海辺の家1.
「ただいま戻りました」
クリスティ様のお部屋から戻った私は、机の前で呆然と立ち尽くした。
「どうした、リディ」
「……レオンハルト様、書類が山のように増えています」
私の目線ほどに堆く積まれた書類書類書類……。
レオンハルト様の机にはいつもこの山が三つぐらいあるけれど、私の机にあるのは珍しい。
「絵の鑑定なんて画商ランク特Aには朝飯前だろう」
「……どうしてそれを」
「ダグラスに調べさせた」
ダグラス様を見れば、ツイッと目を逸らされた。あのお優しいダグラス様が冷たい……。
「二人とも暇なんですか?」
「貸しがあるから直ぐに調べてくれた」
「その貸し、もっと有効に使うべきです」
イジメだ。パワハラだ。
こんな時こそあれだ。
私はポケットからクリスティ様から頂いた懐中時計を取り出す。
「あと一時間で五時です」
レオンハルト様の席まで行って、ドン、と目の前に付き出すも、それをチラッと見るだけ。
「残業代は出す」
「帰りが遅くなります」
「明日は休みだろう。俺の馬車で一緒に屋敷に帰れば良い。リディの部屋の準備はまだだが、客室はいくらでもある」
「ですが……」
「そうだ、せっかくだし明日は二人で出かけよう。美術館なんてどうだ。画商ランク特Aの含蓄、是非聞いてみたいものだ」
懐中時計を持っている手ごと、大きな手でぎゅと握られ、目の前で彫刻のようなお顔が微笑む。でもその目は笑っていない。うぅ……
「マリアナには既に文を送っている」
「暇なんですか?」
「いや、忙しい」
レオンハルト様はご自分の前に積まれた書類をポンポンと叩く。
ダグラス様は書類の影に隠れて顔すら見えない。
「……分かりました。やります」
「明日のデートも」
「!!」
デート、デートですか。
それって脅されて行くものなんでしょうか。
違う意味でのドキドキが止まらないのですが。
いろいろ言いたいのを飲み込んで小さく頷くと、レオンハルト様は満足そうに笑われた。後光が指すような笑顔だった。
※※※・・※※※
さて、翌日。
私は乗り心地最高な侯爵家の馬車に乗って、王都の南の街へと向かっている。レオンハルト様からどこに行きたいかと言われ、流行り店や観劇を提案されたけれど、ちょうど良い機会だからダグラス様から譲り受ける家を見に行きたいと伝えた。
馬車を走らせること一時間半。やっと辿り着いたそこは海に近い小さな街だった。
「潮風が気持ちいいですね」
馬車に乗っている間ずっと握られていた手の汗を拭き、固まった身体を解すように伸びをした。
海まで歩いて十五分ほどの小高い丘の中腹にある、その家はもとは洒落た作りの白い家だったと思う。
「空き家をわざわざ見に行くのか?」と、不満そうだったレオンハルト様も爽やかな潮風にライトブラウンの髪を靡かせ気持ち良さそうだ。
「いい場所ですね」
「なんだか解放的な気分になれるな」
普段狭い部屋に閉じこもっているから、こういう景色は清々しい。しかし、目の前の家はなかなか、一筋縄にはいかなさそうだ。
「二十年以上人が住んでいないのですよね」
「あぁ、手入れをしなくなったのはここ数年と聞いていたが、なかなかの荒れようだな」
白い壁は全体的に薄茶色になっていて、蔦が一階部分を覆っている。もともとは庭だった部分なんて、その名残すらない。
「ま、住まないしな」
「それ、勿体なくないですか? 手入れをしたら別荘とかになりそうですよ」
「こんな小屋がか?」
「侯爵様には小屋でも、男爵家にしたら別荘です。海も近いし、気分転換に良いじゃありませんか」
私は結構気に入った。ちょっと奥まった場所にあって隠れ家のようになっているのも良い。
ただ手入れは大変そうだな。
草刈りはできるとして、蔦と塗装は頼まなきゃできない。
「レオンハルト様、今日はこれでいいです。これ以上は踏み込めません」
「そうだな。ではせっかくだから、海まで行って昼食とするか」
馬車にはエマさんが作ってくれたランチが入ったバスケットがある。私達はそれを持って、海まであえて歩くことにした。
丘を下ると、海を見渡せる公園があった。布を引いてそこでランチを摂ることにする。
「なんだか懐かしいですね」
「懐かしい?」
「子供のころ、ワグナー邸の庭でこうやってよくランチをしました。レオンハルト様はいらっしゃらなかったでしょうか」
「いや、いた」
あっ、やっぱり。この時期は大抵庭でランチを摂っていた。入れ替わり立ち替わり人が来たから誰と食べたかは覚えていないけれど。
「俺はいつもリディの横で食べてたぞ」
「……」
すみません。覚えていません。
だって沢山の子供がいたし。
って、なんだか空気が急に重くなってませんか?
「れ、レオンハルト様。このサンドイッチ美味しいですよ」
はい、と渡せば仏頂面で受け取ってくれた。
「レオ」
「はい?」
「そろそろ婚約者らしく、レオと呼べばよいだろう」
「…… まだ、叙爵していません」
女男爵の地位を賜ってこそ、昔交わした婚約が有効となる。今はまだ、侍女と雇用主だ。
というのが言い訳なのは分かっている。ようは、照れ臭いんだ。だって、いきなり降って沸いた婚約だもん。
「二人の時なら問題ない。ほら、早く言え」
う、う〜。これ、言わないと永遠と続くやつだ。それに、綺麗な顔で見つめられては、私の心臓がもたない。
「……れ、れ、レオッッ、……痛っ」
「おい、二文字のどこに舌を噛む要素があった?」
今日の空のような明るいライトブルーの瞳が、呆れながら私を覗きこむ。顔が熱くなるのが自分でも分かり、ツイッと目を逸らしてしまう。
「叙爵したら、言います」
「……はぁ、分かった。約束だぞ。では、それまでに練習しておけ」
レオンハルト様はそういうと、食べかけのサンドイッチを強引に私の口に押し込んだ。
「うっ……な、何を……する」
「うまいだろ」
「……美味しいですが」
口いっぱいのサンドイッチを頑張って咀嚼する。
喉に詰まりそうになりながらゴクンと飲み込んだけれど、顔の火照りは引きそうにない。
私、これから先、やっていけるのだろうか。
正直、もう少しお手柔らかにお願いしたい。レオンハルト様のお気持ちは聞いたけれど、私はまだいろいろ受け止めるのに精一杯で、自分の気持ちは整理つかないまま放置状態なのだ。
それに、これからワグナー商会の再興も考えなきゃいけないし、手も一杯だ。
私の気持ちを察してか、レオンハルト様はもう何も言ってこなかった。青空の下無邪気にサンドイッチを頬張る横顔は、言われて見ればレオの面影がある。
そんなことを考えながら、ゆっくりと食べている私の横でレオンハルト様は既に食事を終えたみたい。さて、これからどうしよう、と考えていると。
「寝る」
そう言ってレオンハルト様はゴロリと横になった。
私の膝の上に。
前言撤回。
この人、何も察していないわ。
硬直してる私なんて気にすることなく、リラックスして目を瞑っている。
そっと視線を落とせば、私より長いんじゃないかってまつ毛が陶器のような肌に影を落とす。形の良い唇が無防備に半開きになって、規則正しい呼吸が聞こえてくる。ライトブラウンの髪は、太陽の光の下ではブロンドのように輝き、その髪を海風が撫でていく。
半端ない色気のはずが、太陽の下で浄化され無邪気にさえ見えるから不思議だ。
そして、そんな寝顔を見ていると、どうしてか、私の口も綻んでしまうのだ。
レオンハルト、やっと初デートまで辿り着きました。
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