていられないのだろう。
「話って、恋バナとか?」
「えぇ? ないんやろ?」
「……ないけど」
「…………」
言葉が返ってこない。暫く無音が続いた。もう眠ったのだろう。相変わらず寝付きが良い。
「……柚真のこと……好きなのかも」
掠れるくらい小さな声で譫言のようにぽつりと呟いた。
「目が合わせられなくて……ごめん」
奏も目を閉じ、その日は驚くほど寝付きが良かった。いつもは何処からか来る不安で眠れないのに。
翌朝目が覚めると、体がとても重かった。そして左腕を中心に柔らかくて温かい。疲れが取れなかったのかと目を開けると、黒い塊が見えた。頭だった。状況を理解するのに少し時間を要してしまった。
柚真がすやすやと奏を抱き枕にしている。柚真の家では結局二日共布団を離して眠ったし柚真の方が先に起きていたので気付かなかったが、彼女は相当寝相が悪いのかもしれない。
「柚真……離すか起き、てっ」
ベッドの端の端に横になっていた所為で、少しの身動ぎでがくんと落ちてしまった。
「ぐっ」
道連れに柚真も落ちてくる。思い切り腹に肘を食らった。
「……あれ? 奏君おはよぉ」
まだ寝惚け眼で柚真は身を起こして見下ろした。
「おはよう……」
「トイレお先になー」
奏に手を伸ばして起こしてから、欠伸をしながらトイレに入っていく。寝相の自覚はなさそうだった。
トイレに座ってから柚真はまだこくこくと頭を揺らしていたが、やがて徐々に覚醒していく。
(…………あれ、夢……? 何か奏君に好きとか言われた気がすんねんけど! でも夢やとしても何か意識してもぅてるってことやんな、うち!? どないなん!?)
蹲るように両手で頬を覆い、顔を真っ赤にする。何も考えていなかったが、異性と同じベッドに一緒に寝るのは不味かった気がした。
(うちが誘ってもぅたやん……! 何がいけんねん! 奏君あんま何も言わんけど絶対困っとった! どうしよトイレから出られへん! あかん出やなウンコや思われる!)
柚真は急いでトイレから出た。鏡で確認したが、顔の赤みは少しは鎮められたと思う。後は冷たい飲み物で冷やそう。
そろそろと壁から覗くと、奏は机に昨日買っておいた朝御飯を冷蔵庫から出していた。
「奏君……何もなかった?」
「え?」
思わず変な質問をしてしまった。喋ると襤褸が出る。
「何もって? 柚真が凄く寝相が悪いこと?」
「えっ? それは嘘やと言って……」
「起きるまで僕……俺も気付かなかったから、気にしてないよ」
「ほんまごめん!」
意識も吹き飛ぶくらいの衝撃をぶつけられて柚真の顔の赤みは一気に引いた。起きると腕や脚が布団から食み出ていることは何度もあったが、そんなに寝相が悪いとは思わなかった。冷や汗が出る。
「朝御飯、食べよう。水族館行くんだよね?」
「う、うん……行きたい」
ベッドにとすんと座り、割箸を握る。
(一緒に水族館って……デート!? これデートなん!? でも友達とでも行くやろしな……わからん……デートって何なんや! 定義は! 恋バナとかする相手おらんかったんや! わからへん! いや好きな人おるって話は聞いたことあるけど! その先や!)
平静を装いながら朝食を終え、隣県へ行くと言うことで早々にホテルを出た。柚真も奏の方を見ることができなくなってしまった。
(夢なんか現実なんかはっきりせなあかん……せやないと只の自意識過剰や……)
大きなリュックは今日もロッカーに放り込み、ポシェット一つで身軽になる。雑念が酷い。このままの気持ちで楽しめるのかと不安だったが、水族館に着いた瞬間から楽しくなった。海が近くに見えるのも良かった。
薄暗い館内に、水槽の中の光が揺れる。海の底に沈んで水面を見上げる。
大水槽の中には大小様々な魚が優雅に泳ぎ回っていた。柚真は青い水槽の前に立ち、揺蕩う世界を呆然と見詰めた。
「お父さんとお母さんも、こんな綺麗なとこにおるんかなぁ」
ぼそりと呟かれた言葉に、奏はしまったと思った。砂浜で遊んでいた柚真はとても楽しそうで、海で何があったのか失念していた。水族館なんて最悪じゃないか。昏い海の底から見えない空を見上げさせるなんて。
「柚……真、ごめん、出よう」
「え? 何で?」
「何でって……」
突然の奏の焦燥に柚真はきょとんとするが、すぐに自分の言ったことが原因だと気付いた。
「……ぁ、そうか。こっちこそごめん。前も言ったと思うけど、そんな気にせんでええから。気にしてへんし」
「…………」
「そんな暗い顔してる方が気になるしな」
「……ごめん」
「奏君謝ってばっかや。凄いもん見せたるから、あの小魚の群れ見ときぃ」
沈んだ顔をする奏に柚真は頬を膨らませて魚の群れに指を差す。
「鰯……」
鰯の群れの中にぽっかりと円が空く。何もない空間を避けるように。
「あれ……難しいな」
穴が閉じると、また同じように円が開く。何もないのに。
「……柚真がやってるの?」
「水流当ててハート作られへんかなぁ思たんやけど、めっちゃ難しい。できたら可愛いのになぁ」
「凄い……」
「硝子越しでも水操れるんかわからんかったけど、見えてたらいけるっぽい」
何度か試してみるが、ハートの凹んだ部分が上手く作れない。柚真が首を傾げていると、群れに空く円に目を奪われながら奏はぽつりと言った。
「柚真の両親が水の中にいて、柚真に力を貸してるのかな……」
はっと柚真は水槽の青に照らされた横顔を見る。そんな風に考えたことはなかった。だったらあの日からずっと――。
「水の中に近くに……」
「! ごめ、泣かないで」
「泣かへんわ! 何か、こう……海水が染みたんや……」
「それ一大事だけど? 硝子……割ったの?」
「割らんわ! 信じんといて!」
「えぇ……?」
誤魔化すように先に進むので、奏も後に付いていく。このままでは水族館を出るまで柚真の背中を見ていることになりそうだったので、奏はきょろきょろと辺りを見回した。
「――柚真、少し座ろ」
「え? ……うん」
指差した先のカフェで飲み物を買い、外のデッキに出て座った。目前に海が広がり、少し冷たいが風が心地良い。
「学校サボったのは初めてだ」
「……そっか、平日やもんな。前にウチ来たんは連休やったもんね」
「一人じゃ逃げ切れなくて、柚真がいてくれて良かった」
「それは良かった」
「……ずっといられればいいのに」
「っぶ、ふ、げほっ!」
「えっ、あ! ごめん今の……違う!」
「なっ、何がちゃうねん!?」
「違う……本当に違うから!」
慌てふためき、顔を逸らして足元を見る。落ち着くためにストローを咥えた。
「違うって……き、昨日の夜も……?」
「ふぶっ、げほげほごほっ!」
「ふっ、ふふ、くくっ……ふ」
「わ、笑うな」
(うわあぁ、昨日のん夢やなくて現実っぽい! 噴き出すん面白くて笑てる場合ちゃう!)
(寝てると思ってたのに! 何で起きてるの!? どうしよう! 誤魔化す!? でも下手なことは言えない……!)
「…………」
「…………」
二人は暫く無言で足元や海を見詰めながら静かに飲み物を飲んだ。飲みきるまで言葉はなかった。じゃくじゃくとストローで氷を突きつつ、言葉を探す。
「……深海魚、見に行く?」
「えっ、あ、あぁ、うん。そやね」
「一番最後の展示みたいだけど」
「最後……。最後やったら……急ぎたくないなぁ」
「じゃあ、ゆっくり行こ」
「うん!」
ゆっくりのつもりだったが、あれもこれもと歩き回る内、『最後』に到達するのはあっと言う間だった。
一層暗い深海魚の展示にはやはりデメニギスはいなかったが、巨大なダンゴムシ――ダイオウグソクムシに奏はぼそりと「グロい……」呟いた。
最後に土産屋を覗き、やや足取り遅く柚真はぬいぐるみをもにゅもにゅと掴む。
「それ欲しいの?」
「チョウチンアンコウぬいぐるみめっちゃ可愛いやんな。せやねんけど、買ったら帰らなあかんねんなって思って」
「面白い物見つけるの上手いよね」
ぬいぐるみを手に柚真は振り返り奏を見上げてきょとんとする。そしてへらりと笑った。
「奏君のそういうとこ好きやぁ」
無邪気な笑顔に奏は目を逸らしてしまう。
「それ………………無自覚?」
「え?」
再びきょとんとするが見る見る顔が赤くなっていく。
「あっ、ぁ……あのっ、そういう……その……あの…………」
言葉が何も出てこずしどろもどろになってしまう。
「そういう風に言われたことなくて……その……変やない?」
「? 柚真が良いって思う物なら、変じゃないと思うけど……」
「……!」
柚真は顔を赤くしたまま背を向けた。ぬいぐるみと目が合う。顔から火が出そうだ。
「嫌なこと、言ったかな……」
「そ、そういうんは……昨日の夜のことはっきりさせてからにしよ」
「……それ盾にしないでよ」
奏も目を逸らし、耳が赤くなってしまうが髪で隠れていることを祈る。言ったことを後悔はしていないが、何度も言われると心が持たない。
だが何とか少し冷静になってみると、あることに気付けた。
「聞いてたんなら……柚真はどうなの?」
盾にし続けた柚真はびくりと跳ねた。聞いてしまったなら当然、返事を問われる。それに今更気付いた。
「う、うち……うちは……」
ぬいぐるみを握り締め、唇が震えた。声も震えていたかもしれない。
「自分の気持ちが、どんな気持ちなんか……わからへん……」
やっとの思いで口にした言葉は、答えになっていなかった。全力で走った後のように息が上がる。
「じゃあ、確かめる……?」
「どうやって……?」
「こっち向いて」
またびくりと跳ねる。そろそろとぬいぐるみを置き、恐る恐る振り返る。
(こっ、こんな人の多いとこでちゅーとか迫られたらどうしたらええんや……ぁぁ……)
ゆっくりと目を開けると、手が差し出されていた。
(うちのあほー! 握手やー!)
ぱちんと自分の頬を叩いた。
「柚真……?」
「な、何でもない……」
煩悩なのか何なのか、悟られないように目を逸らす。そんな下心はないはずだ。ただの一種の予想だ。
「そういう……気持ちなら、手を繋いだらわかるかなと……」
「てっ、手……せやな……手な……」
差し出された手をじっと見詰め、ごくりと唾を呑んで恐る恐る手を掴んだ。きゅっと握ったままお互い固まる。
「どう……?」
「手汗が凄い……」
「俺も……」
心臓の音が手から伝わっているのではないかと焦りが指先まで支配していく。同時に怖くなっていく。
先に離したのは柚真だった。耳まで真っ赤にし足を縺れさせながら、出口に向かって歩くギリギリの速度で駆けた。
「先に外に出とくな!」
「えっ、え!?」
慌てて奏も追う。心臓の喧しい音が伝わってしまったのかと焦る。
外に出るとちらほらと小さな雪が散っていた。寒さの所為なのか上気する頬が赤く灰色の世界に差す。
一度伸ばしかけて引いた手をもう一度伸ばし、外気で冷えた柚真の指先を掴む。
「っ、わぁ!」
「転けると思った!」
だが指先だけでは引き寄せられず、一緒に地面に倒れた。周囲の人々の目が辛い。
「……怪我、ない?」
「ないです……」
先に立ち上がった奏が柚真に手を伸ばす。柚真は逡巡するが、そろりと手を握った。握った手はとても優しく温かかった。
「どきどき……する」
立ち上がり、握った手を離す。
「口から内臓全部出そうやぁ」
「グロくない?」
「奏君実はこういうん慣れてるに違いないわ……罠やわ……」
「こういう気持ちになったの柚真が初めてだけど……学校まで来た柚真ならわかるでしょ」
「怒ってる……?」
「怒ってないけど。力があるからって、無茶しないでよ」
「怒ってるぅ」
「怒ってないから。……柚真が怪我させられたら嫌なだけ」
「奏君ってそんな喋る人やったっけ……」
「黙ってたら話が進まないから……」
「頑張ってくれてるんやぁ」
少し困ったように、だがすぐに純朴な笑顔で見上げる。
「目は合わせられへんのにぃ」
「…………」
それは否定できない。目を合わせると言葉が出てこなくなる。
「あ、そろそろ新幹線乗りに行かなあかんかも」
「もうそんな時間?」
「家遠いからなぁ。もう一拍くらい取っとったら良かったな」
駅へ足を向けて灰色の世界を歩き出す。それを止めることはできない。
来た時と同じように登山のような大きなリュックを背負い、改札の前で手を振る。時間もあるので引き止めることはできない。別れなんてこんなものだ。
「――あ、そや。忘れるとこやった。お土産持ってきたんや」
「お土産?」
「これ!」
そう言って袋に入った何かを突き出す。
「拾ってきたドングリや」
「ドングリ……」
「大きい松毬も付けといた」
自慢気に言うが、都会でも公園で拾えることを知らないのだろうか。だがまあ柚真が拾ったということに意味があるのだろう。
「じゃあ、またな!」
「またね」
苦笑しながら手を振り返し、背を向ける柚真に一拍遅れて、一度呑み込んだ言葉を思い切ってぶつけた。
「今度は俺が行くから!」
柚真は振り返って目を丸くした後、前方の柱にぶつかった。顔を真っ赤にして顔を覆った後、また手を振ってきた。そのまま改札の中へ消える背を見送り、奏も踵を返す。
歩きながら貰った袋の中をちらりと見てみると本当に大きな松毬が目に飛び込んできた。
(……ん?)
上に載った大きなドングリの一つに黒い傷が見え、抓み出してみる。それは傷ではなく、ペンで書かれた文字だった。
『うちも好き』
「!」
いつの間にこんなことを書いたのかわからないが、完全に不意打ちだった。
(びっくりした……)
頬が熱い。これで次はいつ会えるかわからないのだから、本当に狡い。振り返っても姿が見えるはずはなく、文字の入ったドングリだけポケットに入れて熱を振り払うように走った。
新幹線に揺られながら柚間はぼんやりと窓の外を見る。都会はいつでもキラキラとしているのだと思っていたが、今更気付いた。もうすぐクリスマスだからだと。
ドングリに書いた文字にはもう気付かれただろうか。ロッカーからリュックをもたもたと取り出している時に書いたのだが、上手く背中で隠せていたと思う。いつからこの気持ちがあったのかはわからないが、一緒にいる時の幸せな気持ちはきっとそうなのだと思う。
最後に奏が言っていたことを思い出して、柚真は窓に頭をぶつけた。来てくれることがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。柚真の心の中はこの窓の外のようにキラキラとしていた。
次に会う日が楽しみだった。
初めて恋愛ものを書きました。
方言訛りは一度書いてみたかったので、書けて良かったです!
読んでくださりありがとうございます!