幸せの形
2038年6月6日、開戦。
きっかけは語るに足らぬくだらない話だ。
各国の小さないざこざが重なり、やがて大きな戦争に発展した。
その戦争には、日本も参戦した。
自衛隊はもちろん、警察官や一般企業に勤めていた大人も、更には学生までもが兵士にさせられ戦争に巻き込まれた。
おもちゃ会社が銃を作り、自動車会社が戦車を作り、食品会社が毒物を作り、医療会社が非人道的な実験を行い人間兵器を作る。国民のために商品開発や技術の発展をしてきた企業が、戦時下では他国の兵士を殺すため日々武器の製造に勤しんでいた。
日本以外の各国も同様に、それ以上に準備を進め、戦争に備えた。
そうして迎えた戦争は苛烈を極めた。
あらゆる大陸で血が流れ、兵士も民間人も関係なく死んだ。
銃で撃たれ、戦車で轢かれ、他国にまかれた毒を浴びて、多くの人が死んだ。
モラルも倫理も存在しない。
国のため勝利のためという理由ならどんな悪行も許される。
そんな世界に成り果てた。
——地獄だ。
いや、もはや地獄さえ生ぬるい場所と感じられるほどだ。
断末魔と悲鳴が耳に残留し続け、原形を留めていない死体が目に焼き付き、人肉の腐敗臭が鼻の奥にこびり付く。
誰もがそんな体験をした。
「両親を失った子が兵士になり、そして他国の民間人を殺し、また両親を失った子が生まれる」
これは永遠と続く戦争を皮肉って生まれた言葉だ。
こんな言葉が生まれるほど、この戦争は長く続いた。
10年経てば何が理由で戦争が始まったのか、誰も覚えていない。
20年経てば戦う理由さえ、誰も思い出せなくなる。
民は勝敗など気にかけなかった。
ただ終わってくれと願った。
兵士は勝敗など気にかけなかった。
ただ他国の人間を殺したかった。
恐怖に囚われる民、狂気に染まる兵士。
血で血を洗う戦争が……30年続いた。
そして、——2068年9月15日、終戦。
終わり方は呆気無かった。
突如全国ラジオで天皇から終戦宣言を告げられた。
引き分け、痛み分けという結果に終わった。
何もない。ただ終わっただけ。
何も得ず、何も失わず、戦争は終わった。
これは後に、第三次世界大戦と名付けられた。
終戦から2年が経った。
日本ではいまだ戦争の爪痕が色濃く残っている。
建物は修復され、死者は弔われた。
それでも、爪痕は確かに残っている。
——俺が病院へ行く片道にも、爪痕はある。
日本兵だった者が職を失い路上で寒さのあまり震えているホームレスだったり、娘が他国のまいた病原菌に侵され治療費を求めて募金を募る母親だったり、救いを求めて神に縋る新興宗教の信者たちの勧誘だったりと、いろんな形で戦争の名残が表れている。
俺は目を伏せて歩いた。
見えないふりをして、病院へと向かった。
「——今日の診察はここまでです。それと、こちらを」
診察室で担当医に差し出されたのは厚みのある封筒だ。
中身は見なくても分かる。毎回同じものを受け取っているからだ。
俺は封筒を受け取ると黙って診察室を後にする。
受付には誰もいない。
病気の人間がいないわけではない。むしろ病人は増えている。
しかし、誰も診察を受けられないのだ。
金が無いからだ。
戦後すぐに問題になったのはデフレーションだ。
軍事設備に金を使いすぎたせいで国家予算が火を噴いている状態なためだ。
民間人は働きたくても働き口が存在せず、国も民も貧乏という救いようのない状況に陥っている。
今では働けている民間人は三割ほどしか存在しないという。それも雀の涙ぽっちの給料で、だ。
教育機関もまともに機能していないため、この国の今後の就職率は絶望的と言えるだろう。
今後以前に現在が既に絶望的なのだがな。
この国の現状を嘲笑しながら、俺は病院を出た。
日差しが眩しい。なのに空気は冷えている。
軍事開発の災いで戦前とは気温が変化したのだ。
春夏秋冬関係なく冷たい空気が日本を包み、コートやダウンなしでは外出できない。
俺はかじかむ手をコートのポケットに突っ込み、「はぁー」と白い息を吐く。
——戦争は終わった。
しかし、それだけだ。
結局民が苦しんでいることに変わりはない。
「……俺は一体、なんのために戦ったんだ」
晴天を見上げながら答えのない自問をこぼす。
「…………帰るか」
視線を下ろし、帰路につこうとする。
「う~ん! もう、……ちょっとぉ!」」
入院病棟の方から、何処か間の抜けたような少女の声が聞こえてくる。
何の気なしに声の方に視線を向けると、思わずぎょっとする。
入院病棟の三階の一番奥の部屋から、少女が身を乗り出し右手を伸ばしていた。
少女が伸ばす手の先には何もなく、ただその手は空を切っていた。
俺は思考する暇もなく彼女の真下まで走り出していた。
「おい! 危ないぞッ!」
「えっ?」
俺の声に気が付くと同時に少女の体を支えていた左手が窓枠から外れ、少女は地面と垂直に背中から落下する。
まずいッ!
そう思った時には走るスピードが上がっていた。
間に合うかどうかすんでのところで足からスライディングする。
「ッ!」
……間一髪、何とか少女を受け止めることができた。
両手で少女の体をお姫様抱っこの形で抱きかかえ、俺がクッションとなることで少女にかかる衝撃を相殺し事なきを得た。
「大丈夫か?」
一応、確認を取る。
少女はギュッと瞑っていた眼をゆっくり開き、俺の顔を見上げる。
そして、太陽のように眩しい笑顔を見せた。
「えへへ、助かっちゃいました~」
変な子。
それが、初めて少女と出会った時の印象だった。
「手を伸ばしたら太陽さんに届きそうだったんです~」
「はあ」
「とってもキラキラしてて、キレイだったんです~」
「はあ」
「でも、あとちょっとのとこで落ちちゃいました~。えへへ」
「……はあ」
入院病棟三階の一番奥の部屋。
俺はそこでなぜあんな危険なことをしたのか少女から理由を尋ねていた。
しかし、少女の動機はあまりに荒唐無稽で同じ二文字でしか相打ちを打つことができない。
「さっきは本当に助かっちゃいました~。改めてありがとうございます。ぺこり」
と、ベットで横たわり上体だけを起こした体でお辞儀をする。
「いや、別に大したことしたわけじゃないし」
「そんなことないですよ~。あなたは命の恩人さんです。え~っと、何さんでしたっけ?」
命の恩人だと思っているなら数分前に教えた名前くらい覚えておいてほしいものだ。
「亜漣だ」
「亜漣さんですか? かっこいい名前ですね~」
「数分前にも同じセリフを聞いたぞ」
「私の名前は愛衣です~。年は十二歳です~」
「それも数分前に聞いた」
「あれれ? そうでしたっけ~?」
……大丈夫なのか、この子?
この子の言動を見ていると不安になる。
「じゃあ、俺は帰るから」
座っていた丸椅子から腰を上げ、コートを羽織る。
「えぇ~! もう帰っちゃうんですか?」
ずっとニコニコしていた少女が別れを告げた途端、悲しそうに顔で見つめてくる。
「もうちょっとお話ししましょう? お願いです」
「……」
コートの裾を摘まみながら、上目遣いでそう要求してくる。
案外あざといな。いや、相手は十二歳の少女だ。無意識でやっているのだろう。
「ね? 少しだけですから~」
「…………ハァ、少しだけだぞ」
すぐに折れた。
俺は意外とちょろかったようだ。
「それで、何を話したい?」
「何がいいんでしょうね~?」
質問を質問で返された。
「人を引き留めておいて何も考えてなかったのかよ」
「う~ん。じゃあ、何か私に聞きたいこととかありますか~?」
「聞きたいこと?」
「はい~、何でも話しちゃいますよ~!」
何故か張り切った様子で力こぶを作って見せる。ポーズの意味は不明だ。
聞きたいことか……。そんな唐突に言われてもな……。
聞きたいことがないわけではない。むしろお互い初対面なわけだし、質問できる内容はたくさんある。だが、まず最初に尋ねるとなると何を選べばよいのか迷ってしまう。
十秒ほど考えてから、俺は口を開く。
「なんで、入院してるんだ?」
この子の一番の謎はなぜここにいるのかということだ。
やはりこれから話をしていく上でこのことを聞かないわけにはいかない。
「え~っと、詳しいことはよくわからないです」
「……なんでも答えるんじゃなかったのかよ」
「わからないということを答えましたよ~」
「一休さんじゃあるまいし」
「イッキュウサン? 外国の人ですか~?」
愛衣は俺の言葉に首を傾げる。
そうか、戦時中に生まれた子だから戦前の話には疎いのか。
「昔の物語の登場人物のことだ。それより、わからないってどういうことだ?」
「確か一年前か二年前かに入院し始めたんですけど~」
随分と期間があやふやだな。
子供のころの一年か二年かは大きな差だと思うんだがな。
「その時どうして私が入院してるのかお医者さんが教えてくれたんです。でも忘れちゃいました~」
「そんな大事なこと忘れるなよ」
「だって難しい話ばっかでよく聞いてなかったんです~。なんちゃら細菌がどうのこうので~、とかなんとか言ってました~」
まあ確かに子供からしてみたら医師の話なんて小難しい話でしかないから理解できないのも無理はない。
「けど、一つだけわかることがあるんです~」
愛衣は笑顔を絶やすことなく、そう言った。
そして、一拍置いてから再び口を開く。
「私は、もうすぐ死にます」
……笑っていた。
悲しそうにとか、辛そうにとか、そんな感じではない。
俺とさっきまで談笑していた時と同じ感じで笑っていたのだ。
……別に、悲しくない。
俺はせいぜい同情するくらいのことしかできなかった。
慣れているからだ。
人が死ぬのに、慣れているからだ。
そのせいか、悲しくない。
——嗚呼、この子も死ぬんだなぁ。
そう思うばかりだった。
その後、少しの間世間話を続けてから、俺は病室を後にした。
今日、また一層自分が嫌いになった。
◆
帰り道。
行きと同じ道を通った。
行きと同じ光景がそこにはあった。
勧誘を呼びかける信者から、目を背けた。
募金を募り続ける母親から、目を背けた。
寒さで震えるホームレスから、……目を背けなかった。
何故だかわからない。
ただ、ここで何もしないと俺はまた自分を嫌いになりそうで、それが嫌だから最後の最後で目を背けなかった。
来ていたコートを脱ぎ、地面に寝転がるホームレスに掛けた。
それに気づいたホームレスが薄っすらと開いた瞳で俺の顔を見上げ、小さく会釈をした。
——こんなことをして、何になるんだろうか。
そう思った。
得なんてない。
所詮はただの自己満足に過ぎない。
俺が俺を好きになれるように善行を積んで、良い人間を演じているだけ。
……反吐が出そうだ。
たくさんの人間を殺して、仲間の死に悲しみすら抱かない、こんな人間が今更徳を積もうなんて、
気持ち悪いとしか言いようがない。
結局、俺が俺を好きになることはないのだろう。
俺は自分を嫌悪し、憎悪する。
そうし続ける。
永遠に——。
「あ~、また会えましたね~」
翌日。
再び病院を訪れた。
いつもの診察を終えた俺はすぐに病院を後にしようとした途端、
昨日と同様患者服に身を包んだ愛衣に遭遇した。
「昨日ぶりですね~。え~っと、暖簾さん」
「亜漣だ。昨日ぶりなら間違えるなよ」
「えへへ、ごめんなさいです~」
相変わらずのお惚けっぷりだ。
「それで、亜漣さんはどうしてここに~? 病気さん何ですか~?」
俺は昨日に続き今日も病院に来ている。
愛衣からしたら、俺は通院している患者にしか見えないだろう。
「いや、そういうわけじゃないよ」
実際は少し異なるがな。
「そういう愛衣こそ、病室にいなくていいのか?」
愛衣の体がどう悪いのか知らないが、病院内を一人でうろうろして問題ないのだろうか。
「ちゃんと看護婦さんに「散歩したいです~」ってお願いしてきたから大丈夫ですよ~」
「それなら問題ないか」
「そうですよ~。のーぷろぶれむ、です~」
明らかな日本語発音で自信満々に英語を言って見せた。
「そうか、ノープロブレムなら俺は帰ってもいいな」
強引に話を終わらせ、さっさと帰ろうとした。
話をしたい気分ではない。
第一、俺は話をするのが好きではない。
これ以上愛衣と話しても、虚しいだけだ。
「ああっ! や、やっぱり嘘です~! いえすぷろぶれむ、ですっ!」
昨日のデジャヴュかのように、また愛衣に真新しいコートの裾を摘まれ引き止められる。
「……どんな問題があるんだ」
内容はおおよそ見当はつくが、一応聞いてみる。
「私が亜漣さんとお話ししたいという重大な問題ですっ!」
やはりそうだった。
「昨日話しただろ」
「昨日は昨日、今日は今日ですっ!」
「今日は話したくない気分だ」
「私は昨日よりお話したい気分ですっ!」
「……」
「せっかくまた会えたんですから一緒にお話ししましょうよ~!」
いくら突き放しても、愛衣が引く気配はない。
いつしか摘まんでいただけの手が、コートが皴になってしまうほどがっつり握りしめていた。
「…………なんでそこまで俺と話がしたいんだ?」
単純な疑問を投げかけてみた。
すると、愛衣からはすぐに返事が返ってきた。
「お土産です」
そう口にする愛衣の声色は、いつになく真剣だった。
「お土産?」
「はい、とっても大事なお土産です。これだけは、絶対に持って行かなきゃダメなんです。これだけは、
絶対に忘れちゃいけないんです」
まっすぐな瞳で俺を見る。
動機はさっぱりわからないが、とにかく俺と話をするのが愛衣にとって重要なことだということは伝わった。
「……わかった。話に付き合ってやる」
やはり俺はちょろかった。
「ホントですかっ! 感謝逆鱗です~!」
「感謝感激な」
「なら、私のお部屋でお話ししましょうっ!」
愛衣ははしゃいだ様子で俺の手を引き、自分の病室へと駆け足で向かう。
「それで、今日は話したい内容は決まっているのか」
病室に着き、昨日と同様愛衣はベットに座り、俺は丸椅子に座ったところでそう尋ねる。
「はいっ、今日はちゃんと決まっているですよ~」
そういうと愛衣は病床の枕の下から四つ折りにした小さな紙を取り出し、広げて読み上げる。
「亜漣さんのこと、です」
「俺のことか?」
「はいっ、もしもう一度会ったら何を聞こうかちゃんとメモしておいたんですよ~」
そんな短いことなら別にメモする必要なんてないだろ。
「なので、亜漣さんのお話聞かせて欲しいですっ。昨日は私の話をしましたから~」
「いや、愛衣のことはほとんど何も知れなかっただろ」
昨日はわからないの一点張りで、俺の中で愛衣は正体不明な十二歳少女のままだ。
「まあまあ、いいではないですか~」
「いや、良くはないだろ」
「今は私の話は置いといて、亜漣さんのお話です~」
なかなか話が通じないな。
——……俺の話か。
話すことに抵抗があった。
子供に話すような内容ではない。
「面白い話じゃないぞ」
「大丈夫です」
「聞かなかったほうがよかったと後悔するかもしれないぞ」
「後悔しません」
警告しても愛衣が素直に受け入れる様子はない。
いつも通りの笑顔で、笑いかけている。
きっとどれだけ警告しても愛衣は話を聞くのだろうな。
なんとなく、そんな予感がした。
「なら、話すよ」
俺は一度深く呼吸をし、口を開く。
今の俺は、何歳に見える?
……二十歳くらい、ね。まあ、確かにそう見えるよな。
違うのかって? ああ、残念ながら不正解だ。
俺は、今年で五十八歳になる。
嘘じゃない。本当だ。
若作り? そんなのしてねえよ。
俺はな、
〝不老不死〟なんだ。
まあ、って言っても生まれた頃から不老不死だったわけじゃない。
不老不死になったのは、俺が二十二歳の頃だ。
俺が不老不死になる前、ざっと三十年前くらいの頃は世界はまだ平和だったんだ。
生まれた頃から戦争が起きてた愛衣からしたら信じられないかもしれないけどな。
その頃の俺は本当に何処にでもいるような大学生だった。
平日は学校に行って、休日は友達と遊んだりして、平凡だけど充実してる日々を送っていた。
それに、恋人もいた。
おっとりしていて、虫も殺せないような気弱な奴だったよ。
俺はそいつと同棲していて、結婚の約束もしていてさ、俺が大学卒業して職に就いたら式を挙げるつもりだったんだ。
けど、俺が大学を卒業することはできなかった。
俺が二十一歳の頃学徒出陣があったんだ。
愛衣の両親が多分まだ子供の頃の話だからよく知らないだろうけど、その年では男女関係なく二十歳以上の者は兵士として教育され、戦地に赴くのがその年に法律として決まったのさ。
二十一歳の俺と丁度二十歳になった恋人は兵士にされそうになった。
けど、俺がなんとか頼み込んでさ、俺がなんでもすることを条件に恋人の兵役だけは免除してもらったんだ。
そうして俺はとある実験施設に連れてかれた。
兵士の養成所じゃなくて実験施設であることに疑問を持ったが、それでも俺はなんでもすると約束した身だ。特に拒むことはしなかったよ。
でも、今に思えばあの時何が何でもそこから逃げ出せばよかったと後悔している。
なんせ、そこで行われていたのは不死身の兵士を作るための施設なんだからな。
よくわからない注射を一日何本も打たされ、一緒に実験施設に連れてこられていた者たちは次々と死んでいき、最終的には俺一人だけが残った。
実験施設に連れてこられて、一年が経った頃。
気づいたら俺は不老不死になっていた。
そっからは地獄だった。
毎日毎日拷問まがいの訓練を受け、眠っている時間以外は常に痛みが伴っていた。
それでも、俺は頑張った。
恋人のため、恋人のためって言い聞かせて、無理矢理体を我慢させた。
そんな生活が二年続いて、俺は兵士になった。
俺が実験施設に出た頃にはすでに戦争が起きていた。
施設内では外界との情報は一切遮断されていたからな。俺は施設から兵士養成所に入れられるまで戦争が起きていることを知らなかったんだ。
そうして、兵士養成所で不死身の兵士として訓練を半年受けた俺は、戦地に赴くことになった。
初陣は特攻作戦だった。
大きな爆弾を抱えた航空機に乗り込み、敵地に体当たりするシンプルな作戦だ。
不老不死の俺には絶好の作戦だったな。
作戦当日には乗ったこともない航空機の操作説明だけ受けて、本拠地の誘導の元、自ら敵地に墜落した。
もちろん俺の体は爆発四散したさ。
けど数秒後には元通り。
でも敵地にいた人間は俺みたいに元通りになることはない。
……今まで施設以上の地獄なんてないと思っていた。
けど、俺が作戦終了後に見たそこは、施設以上の地獄だった。
焦げた肉の臭いが鼻を突き、黒焦げになった人型の物体がそこら中に転がっていて、火花が散る音以外はなんの音もしない。
たった一人の声すら聞こえなかった。
自分が傷つくことにはある程度慣れていたけど、他人を傷つけるのはこれが初めてだったんだ。
頭の中がぐちゃぐちゃに搔き乱されて、罪悪感とか後悔とかいろんなものに押しつぶされていた。
最悪な気分だった。
いくら吐いても吐き気が止まらなかった。
——けれども、これは始まりに過ぎなかった。
次の作戦は奇襲作戦。
ヘリからパラシュート着けづに敵地に落下し、地面に激突し一度死んでから銃で敵兵を殺した。
地面に降り立ってからも何度も銃に打たれて死んださ。
俺はそのたびに蘇って敵兵を殺しまくった。
自身が殺されながら他者を殺す時間が三十分ほど続いた。
敵兵が半分ほど死んで、戦意喪失した残り半分の兵士たちは銃を捨てて逃げて行った。
そこで初めて自分が人殺しである実感を得た。
その次の作戦は防衛作戦。
味方基地にいる百人の仲間とともに、四方八方からやってくる敵の猛攻を死守し続けた。文字通りな。
敵か味方のものかもわからない断末魔が鼓膜を振動させ、敵か味方のものかわからない返り血を浴びた。
硝煙と火薬と血。
それが混合した臭いは今でも鼻の奥にこびり付いたままだ。
空腹も何もかもを忘れてひたすら銃を鳴らし続けて、気づいたら敵はいなかった。
けれど、百人いた味方もいなかった。
そこで初めて仲間を失った。
——作戦が終わり、本拠地に帰るたび悲嘆にくれた。
殺した敵兵を、失った味方を毎日夢に見て、うまく眠ることができなかった。
そんなある日、休暇が与えられたんだ。
たった二日の短い休暇だ。
それでも十分だった。
二日あれば、俺が前いた場所に帰れる。
平日には学校に行って、休日には友達と遊んだ。あの平凡だった日々を送っていたあの場所に。
……恋人がいる、あの場所に。
俺は上官に無理を言ってヘリを一機借り、帰郷した。
やっと会える。
喜びで胸がいっぱいだったよ。
久しぶりに恋人に会ったらどんな話をしようか、なんて話す内容をヘリの中でたくさん考えた。
——本当に、……哀れな奴だよ。……俺は。
上空から故郷を見たとき、絶句した。
だって、そこには在りし日の故郷はなかったのだから。
他国からの空襲を受け、建物は半壊し、人っ子一人の姿すら見えなかった。
ヘリで俺と恋人の家から近くのところにある小学校のグラウンドに着陸した。
平日のこの時間帯なら子供の声でにぎわっているはずなのに、ここは静寂に包まれていた。
それでも俺は、信じていた。
恋人はきっと俺の家で待ってくれているはずだと。
家に帰れば、あの頃みたいに「おかえり」と言ってくれると信じていた。
そう信じ込まないと、今にも家に向かって走り続けている足が止まってしまいそうだったからだ。
半壊した懐かしの風景に目もくれず、凹凸したコンクリートに足がもつれながらも必死に走った。
アパートの階段を駆け上がり、二階の突き当りの部屋で立ち止まる。
ドアは焼け焦げているが、それでも何とかドアの役割は果たしていた。
溶けかけたドアノブを捻り、ゆっくりとドアを開ける。
大丈夫だとひたすら自分に言い聞かせた。
アパートだって壊れてないし、ドアだってちゃんと開く。
きっと、あいつだって中にいるはずだってひたすら自分に信じ込ませた。
——そんなの、あり得るはずがないのに。
ドアを開けた先にあったのは焼け焦げた死体だった。
誰のかなんてすぐにわかった。
いくら皮膚が爛れていようと、見間違うはずがない。
だからこそ、絶望した。
その日は一日中泣いた。泣き叫んだ。
涙が枯れると再生し、喉が潰れると治る。その繰り返しで俺は泣き叫んだ。
帰郷した時から、いやする前からわかっていたんだ。
……恋人は、死んでいるかもしれない。
けど、考えないようにしていた。
その考えに蓋をして、希望だけ抱いた。
しかし結果はこれだ。
考えに蓋をしたって、希望を抱いたって、真実は変わらない。
変わらない真実に絶望して泣いた。
日が昇っても泣いた。
日が傾いても泣いた。
日が暮れても泣いた。
そうして一日が経過すると、俺は泣き止んでいた。
どうして泣き止んだのか今でもわからない。
疲れて止めたのか。
休暇が終わりそうだから止めたのか。
はたまたそれ以外なのか。
どれにせよ、俺は泣くのをやめてしまった。
俺はドアを閉め、ヘリで本部に戻った。
——恋人が死んでも、俺の兵士としての日常は終わらなかった。
敵兵を殺して、味方を失って、そのたびに悲嘆にくれ、悪夢にうなされ毎日を過ごした。
変化といえば、俺が涙脆くなったことだ。
味方の葬儀のたび、俺は涙を流した。
今まで味方の葬儀で泣いたことなんてなかった。
きっと恋人が死んでから何かの線が切れてしまったのだろうさ。
そんなある日一人の兵士に出会った。
俺と同じころに入隊した女性で、今まで接点がなかったんだけど、ある作戦で一緒になってそれ以来よく話すようになった。
死んだ恋人とは正反対な奴でさ、気が強くて大雑把な奴だったよ。
俺が葬儀で泣くたび、アイツは「泣き虫」と言って俺を笑いながら馬鹿にしていた。
けど、俺はそんなアイツに救われたんだ。
兵士になってから、いや実験施設に入ってから一度も笑わなかった俺が、アイツの前でだけは笑えた。
たくさん泣くたびたくさん笑った。
そうして俺は自分を保つことができた。
アイツがいるおかげで俺は戦場に立てた。
アイツがいるおかげで俺は生きることができた。
——……けれど、それが長く続くことはなかった。
恋人が死んで二年余りが過ぎた頃。
よくある上陸戦にアイツと肩を並べて出陣した。
小銃を手に船から陸へと上陸し、敵兵のもとへと向かっていった。
俺の隣にはアイツがいた。
俺と同じように小銃を持って隣を走っていた。
「あとで酒飲もうぜ」なんていつもの男勝りな言い方で減らず口を叩いていたよ。
俺はその台詞に呆れながら笑っていると、
『バンッ!』
銃声が鳴り響いた。
その直後「敵襲ッ!」と叫ぶ味方の声が響き、全員が地面に身を伏せた。
しかし、その時俺だけは地面に伏せなかった。
味方が俺の名前を繰り返し読んでいる。
伏せるように忠告しているのだ。
けど、俺はそれができなかった。
——最初に放たれた銃弾。
それは、アイツに直撃していた。
眉間から血を流したアイツは地面に仰向けで寝転がり、死んでいた。
俺はアイツの死体を見下ろし、茫然とするほかなかった。
……気が付くと視界は真っ暗になり、次に目が覚めた時には俺は大量にある敵兵の死体の上にいた。
俺がその時、何を思ったのか。
今では思い出すことはできない。
——本部に戻り、アイツの葬儀が開かれた。
アイツは人脈の広い奴で、多くの兵士が彼女の死に涙した。
俺も泣くと思った。
……けど、泣かなかった。
それどころか、悲しみもしない。
アイツの葬儀に参列して、気づいたんだよ。
恋人が死んでから、俺はたくさん泣くようになったけど、
別に、悲しくて泣いてるわけじゃなかったんだ。
ただ俺は恋人の死で泣きまくって、泣き癖が付いてしまっただけ。
人が死んだら条件反射で泣いているだけだったんだ。
それに気づいてしまったら、もう泣くことすらできなくなってしまった。
悲しくもない、泣くこともできない。
……俺って、こんなに最低な人間だったんだ。
失望したよ。自分自身に、
それに気づいて以来、どんどん俺のタガは外れていった。
敵兵を殺すことに何の違和感を抱くこともなくなり、味方を失っても何も感じなくなってしまい、
作戦が終わったら何気なく読書をするようになり、夜中は何の夢も見なくなった。
実験で苦しむ俺も、恋人が生きていると思い込む俺も、泣き虫な俺も、まだ人間だったんだ。
人間らしく、生きていたんだ。
でも、アイツが死んでしまってから、それができなくなった。
戦地に赴き銃で撃たれて死ぬたびに、過去の俺が次々と死んでいくような気がした。
痛みに苦しさを見いだすことができない。
今の自分は自分じゃないと思い込むことすらできない。
あの日みたいに泣くことができない。
苦しめない俺、思い込めない俺、泣けない俺。
——俺は、俺が嫌いになった。
鏡を見ると、気色の悪い化け物を見ているような気分になる。
自分を嫌悪し、自分を憎悪する生活が続いた。
一年続き、五年続き、十年続き、何年も続いた。
気づけば、戦争が終わっていた。
けど、それだけだ。
何も変わっていない。
相変わらず地獄は続いている。
民は苦しんでいるまま、俺は俺が嫌いなままだ。
何も変わっていない。
ホント、俺は何のために不老不死になったんだろうな。
何のために敵を殺して、恋人を失って、アイツを失って、過去の自分さえ失って、一体なんのために頑張っていたんだろうな。
せめて、過去の自分に戻りたい。
まだ、人間だった頃の俺に戻りたいよ。
「俺の話はこれで終わりだ」
最後、少し弱音を吐いてしまったな。
十二歳の女の子の前で俺は何言っているんだかっ。
「……亜漣さんは自分のことが嫌いなんですか?」
「…………まぁな。殺せるなら殺してやりたいよ」
彼女の問いに思わず皮肉で返してしまった。
「私も、私が嫌いですよ」
愛衣はにこやかな笑顔でそう言った。
「昔から体が弱くって、いつもパパとママに迷惑をかけています。そのせいでなんちゃら細菌にもかかっちゃって、入院するために更にパパとママに迷惑をかけちゃいました」
「……」
「だから、私は何をしてもパパとママに迷惑をかけてしまう私が嫌いです」
「……」
「そのことをママに話したことがあるんです。そしたら、ママが言ってくれたんです。
愛衣が愛衣を嫌いでも、私たちは愛衣のことが大好きよ。
って」
「俺にはそう言ってくれる人はいなかったよ」
「だったら、〝私が言ってあげますよ〟」
愛衣はそう言うと、俺の頭を胸に抱えて優しく抱きしめる。
「亜漣さんが自分のことを嫌いになれば、私はあなたのことを大好きになります。
亜漣さんが大嫌いになれば、私は大大大好きになります。
亜漣さんが殺したいくらい嫌いになれば、私はたくさん生かしたいくらい好きになります」
……無茶苦茶な話だ。
……何の解決にもなっていない。
けど、
けれども、
その言葉で、すごく安心できた。
俺は自分が嫌いなままだけど、それを受け入れてくれる人が一人できて、気持ちが楽になった。
気が付くと俺は泣いていた。
悲しくて泣いているんじゃない。
嬉しくて、泣いている。
◆
帰り道。
赤くなった目尻を擦り、行きと同じ道を歩いていた。
恥ずかしい。
まさか十二歳の女の子の前で号泣してしまうとは。
これからどれだけ長い時間生き続けるかは知らないが、このことは俺の恥ずかしエピソードとして記憶に残り続けるだろう。
それでも、気持ちは不思議と晴れやかだ。
少しだけだが、自分を嫌いになることが平気になった気がする。
「あのっ」
突如、募金箱を持った女性に声を掛けられる。
この人は昨日から子供のために募金を募っていた母親だ。
「募金を、お願いします。娘が、病気なんです。お金さえあれば、治せて、だ、だから……!」
情に訴えるよう彼女は懇願してきた。
昨日の俺だったら、目を背けていただろう。
今の俺だってその話が真実かどうか疑っている。
ふと彼女のかじかんだ手を見たとき、何故だか愛衣の笑顔を思い浮かべた。
ここでお金を上げたって、俺は俺が嫌いなままだ。
でも、そのことを話したら愛衣は俺のことを少し好きになってくれるかもしれない。
そう思った時には、昨日と同様医者にもらっていた封筒を彼女に手渡していた。
「こ、これは……?」
「百万入っている」
「っ!?」
彼女が慌てて中身を確認すると、封筒の中には俺の言う通り百枚の一万円札が束になって入っていた。
これは俺が病院で採血を受ける代わりに国から医師を通してもらっていた謝礼金だ。
なんたって不死身の人間の血だ。
研究者からしたら喉から手が出るほど欲しい研究材料だ。
「娘さんの病気、治るといいな」
俺はそれだけ言い残し、その場を立ち去る。
「あ、ありがとうございます!」
去っていく俺の背に向かって、彼女は深々と頭を下げた。
自己満足でした行為だが、不思議と気分が良い。
「では本日の診察は以上です。それと、こちらを——」
「金はいらない」
翌日。
俺は昨日と同様診察を受け初老の男性の医師からの診察を終えたところだった。
本来ならここで金を持ってさっさと帰るのだが、今日は受け取ることを拒んだ。
代わりに要求したいものがある。
「代わりに情報が欲しい」
「……いいですよ。何でもおっしゃってください」
少しだけ悩む動作を見せるも、医師はすぐに了承した。
「といっても一医者でしかない私などに堪えられるかどうかはわかりませんよ」
「いや、貴方なら答えられるはずだ。——ここに入院している愛衣という女の子について」
「……」
医師は黙り込む。
話して良いか悩んでいるというわけではないだろう。
たかが一般人一人の個人情報だ。デフレが起きたこの時代では百万と一般人一人の個人情報では釣り合いが合わないからな。
天秤が上に傾いている個人情報などすぐに話すはずだ。
なら、他の理由があって話すか話すまいか悩んでいるのだろう。
「……入院病棟の三〇九号室の愛衣さんのことですね」
「ああ、そうだ」
「聞くことは推奨できかねます」
「話してくれ」
俺の顔を見た医師は深く溜め息をついてから、重たそうに腰を上げて、棚にある患者カルテを手に取り、再び椅子に腰を下ろす。
カルテを開くと俺の顔をもう一度見てから、医師は口を開く。
「……本名 美川愛衣。年齢 十二歳。両親に妹一人」
「妹がいるのか」
「戦時中に他界していますがね」
「……」
「続けます。入院理由 TÑC細菌による感染」
「ッ!? TÑC細菌って確か戦時中に敵国が撒いた細菌兵器の……!」
その単語に思わず席を立つ。
「ええ、現在では致死率一〇〇%と言われている細菌です。治療法も見つかっていません」
「……っ」
唇を嚙み締め、俯くほかなかった。
——わかってはいた。
愛衣がわからないことだらけの中で、自分の死だけは理解していた。
それが嘘だという確率は極めて低いことは重々承知していた。
「……あと、どれくらいもつ……?」
「彼女、時々聞いたことをすぐに忘れたり、記憶があやふやになったりすることがあるんです」
その言葉に思い当たる節があった。
数分前に聞いた名前をすぐに忘れたり、入院している期間があやふやだったり、わざわざ短いこともメモしたり。
「それは、ステージ3に移行している証拠です」
「……俺はあと何年もつかと聞いている」
「少なくとも〝五年〟はもちます」
「っ! 本当か!」
五年。
五年あれば治療方法だって見つかるかもしれない。
まだ希望が——
「しかし、それはあくまで彼女が生き永らえれる年数です」
「…………は? それは、…一体、……ど、どういう」
「現在彼女はステージ3です。この状態で今から治療薬を見つけられれば助かることはできるでしょう。
ですが、彼女の容態がステージ4に移行すれば、助かる見込みはありません」
「な、なんで……」
「ステージ4になれば彼女の意識はなくなります。それと同時に生命活動に必要な細胞が死滅します。
そうなれば生命維持装置につなげるほかありません」
「じゃあ、その状態で薬を投与すれば……!」
「現在開発中の治療薬はあくまでTÑC細菌を死滅させる薬です。生命活動に必要な細胞を蘇らせることはできません。彼女は薬を投与しようとしまいと五年の命なのです」
「そ、そんな……」
全身の力が抜け、その場に膝から崩れる。
「お気の毒ですが、これが現実です」
「……ステージ4に移行するのは、あとどれくらいだ」
「一般的にステージ3からステージ4に移行する期間は一年といわれています。
そして、彼女の記憶の混濁が始まったのが十一か月前になります」
あと、〝一か月〟
愛衣が俺を好きでいてくれるのはあと一か月。
愛衣が笑っていられるのはあと一か月。
愛衣と一緒に話せるのはあと一か月。
現実は、残酷なままだ。
「わ~お!? 亜漣さんの方から来てくれました~!」
帰り際、俺は愛衣の病室に立ち寄った。
残酷な現実に打ちのめされてもなお、俺は愛衣と話がしたかった。
「昨日ぶりだな。愛衣」
「えへへ、そうですね~」
愛衣は相変わらず嬉しそうに笑った。
俺はいつも通り丸椅子に座り、愛衣は寝ていた体を起こした。
「じゃあ、今日は何のお話をしましょうか~?」
「昨日は俺の話をしたんだし、今日は愛衣の話を聞こうかな」
いつの間にか自分の声色が優しくなっていることに気が付く。
「いいですよ~。といっても、特に話すようなことは何にもないなくてですね~」
「何でもいいさ。愛衣の話なら」
「そうですか~? あっ! じゃあ、自慢話をしちゃいますね~。実は私、今まで一度も泣いたことがないんですよっ!」
唐突に思い出したかのように愛衣はそう話す。
「へ~、そりゃあすごいな」
「えへへ、そうでしょうっ!」
愛衣は自慢気に腰に手を当て胸を張る。
「——そういえば、前に俺の話がお土産って言ってたよな?」
ふと思い出したことについて尋ねてみる。
「あ~、そのことですか~。あれはですね。妹へのお土産です」
「妹?」
妹って確か戦争中に亡くなった……。
「私の妹は少し前に死んじゃったんですけど、でも天国に行けば会えるんです」
「それと、お土産がどう関係あるんだ?」
愛衣はいつもの笑顔とは少し違う、柔らかみを帯びたような笑みで口を開く。
「私は天国で妹と会った時に、たくさんお話を聞かせてあげたいんです。
だから、亜漣さんのお話を聞いて、妹に「こんな人がいたんだよ~」って教えてあげたいんです~」
「……なるほど、それはきっと妹も喜ぶな」
「はいっ!」
屈託のない笑みで愛衣は相槌を打つ。
「他に何か質問はありますか~?」
仕切り直すように愛衣は問う。
「そうだなぁ。……じゃあ、将来の夢とか何かあるか?」
子供に質問する鉄板ネタだが、やはりこれは聞いておきたいな。
「将来の夢ですかぁ~……。たくさんありすぎて困っちゃいますね~」
「なかでも、一番って奴はないのか」
「一番だと……、やっぱりお嫁さんですねっ! 女の子はみんなウエディングドレスに憧れるものですから~」
「お嫁さん。結婚か」
「はいっ! そういえば、亜漣さんは結婚の約束を恋人さんとしていたんですよね」
「まあな。結局、約束は果たせなかったけど」
つい感傷に浸るような顔をしてしまうと、愛衣もそれにつられて心配そうな表情になる。
すると、「よしっ!」と急に決心して、真剣な瞳で俺の顔を見つめる。
「なら、私が代わりに恋人さんとの約束を果たしますっ!」
「…………へ?」
素っ頓狂な提案に思わず間抜けな声が出る。
それってつまり、
「私が亜漣さんのお嫁さんになりますっ!!」
ベットの上で立ち上がり、声高らかにそう宣言した。
俺はその堂々たる佇まいの愛衣を見上げ、思わず、
「……ぷっ、あはははははっ!」
笑った。
腹を抱えて笑った。
アイツといた時だって、こんなに爆笑したことはないってくらい笑った。
「あっ! 亜漣さんが笑いましたっ!」
「そ、そりゃ、ははは、わ、笑うだろ……!」
笑いを堪えながら必死に言葉を出す。
「えへへ、これでお土産話が一つ増えました~」
「はは、それはよかったよ」
笑いで出てきた涙を拭うと、愛衣は再びその提案について話し出す。
「ならまず、結婚式の日程を決めなきゃですねっ」
「おいおい、本気で結婚する気かよ」
「もちろんです~。私は生涯亜漣さんを愛し続けると決めましたから~」
「あはは、それは光栄だな」
あまり真に受けることなく、そう答えた。
流石に十二歳の女の子の告白を大人が真に受けちゃいけないからな。
「じゃあ、日程はいつにする?」
「そうですね~。やっぱり六月がいいですっ。じゅーんぶらいど、ですっ! ママから六月に結婚するといいと聞いたことがあるんです~」
「愛衣の母さんは博識だな」
「そうなんですっ! 自慢のママですっ! あっ、結婚式といえばママへの手紙も必要ですね~」
「確かに、それは必要だな」
「そしたらママ喜んでくれますかね~?」
「ああ、もちろん。きっと感激のあまり泣いちゃうと思うぞ」
「どうせ泣かすならなら思いっきり泣かしちゃいましょうっ! 昨日の亜漣さんみたいにっ!」
「ちょっ!? そ、それは忘れてくれよ……」
「え~、何でですか~? 昨日の亜漣さん可愛かったですよ~」
「か、勘弁してくれ……」
「えへへ、じゃあ勘弁してあげますっ。亜漣さんは私の夫さんですから~」
「あはは、優しい嫁さんで助かったよ」
「その通り、お嫁さんですっ。だから、……うっ……あ、亜漣さんは、ひ、ひっく、……わ、私をぉ、し、……うぅっ……し、幸ぜに、……ひっく……じ、して、……く、くあさい……!」
「……」
彼女は、泣いた。
今まで泣いたことがないといった彼女が、俺の前で泣いた。
「ああ、幸せにするよ。絶対に」
「うっ……や、やぐそく、……ひっ……で、ですよぉ……!」
昨日愛衣が俺にしてくれたように、俺は彼女を抱きしめる。
愛衣は俺の胸の中で泣き続け、「やくそく」という言葉を繰り返し言い続けた。
そのたびに俺は、「幸せにするよ」と返した。
ああ、絶対、幸せにしてみせるよ。——愛衣。
◆
帰り道。
宗教の勧誘を見かけた。
白服の中年男性が大きなキャンピングカーの屋根に立ち、拡声器で入信を求めていた。
「みな辛く、悲しい日々を送ってきた! しかしもう苦しむ必要はありません! 神にすべてを委ねるのです! さすれば、あなた方は救われるでしょう!」
弱っている人間の心に漬け込むような甘い言葉。
それによって、多くの人間が甘い蜜に誘われる虫のように吸い寄せられていく。
俺の横を通った男性は「救われる、救われる」とぶつぶつ呟きながら、勧誘をしている集団の元へと向かっていた。
——見ていられなかった。
俺は、通りすがろうとする男の腕を掴み、男の動きを止めた。
「やめろ。あそこに救いなんてない」
「五月蠅いッ! お前なんかに何がわかる!」
男は俺の手を振り払い、怒鳴り散らす。
それに気づいた白服の男が、
「見ろ! あいつは我らの信仰を妨げ、この世に戦争をもたらした化け物だ! 証拠にあいつは我らの救いを求めている男性に偽りの言葉で惑わそうとしている!」
白服の男が俺を指さすと同時に、信者もまた俺の方に視線をやる。
「今すぐ立ち去れ! この化け物めッ!」
白服がそう言うと、信者も続いて「立ち去れ!」「化け物!」と俺に罵声を浴びさせだした。
共通の敵を作って信仰心を深めようとしているのか。
「救いがないせいで私の息子は死んだのよ!」「お前みたいな化け物さえいなければ俺の弟は死なずに済んだんだ!」「私の彼氏を返してよ! この人殺し!」
罵声はどんどんエスカレートしていき、最終的には石を投げるものまで現れた。
化け物に人殺しか。
まったく、その通りだな。
——でも、そうだとしても、俺は彼らを救いたい。
愛衣が俺にしてくれたように。
「戦争で両親を失た」
俺が喋りだすと、信者たちは途端に静かになった。
俺が言ったからじゃない。
俺の言葉に重みがあることを彼らが感じ取ったから静かになったのだ。
「戦争で、兄弟を失った、友を失った。恋人を失った。部下を失った。上官を失った。仲間を失った。
そして、自分まで見失った。
もう俺は自分のことで頭がいっぱいいっぱいだったよ。
せめて昔の自分を取り戻そうと、ないものねだりばっかして、死んだ人間のことなんて見ようともしなかった。
死んじまえば終わりだから、せめて今の自分だけでも救われようとか思っていたよ。
今のあんたたちみたいにな。
それが正しいと思っていたさ。
けど違う。
——ある余命一か月の女の子が、こんなことを言ったんだ。
「天国で妹と会った時に、たくさんお話を聞かせてあげたい」って。
ビックリしたよ。
なんたって死んじまった妹のために残りの短い人生、妹のために費やしてやりたいって言ったんだ。
考えもしなかった。
死んだ人間のためにここまで人間がいるのかって、感心したよ」
「「「……」」」
「なぁ。
今のあんたらは死んじまった大切な人になんかしてやれることあんのか?
自分一人だけ救われて、死んだ家族や恋人は喜んでくれるのか?
——本当に愛してるなら、死んじまった大切な人のために今できることしてやれよッ!」
……誰も、声を上げようとしない。
ただ俺の言葉を噛み締め、俯いている。
そうして、
「俺の弟はさ、車大好きなんだ。……だから、いろんな車乗ってあいつにいっぱい車の話してやろうと思う」
一人が宗教の集団の元から離れていった。
「私の息子、カレーが大好きでね。天国で最高においしいカレー作ってあげるために、料理頑張ってみるわ」
また一人。
「私の彼氏ね、いっつも私のことキレイって言ってくれるの。だから、ビックリするくらいキレイになってから、彼に会いたい」
また一人。
そうして、徐々に人が減っていき、そこには白服の男だけが残った。
「お、おい! 耳を貸すな! あいつは化け物だ! 惑わされるな!」
その声は誰にも届かず、ただの独り言となった。
「あんたも、少しは他人のために生きてみな。そうすれば、神様は必要なくなるさ」
俺は彼にそれだけ言い残し、その場を立ち去った。
今なら俺は少し俺を好きになれたといえるよ。
——愛衣。
一年が経った。
愛衣は眠っている。
俺は毎日愛衣の姿を見に、愛衣と話したこの病室でお決まりの丸椅子に座っている。
俺はそこで、いつも愛衣に話しかける。
楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、少しイラっとしたこと、すごい面白かったこと。
その日あったこと、全部話した。
そうして、最後に決まって、俺は愛衣にこう誓う。
「絶対に幸せにする」
◆
「お久しぶりです。新城亜漣さん」
今日も愛衣の見舞いに来た。
ガーベラの花を持った俺に話しかけてきたのは初老の男性。一年前に俺の採血を担当していた医師だ。
去年とある研究所に移転したと聞いていたが、何故ここに?
「俺に何か用か?」
「いえ、貴方にお渡ししておきたいものがありまして」
彼が渡してきたのは緑色の液体が入った注射器だった。
「これは……?」
「治療薬です」
「……今の愛衣に薬を投与しても意味ないんでしょ」
「TÑC細菌を死滅させる薬ではありません。貴方の血液から作った治療薬です」
「俺の、……血?」
「これなら愛衣さんを救うことができます」
「ッ!?」
愛衣を救える。
それを聞いた瞬間、すぐに愛衣のもとに駆け付けたくなった。
でも、そんなことって、あり得るのか。
だって、そんな奇跡みたいなこと——。
「副作用はあります」
「……」
「それを投与すれば、彼女は貴方同様不老不死になります」
「……っ」
やはり、奇跡なんて起きなかった。
無理だ。
愛衣に、俺と同じ苦しみを味合わせたくない。
そうなるくらいなら、ここで死ねたほうが幸せだ。
——それに、そんなことをしたら愛衣は妹に会えなくなってしまう。
「……なんで、そこまでしてくれるんだ」
一応、彼から動機を聞いておくことにした。
これを持ってきたということは、こいつが派遣された研究所というのは俺の血液で薬を作る所に間違いない。
ただ、この薬は開発に大きくかかわった俺にすらまだ情報が来ていない代物だ。
きっと量産までいきつけていないはず。これが最初の一本だという可能性だってある。
そんな貴重なものをなんで愛衣のために。
「…………私にも、彼女と同じくらいの年の娘がいました」
「……」
彼は遠い目でそう言う。
彼は愛衣と自身の娘を重ねている。
――理由は分かった。
それでも、
「これを愛衣に打つことはできない」
「……」
「俺は愛衣を幸せにすると決めたんだ。今でも毎日、幸せにすると愛衣に伝えている。だから、こんなもので、愛衣を苦しまるわけにはいかない」
「……」
「悪いな。せっかく持ってきてもらったのに——」
「愛衣さんが眠りにつく最期、確か貴方は立ち会えませんでしたよね」
唐突に医師が話し出す。
彼の言う通り、俺は意識のある愛衣と最期に話すことができなかった。
次の日の朝に会いに行った時には、愛衣はすでに生命維持装置に繋がれていた。
「彼女の最期は、どんな様子だったと思いますか」
「愛衣のことだから最期まで笑っていたんじゃないですか」
結局、あの日以外愛衣が泣くことはなかったからな。
「いいえ、彼女は泣いていました」
「……え?」
「そして眠る最期に、こう言いました」
「もっと、亜漣さんと一緒に生きたい」
気が付くと、足が勝手に動いていた。
ただ無我夢中で、愛衣の元へと走った。
俺も、……俺も!
愛衣と一緒に、生きたい!
病室のドアを勢いよく開ける。
そこには、変わらずベットに横たわる愛衣の姿。
俺は仄かに冷たい愛衣の手を握る。
俺は、泣いていた。
また泣き虫になっちゃったよ、俺。
「六月には結婚式を挙げよう。愛衣の母さんに手紙を書いてたくさん泣かしてやろう。
そして、一緒に幸せになろう」
俺は、愛衣の腕に注射針を刺し、薬を投与した。
百年後。
俺は桜の咲き誇る河川敷に座っていた。
そこには春風が吹いている。
あの日から百度目の春だ。
たくさんの別れを経験した。
友人が死んで、知り合いが死んで、親戚が死んで、子供も死んだ。
けど俺は生きている。
そのたびたくさん泣いた。たくさん悲しんだ。
——でも、寂しくはない。
「亜漣さんっ」
俺の隣には、愛衣が座っていた。
「どうしたんです~? ぼーっとしちゃって?」
愛衣は薬指に指輪をはめた左手で俺の頬を突く。
「いいや、何でもないよ」
「えへへ、変な亜漣さんですね~」
愛衣はおろしていた腰を上げ、桜の木の元へと向かった。
「わ~、すっごい綺麗ですよっ!」
「ああ、そうだな」
俺は桜の木の元ではしゃぐ愛衣の姿を見て、そう頷く。
「なあ、愛衣」
「ん~? 何ですか~?」
どうしても、これだけは確認しておきたいことがあった。
もう何度このことを尋ねたかわからない。
それでも、俺はまた愛衣にこう聞く。
「今、幸せか?」
愛衣は太陽のように眩しい笑顔で、こう答える。
「すっごい、幸せですよっ!」