2巻発売記念SS.2
暑い、夏だ。
給仕係を辞め、レオンハルト様の外務室で働くようになって二ヶ月。
一階の調理場より風通しがよいから快適だと思っていたけれど、やっぱり日中は暑い。
それでも夕方になれば涼しい風が吹き、働き詰めの私を夢の世界へと誘い……。
「リディ、起きている?」
「は、はい。大丈夫です」
向かいの机から小声で問いかけてきたのはダグラス様。
ちょっと船を漕いでいた気もしないではないけれど、びしっと背筋を伸ばして書類を手に……あれ、どこまで読んだっけ。
「最近、忙しかったからね。リディにまで日付が変わるまで仕事を手伝って貰っていたし、疲れが溜まっているだろう」
そう言って、ダグラス様は水差しから水をグラスに注ぎ手渡してくれる。
相変わらず優しい。
「毎年、この時期は忙しいのですか?」
「うーん。各部署への予算決めが秋にあるから、それに向けての書類作りが通常業務に加算されるんだ。それに、ほら。もうすぐある夏祭りを異国の皇太子殿下が観にこられるだろう、その準備もあるしね」
そんなことを話していると、騎士団へ行っていたレオンハルト様が戻ってきた。
夏祭りの警備について確認したいことがあると呼び出されたけれど、それってレオンハルト様の仕事なのかしら。
「あぁ、疲れた」
どさりと椅子に座ったレオンハルト様。グラスに水を注ぎ手渡すと、一気に飲み干した。
「レオンハルト様、明日は執務室を閉める日ですよね」
「ああ、そうでもしないと、あちこちから仕事が回ってくるからな。ただ、そのためにも今日は帰りが遅くなりそうだ。リディ、連日で悪いが残業はできるか?」
「分かりました。でも、明日は絶対休みます。ハンナ達と劇を観に行く約束をしているんです」
私の言葉に、レオンハルト様とダグラス様が同時に顔を上げた。
「それは今流行りの観劇か? というか、どうして俺を誘わない」
鋭い視線で私を睨んでくるレオンハルト様。
ダグラス様の机からは「誘えばよかった」と舌打ちが聞こえてきたけれど、誰のことを言っているのかしら。
「エイダが派遣先で偶然チケットを貰ったんです。今流行りの劇で、劇場ではなく公園の木立の中でするそうですよ」
劇場は公演中、すべての扉を閉める。
夜には過ごしやすい気温になるけれど、それでも大勢が密室に入れば暑くなるのは必須。だから、夏の観劇は不人気なんだけれど、今回、それを逆手にとって屋外でする劇団が現れたのだ。
外は涼しい風が吹いて過ごしやすいものね。
そして演じるのは不運にも側妃に暗殺された王太子妃の怪談話。
最近人気のある脚本家が書いた物語で「呪われた森」というタイトルらしい。
お城が舞台じゃないんだと思ったけれど、そこは屋外ですることを最大限に生かすための演出らしい。
実際の木々の枝から幽霊に扮した人がぶらさがったり、木々の間を白い布が飛び交ったりするとか。
「それはなかなか面白そうだな」
「そうですよね。ちなみに、一ヶ月後には違う演目をするそうです」
「それなら、その演目は一緒に行こう」
微笑を浮かべたレオンハルト様は綺麗だけれど、言葉には有無を言わさない強さがある。
えーと。断る、のは失礼よね。
一応、婚約者なのだし。
あっ、でも、本当の婚約者になるのは男爵になった時だから……となると、私とレオンハルト様の今の関係ってなんなのかな。
聞いてみようと思ったけれど、止めることにした。
なんだか逃げ道を塞がれそうな気がするもの。こういう時は話を逸らすに限る。
「あっ、もうこんな時間。仕事をしませんと」
「返事をまだ聞いていない」
「ほら、机の上に書類がこんなに沢山」
「そうだな。で、返事は?」
ちっとも笑っていない目なのに、口角だけは上がっている。
絶対逃げられないと悟った私は「……はい」と渋々答えた。
「では決まりだ。ところで街中に貼ってあるポスターをちらりと目にしたが「呪われた森」というのは金色の髪に青い瞳の姫が出てくるのか?」
「はい。ヒロインの王太子妃がそうです」
「だとすると、数百年前に実際にあった王太子妃暗殺事件を参考にしているのかもな」
そんな事件があったのですか。
数年前には王太子未遂事件が起こっているし、高貴な方は大変だ。
そんな会話を交わしつつ、時には睡魔と戦いながら私は真夜中まで残業した。
こんなに働かないといけないなんて、聞いてないよ!
やっと仕事をやり終えて、うつらうつらしながらレオンハルト様達と一緒に廊下を歩いていると……一瞬意識が飛びかけた。
いけない。歩きながら寝てしまいそうになったわ。
ぼーとした頭で階段を下りていると、先頭を歩くレオンハルト様の姿が踊り場にある大きな鏡に映った。次いで、、ダグラス様と私の姿。
「あっ、髪がぼさぼさだわ」
必死に働きすぎたのね、と鏡に映る自分の姿を見つつ、金色の髪に手を伸ばした。
もちろん鏡に中の私も同じように金色の髪をしている。
ぼーとしながら髪を梳かすように手を上下させていると、階段下からレオンハルト様が声をかけてきた。
「リディ、何をしているんだ」
「なに、って髪がボサボサだったので梳かして……あれ?」
そこではっと気がついた。
ここはお城。私は髪を黒く染めお団子にして耳の下で纏めていたはず。
何もない宙を、まるで髪を梳かすよう動かしていた手を止め鏡を見ると、そこにはいつもの黒髪の私がはっきりと映っていた。
「きゃぁぁ‼」
「わっ! どうしたんだ。リディ、いきなり」
「あの、あの鏡に‼」
階段を駆け下り、レオンハルト様の腕にしがみつく。
「レオンハルト様、見ましたよね」
「いや? というか何を言っているのか分からないんだが」
「ダグラス様! ……お顔の色が悪いですが、もしかして」
「いやいやいや! 僕は何も見ていないよ。さ、帰ろう」
ダグラス様はそういうと、信じられない速さで歩いていく。
えっ、ちょっと待ってくださいよ。
私はぎゅっとレオンハルトの腕に捕まり、絶対離さないとばかりに力を込めた。
「私、もう二度と残業はしません!」
うん、きっと疲れているんだ。
働き過ぎは良くない。いいことなんてこれっぽちもないっ‼