嵐と温室.2
馬車はアリスの旦那さんのスコットが出してくれた。横殴りの風に何度もぐらっと車体が揺れ、その度に私とハンナはお互いの身体にしがみつく。
ゆっくりとしか馬車を走らせることが出来ず、目的の家に辿りつくのに倍ほどの時間がかかった。
おまけに、馬車から降りた瞬間立っていられないぐらいの風に背中を押され、思わず前につんのめる。ハンナがとっさに腕を掴んでくれて、何とか水溜りに転ばなくてすんだけれど、吹きすさぶ風で声すらよく聞こえない。
「ハンナ、私、飛ばされちゃうかも」
「リディは子供サイズだからね。私に捕まってなさい」
ハンナはそう言って、私の腕をぎゅっと掴んでくれる。
「リディ様、雷と風に馬が怯えています。家の東側に厩舎らしき建物が見えるのでそこに馬車を止めてきます」
「分かりました。馬が暴れるといけないからあなたはそこで待機していて」
「しかし、この雨の中、女性二人で大丈夫ですか?」
「温室に居なければすぐに戻ってくるから大丈夫よ。では馬車を任せましたよ」
私とハンナは家に向かって歩いて行く。侍女が言っていたように二階建ての小さな家で、周りにある平民の家と変わらない造りをしている。庭は確かに広く、家の西側からさらに奥にまで広がっているようだ。
「ハンナ、温室は家の裏側かしら?」
「ここから見えないからきっとそうね。とりあえず玄関先のポーチまで行こう」
すぐ近くにいるのに叫ぶようにしなければ会話もままならない。こんな嵐の中、本当にエステル嬢は一人でここにいるのかな。
雨よけの外套は着ているけれど、風で捲り上がり下半身はずぶ濡れ。まとわりつくスカートが歩くのを邪魔する。フードなんてとっくに後ろに薙ぎ払われて、顔に直接雨が打ちつけられる。片手を目の上にかざし多少なりとも雨を防ぎながら、薄目を開けて玄関へと向かう。
這々の体で玄関先のポーチまで辿り着くと、扉にもたれかかる。一応屋根の下だから、多少ではあるけれど降り注ぐ雨が遮られていて、私達はとりあえずそこで息を整えた。
「ハンナ、鍵は開いている?」
ドアノブの近くにいたハンナが、ガチャガチャと持ち手を回したけれど扉は開かない。
「開いていないわ。家の壁に沿って裏に周りましょう。少しでも風が防げるかも」
「分かった。それからスカートが歩きにくいから裾を縛っちゃわない?」
スカートの裾をたくし上げ膝の上ぐらいでぎゅっと縛ってまとめる。ちょっと人様には見せれない格好だけれど、そんなこと気にしている状況ではない。ハンナもスカートを纏めあげると、壁に手を置きながら次は裏口へと向かった。でも、裏口の鍵もかかっている。
「ここには来ていないのかしら?」
「ねぇ、向こうの方にぼんやりと輪郭が見えるの、温室じゃないかな」
私が指さす方を、目を細めながらハンナが見る、その時温室らしき建物の中で灯りが微かに揺れた。
「今、灯りがみえたわ」
「私も見た。リディはここにいて。私が見てくるから」
「ううん、一緒に行く」
「飛ばされないでね」
「多分大丈夫」
温室までの距離は百メートルほど。走ったらすぐに着きそうなのに風と雨が邪魔をして中々前に進めない。足元は、もとが石畳なのか、草なのか、泥なのかすでに分からない。穴の開いていないブーツなのに靴の中はもう雨でびっしょりだ。
近くまで行くと、ぼんやりと見えていた建物がやっぱり温室だったと分かった。温室が風を受け、骨組み自体がユラユラと揺れている。心なしかすでに傾いているようにさえ見える。
横にスライド式の扉は、温室が風で歪んでいるせいで開きづらい。二人がかりでそれを開け中に入ると、もわっとした温室独特の空気が濡れた肌に触れる。
「すごい」
思わず言葉が転げ落ちた。
そこには今まで見たことがない薔薇の鉢植えがずらっと並んでいる。ピンクがかった紫色の小さな薔薇が一つの枝から幾つも伸びている。この国で多く栽培されているのは一つの枝から一輪の薔薇を咲かせる種類で、スプレー薔薇は珍しい。しかもよく見ると、がくに近い部分は紫色が強く花びらの先にいくにつれてピンク味を帯びていくグラデーションがとても美しい。
「エステル嬢? そこにいらっしゃいますか?」
ハンナが声を上げると、奥の方で灯りが揺れた。
「……誰!?」
少し怯える声が灯りの方から聞こえる。
「リディ様と侍女のハンナです。エステル嬢、今そちらに向かいますね」
ガタガタと揺れる温室は、今にも壊れるか吹き飛びそうだ。
これはちょっと身の危険を感じるレベル。
やっぱりスコットにも来てもらえばよかったかも。
温室がガタッとか、ギシッという嫌な音を立てるたびに、ビクッとなったりヒッと声をあげたりしながら、なんとかエステル嬢のもとに辿り着く。淡いピンクと紫の色彩の中、頼りないカンテラの灯りの下でエステル嬢は半泣きで植木鉢を抱えてしゃがみ込んでいる。
「エステル嬢、大丈夫ですか? どこかお怪我をしていませんか?」
「……大丈夫です。お二人ともどうしてここが?」
「あなたの侍女が話してくれました。この嵐では温室が吹き飛ぶかもしれません。ここは危険です。家の鍵は持っていますか?」
エステル嬢は目に涙を溜め、唇をぎゅっと噛み締め頷く。
「鍵は持っている。でも、だめ。この花はお母様と私で作った花なの。絶対に守らなきゃ」
私とハンナは顔を見合わせる。
ハンナは悲しそうとも困ったともとれる表情をしている。私もハンナもいろいろ抱えるものが胸にある。それが辛くて苦しんでいる時にマリアナに助けられ、ここにいる。目の前で震えながら母親の形見を抱き締める少女を放って置けるはずがない。
「大切なんですね、その花が」
エステル嬢の傍にしゃがみ込み、そっと小さな花弁に触れる。
「はい。私にはこの家とこれしか残っていないのです」
「他にお母様の形見は何も?」
エステル嬢は小さく頷いた。
身体の中を憎悪が走る。私ですら形見のアクセサリーは持っている。
それじゃ、エステル嬢のお母様が身に着けていた宝石やドレスはどうなったの? どうして彼女の手元にないの?
……捨てられた、売られた。それしか考えられない。
「ハンナ……」
「分かってる。やろう。スコットさんも呼んできて四人ですれば何とかなるわ」
「……あの、やるって何をするんですか?」
顔を上げエステル嬢の、潤んだ水色の瞳を覗き込む。
「薔薇を家の中に運びましょう」
「この嵐の中をですか? これだけの数」
「もしかすると運ぶ途中にいくつかは枝が折れるかもしれない。でも株は無事に残るでしょう。それから薔薇を運び終わったら温室の窓を開けて風が中を通りぬけるようにするの」
「そんなことしたら温室内が雨でぐちゃぐちゃになってしまう」
「でもこのままだったら吹き飛ぶか壊れるかだわ。風の抜け道を作り抵抗を少なくすれば骨組みは残るはず。それならあとから修理可能よ」
この花だけじゃなくて、きっと温室そのものがお母様との思い出のはず。だとしたらこの場所も残してあげたい。
「エステル嬢、鍵を貸して」
私は強引に鍵を受け取るとそれをポケットに入れる。ハンナはすでに植木鉢を抱えて温室の扉へと向かって歩きだしている。
「大丈夫。花も温室も私達が守ってあげる」
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