エステルの事情
「全く、あなたって子は、本当に何もできないのね。半月以上も一つ屋根の下に住んでいて、二人っきりになることさえ出来ないなんて」
リディ様を来客用の食堂にご案内したあと、お義母様は二階にある来客用の部屋の大きなソファーに足を組んで座り、紫煙を燻らせた。
「あの女の娘だから、グズで気が利かないだろうと思って、前もって私が手練手管教えてあげたのに、それでもダメなんて、壊滅的」
「申し訳ありません」
ソファーの横に立ったまま、私は頭を深く下げる。そこに、紫煙が吹きかけられた。
「あら、私は別にいいの。あなたの嫁ぎ先はちゃんと用意してあるから心配はいらなくてよ」
その言葉に私はぎゅっと奥歯を噛み締める。
あの男達のうちの一人に嫁がなくてはいけない。そして、そのあとは妻として生き、子供を産んだあとは母として生きる。
貴族として、当たり前の生き方だ。
家のために嫁ぐのは、貴族の務めだ。
そこに、愛なんて必要ない。
何度も自分にそう言い聞かせた。
それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
ぎゅっと目を瞑れば、リディ様の顔が浮かんだ。レオお兄様の愛情を当たり前のように受け止め、小さな小鳥のように可愛く笑う。
リディ様はいい方だ。優しい方だ。彼女に恨みはない。
でも、どうして私には彼女のような未来がないのだろう。守られ、大切にされ、無邪気に笑う、それだけでいいのに。
「じゃあ、愚鈍なあなたにもう一度チャンスをあげるわ」
気がつけばお義母様が隣にいて、私の肩を抱く。強い香水の香りが鼻孔を付き思わず顔をそむける。
「もうすぐここにエルムドア卿がこられるわ」
「ここに、レオお兄様がですか?」
お義母様は真っ赤な唇でにこりと微笑む。
「リディ様が倒れたと、王宮に手紙を送ったの。きっとすぐにくるわ」
「なっ、どうしてそんなこと!?」
「あら、怒っているの。全てはあなたのためじゃない。大好きなレオお兄様と近づける最後のチャンスを作ってあげたのだからお礼を言うべきでしょう?」
お母様は、片手で私の頬を掴み、見据えてくる。爪が頬に刺さって痛みが走る。
「二人っきりにしてあげるから、私があげた液体を紅茶に入れて二人で飲みなさい」
「あの液体は香水の原料です。飲ませるものでは……ぐっ」
さらに頬を掴む指先に力が入る。お母様は煙管に口をつけると紫煙を私の顔目掛けて吹き付けた。
「ゲホゲホッ」
「あなたは何も知らなくていの。私の言う通りにしなさい。さもなければ、あの三人の誰かの妻になるしかあなたに生きる術はないのよ」
「……飲ませてどうするのですか」
痛いほど私の頬を掴んでいた指が離れたと思うと、今度は優しく頬に触れられた。優しいはずなのに、触れられた場所がザラリとざわつき背筋がゾクッとする。そして、お義母様は私の手に小瓶を握らせる。
「あなたは何も心配しなくていいの。全てレオンハルト様に任せればいいわ。そうすればあなたはあの男達に嫁がなくて良くなるの」
目を覗き込まれ、身動きが取れない。
頭が混乱する。
これでいいの? 本当に正しいの?
でも、お義母様の言う通りにしなければ、あの三人のうち誰かに嫁がなくてはいけない。
私もリディ様のように愛されたい。
大切にされたい。
誰でもいい、この場所から私を救い出して欲しい。
混乱する頭でただそう思った。
コンコン、と扉を叩く音がする。
「失礼します。奥様、エルムドア侯爵様の馬車が来ました」
「分かった。迎えを出してこの部屋にご案内を。それから紅茶を二杯用意して」
私には、お義母様が使用人と話す姿を呆然と見つめるしかなかった。
荒々しい足音がしてレオお兄様が現れたのは、それから間も無くのこと。
「リディはどこに?」
いつも冷静なレオお兄様が、額に汗を浮かべ取り乱している。嵐の中リディ様を迎えに来たときと同じその様子に、悲しいほど羨ましくなる。
「それが、軽い貧血だったようで、今は別室で絵画教室の生徒達と会っています」
「ならばそこに行こう。案内してくれ」
「ですが、お身体はもう平気とのことですし、随分真剣にお話をされていました。今訪れるのは却ってご迷惑になるのではないでしょうか?」
「……そうか。それもそうだな。俺もリディの仕事の邪魔はしたくない」
「宜しければこちらでお待ちください。私は仕事があるので離席しますが、エステルが話し相手を致しましょう」
レオお兄様は言われるがままソファーに腰を下ろした。私と二人きりになるのを避けていた節があったけれど、今はリディ様のことで頭がいっぱいでそこまで気が回らないみたい。
「では私はこれで。エステル、お茶を運びますから後をお願いね」
「……はい、お義母様」
お義母様が出て行くと、レオお兄様は気が抜けたように置いてあるクッションにもたれかかった。
「エステル、リディは本当に大丈夫なんだな」
「はい。……少し休まれたら元気になられました」
私の言葉を疑うことなく、レオお兄様は大きく息を吐いた。仕事が忙しいと言って帰ってくる時間も遅かった。部屋を訪れても私と話す時間を作ってはくれなかった。
それなのに、リディ様が倒れたと聞いたら、仕事を放って馬車を飛ばして来る。
安堵しているレオお兄様を見て、胸がズキリと痛む。どうして私にはここまで思ってくれる人がいないの?
私が倒れても、きっと誰も来てくれない。
胸の中に暗い靄が広がっていく。
リディ様は女男爵。きっとレオお兄様がいなくても生きていける。でも、私は……
これが最後のチャンス、真っ赤な唇で言われたその言葉が頭の中を駆け巡る。
扉のノックと同時にお茶が運ばれてきた。それを受け取り、扉の横にあるチェストに置く。手の中に握りしめていた小瓶は汗ばんでいる。
震える手では小さなコルク栓がなかなか開かない。
本当にこれでいいの?
この液体は一体、何なの?
このまま栓が開かない方が……
考えがまとまらないのに、コルク栓は音もなく空いてしまった。
ぎゅっと目を瞑り小さく息を吸う。
これで未来が変わるなら
私はキラキラ光る液体を、琥珀色した紅茶に垂らした。
「……レオお兄様、紅茶をどうぞ」
震える手を必死で抑えて紅茶を差し出すと、疑うことなくレオお兄様はそれを手に取った。
でも口元まで近づけると、それを少し離し匂いを嗅ぐ。
「妙に甘い匂いがするが、この紅茶は?」
「……は、母が異国から取り寄せたものです。少し癖があるけれど、お、美味しいですよ」
レオお兄様はカップの中の琥珀色の液体をじっと見つめ、それから、目線を私に向けてきた。
「そうか、せっかくエステルが淹れてくれたんだ。頂こう」
レオお兄様はカップに口をつけた。コクリと喉元が動く。
私があまりにもじっと見つめていたせいだろうか。
「エステルは飲まないのか?」
レオお兄様は苦笑いを浮かべながら、私のカップを指さした。
「も、もちろん、飲みます」
カップに指先の震えるが伝わらないよう、意識を集中させる。じっと、琥珀色の水面を見ながら持ち上げ、口に含む。
私の紅茶に液体は入れなかった。お義母様には入れるように言われていたけれど、怖くてできなかった。
緊張して喉が渇いていたので、半分ほど飲み干しカップをソーサに置く。見ればレオお兄様のカップは空になっている。
これからどうしたらいいのだろう。
下を向いて、膝に置いた手をぎゅっと握る。
沈黙が永遠のように続いた。
ギシッと小さな音がしたので顔を上げると、ソファーにレオお兄様の姿がなかった。
えっ? と思う間もなく、手を掴まれそのままソファに押し倒される。
「れ、レオお兄様?」
突然のことに訳が分からず見上げれば、真上に私を見下ろすライトブルーの瞳がある。でも、その瞳にいつもの優しさはない。
「ど、どうされたのですか」
震える声で聞くと、顎を掴まれ、先程よりも顔が近づく。
「何を……飲ませた?」
「な、何って。こ、紅茶です!」
「中に何を入れた?」
「わ、私は何も」
怖い。私の知っているレオお兄様はこんな野生じみた目はしない。こんな低い声は出さない。
「媚薬だと知ってのことか?」
媚薬、効き馴染みのない言葉に呆然とする。
何のこと? あれは薔薇から抽出した液体。香水の原料のはず。
言葉の意味が分からず、パチパチと瞬きをする。
レオお兄様は私の両手を頭の上で一つにして、ぎゅっと容赦なく握ってきた。
身体中に汗が噴き出す。震えが止まらない。
「知らなかったのか」
「し、知らない! お義母様に言われたの。これを飲ませなさいって」
「……媚薬はイネスから貰ったのか」
貰った、と言えばそうだけれど
「は、はい。でも作ったのは、わ、私です。お母様の形見の薔薇から抽出して……」
「……エステルが作った?」
ガチャリ、と扉の開く音が聞こえたのはその時だった。
次回は土曜日に投稿します。
少しでも、続きが気になると思って下さった方、是非ブクマお願いいたします!
《愛読家、日々是好日~慎ましく天衣無縫に後宮を駆け抜けます~》の書籍化情報が解禁になりました。
●発売日 12月5日
●一二三文庫様
●装画 武田ほたる様
凄く、凄く綺麗な表紙です。この画像では分かりづらいかも知れませんが、明渓の着ている衣裳も一色ではなく細かな模様が入っているのです。他にも、背景、小物にいたるまで繊細な絵で思わず見入ってしまいました。
明渓、青周、僑月の三人が描かれていて三人とも素敵です。
内容も二話追加&大量加筆修正しております。人生初の文章なので改めて読むと恥ずかしくて、この機会に思いっきり修正しました。
是非お手に取ってごらんください。
画像、ちゃんとはれているか不安。できてなければ後日修正いたします。




