薔薇の思い.1
この前に来た時は夜だったから気づかなかったけれど、庭には、瑞々しい緑の葉に映える白い花を咲かせた梔子の低木、可憐なピンク色をした夏咲きのグラジオラスが色鮮やかに咲き誇っている。
門から家まではレンガを敷き詰めた小道になっていて、その上を走り玄関扉を叩くも返事はない。でも、もしかして、とドアノブに手をかけるとガチャリという音がして扉が開いた。
「エステル嬢、いますか?」
首だけ家の中に入れて覗きみる。沢山あった鉢植えは片付けられ、泥だらけだった廊下も綺麗になっていた。
返事はないけれど、鍵が掛かっていないからここにいるはず。ちょっと戸惑いつつ家の中に足を踏み入れる。廊下は真っ直ぐ裏口へと続き、左右には二つずつ同じ形の扉。
とりあえずその扉を開けながら裏口へと向かう。だけど、どの部屋にもエステル嬢はいない。
最後に裏口に一番近い調香室の扉を開ける。
「はっっ!?」
思いもしないその部屋の光景に私は呆然と立ち尽くす。
まるで嵐が去ったあとのような荒れよう。そして部屋の中には蒸せ返るような甘ったるい香りが充満している。
テーブルの上に乗っていた、硝子の調香器具は全て床に叩きつけられ、床は硝子の破片で覆い尽くされている。
足を切らないように爪先立ちで、できるだけ硝子がないところを選びながら奥へと進む。奥のテーブルに置かれていた液体が入った小さな小瓶は、払い除けられたように床に落ち割れて積み重なっていた。
飛び散る硝子の破片は、傷ついたエステル嬢の心のようで。
幾つもできたピンク色の水溜まりは涙に見えた。
言葉を失い立ち尽くしていた私の耳に、パチパチと小さく爆ぜる音が聞こえてくる。
何の音?
燃えている?
気づけば、硝子の中に足を踏み入れ、扉に向かっていた。足首の辺りに鋭い痛みが数回走ったけれど、知ったことではない。
裏口を開けると、果たして、目に映ったのは立ち上る炎。
「どうして!?」
焦り過ぎてもつれる足で温室の扉に駆け寄ると、奥の方が燃えている。
(エステル嬢はどこに?)
煙に目を細めながら温室内を見渡しいないことを確認してから外に出ると、少し離れた場所で魂が抜けたように座っている。
「エステル嬢、危ないから下がって!!」
感情が抜け落ちたように、ぼうっとした顔で炎をただ見つめるエステル嬢。その腕を掴み、引きずるようにして離れた場所まで連れていく。
火傷はないかとサッと全身に目を走らせるれば、スカートの裾が少し焦げただけのようで、ひとまず安心する。
「エステル嬢が火をつけたのですか?」
力なく、こくりと頭を下げる。そしてそのまま動かない。
「あの中にあるのはお母様の形見ではないのですか?」
下げた頭がさらに下がる。震えている細い肩に私は手を置き、背中を撫でてあげる。
「……だから」
「? 申し訳ありません。もう一度おっしゃってください」
「だってあの薔薇は咲かせてはいけない薔薇だから! 媚薬の原料になることをお母様は望んでいない。それなのに、私は、私はずっと……ずっと」
作り続けた、消えいるような声でエステル嬢はそう言い、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「……でも、形見ですよね?」
私は自分の右手に視線をやる。薬指に輝くのはお母様から貰ったサファイアの指輪。
女男爵であれば、宝石の一つや二つ身につけていてもおかしくない。叙爵式の時から、レオンハルト様に頂いた指輪とこの指輪はずっと付けている。
「たったひとつの形見です。他は全て捨てられたから」
頭を垂れたエステル嬢の涙が、握り締められたこぶしの上に落ちる。ポタリ、と大粒の涙が落ちたかと思えば、もう一粒。続いてポタポタととめど無く溢れ続ける。
――たった一つの形見、その言葉に胸が締め付けられた。
大人達の欲に巻き込まれたあげく、彼女はそれを自分で燃やしたのだ。
私は両手を伸ばし、エステル嬢の柔らかな頬を包み込むように触れる。
びっくりしたようにエステル嬢は顔を上げた。
悲しみに耐えようとぎゅっと結ばれた唇。
それでもなお、溢れ続ける涙を私は指先で掬う。
「私が薔薇の鉢植えを取ってきてあげます」
「でも、あれは……」
「媚薬を作らなければいいのよ。黙って数本咲かせるぐらいバレないって!」
明るい声で言い切る私にエステル嬢は瞠目し、そしてそんなことはさせれないと頭を振る。
「でも……」
「待っていて、すぐ戻りますから」
腹の底からこみ上げてくる怒りに突き動かされるように立ち上がる。
どうしてエステル嬢がこんな哀しい決断をしなきゃいけないの?
温室はすでに火が周っているから急がなくては。幸い少し後ろに井戸がある。
「これ、預かっていてください。亡くなった母から貰った指輪と婚約指輪。どちらも大切なものなの」
指輪を外し強引にその手に握らせると、井戸に走り寄る。つるべを手繰り寄せ、冷たい井戸水を頭からかぶった。ハーフアップに結い上げた髪がパラパラおちてきたけれど、気にしている場合ではない。
スカートを捲し上げ温室の入り口まで行くと、引き戸は開いていた。あまりの火の勢いに怖じけそうになるけれど、大丈夫。ちょっと入って手前の薔薇を取ってくるだけ。
大したことはない。多分。きっと。
煙を吸い込まないよう、深く息を吸い込み、中に飛び込むと、ブワッと熱と炎が迫り来る。
思ったよりこれは酷いかも。それに手前にあると思っていた鉢植えは意外と奥にあった。
やばっ。
急がなきゃ。
鉢植えの中から、焼けていない薔薇を選び持ち上げようと手を伸ばすも、鉢が炎で熱くなっていて持てない。
なんで、こう予想外のことが続くかな。
パパってできると思ったのに。
ワンピースの上に羽織っていたジャケットを脱いで、それで鉢植えを包み込む。よし、あとはここを出るだけ。息ももうもたない。
踵を返し扉に向かいかけたとき、ギシリと嫌な音が温室中に響く。見上げれば、炎は天井まで回っていて今にも屋根が崩れてきそう。
「きゃっ!!」
落ちて来た火の粉にびっくりして思わず悲鳴を上げ、次いで息を吸ってしまった。焼けるように熱い空気が喉に流れ込む。
げほっ
咳き込めばまた空気を吸わなくてはいけない。
でも黒い煙が喉に絡みつき咳が止まらない。
早く温室をでなきゃ、そう思うのに足はもつれ煙が目に染みて開けていられない。
メキメキっと鈍い音が響く。
恐怖で再び天井を見上げれば、温室が大きく歪み、天井が今にも落ちようとしている。
間に合わない!
どうしよう。
飛び交う火の粉に気持ちは焦るばかりで身体が動かない。
誰か助けて。誰か……
「レオンハルト様!!」
思わず叫んだ瞬間、私の身体は宙に浮いた。
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