恋と体温計
彼は年末になると私の誕生日を思い出した。
思い出して詫びる。それが何度か続いた。
誕生日に少しもかすりもしない年末に思い出して詫びる。
「それはもういい事だから」、と一応は言ってみたけれど、忘れる事がイベントになり、彼がどこで、何をきっかけで思い出すのか、それが気になっていた。
どやら、年賀状を書いていると思い出すようだった。
書きながら一年を振り返っていたのだろうか。
彼の会社は私の所より二日早くお正月休みになっていたから、仕事中に詫びのメールが入っていた。
思い出したからすぐに詫びを入れたのだろうが、一日や二日の遅れではない。数か月の遅れだ。
私は仕事中だから、即座に応答もできないこともあるし、時間を置いてから見ることになるので、そのメールに対して何かを送っても、互いの気持ちに時間のずれが生じているから、何を書いても手ごたえはなかった。
「あなたが、何をきっかけで思い出すのか楽しみしてるのよ」と、言えば嫌味に聞こえそうだから「仕方がないねぇ」と言っていたけど、正直、誕生日なんか教えなければよかったと、誕生日当日には後悔していた。
教えなければ期待もしない。
期待しなければがっかりもしない。苛立ちもしないし、心は平静を保てる。
「男は誕生日とか忘れるからね」などと、知り合いに忘れられたと言っては、怒っている女の子もいた。
彼の誕生日は、日本史において歴史的な事件があった日なので覚えやすいが、私の誕生日にはなにも起こっていないし、覚えにくい日なのかもしれない。
時には、かすりもしない見当違いの日に『誕生日おめでとうメール』が深夜に届いて、起されて色々苛立った私は「どなたかとお間違えではありませんか?」と返信したこともあった。
何度も詫びたくせに忘れる。
私が同じ失敗を繰り返すことを嫌うくせに、彼は堂々と繰り返す。
彼は自身の誕生日すら関心がない風の男であった。だから他人の誕生日にも関心が薄いのだろう。
誕生日を教えた私がいけないのだ。
教えたことで期待する自分を作ってしまった。
その彼とは些細なことで大喧嘩になった。
私が些細なことで大激怒させたというのが真相だ。
私には些細なことだが彼には些細でもなく、腹立たしくてたまらない事だったんだろう。発端は確か「体温計」だったと思う。
よくもまぁ、こんなに怒れるもんだなと思った。
私の怒りのスイッチにはならない事だったと思うが、彼のスイッチどころか導火線に火が付いた出来事だったのだろう。
「最低だ!」とか「一緒にするな」とか色々と酷い事も言われた。
私も多少は反撃したが、努めて鈍感でいると自称している私の反撃は、静かだが時に辛辣さが目立つのだと指摘される事もあるので、酷い態度だったかもしれない。
彼の怒りは持続するタイプのようで、彼にひと月以上無視された。
このままでは、年を越しちゃうんじゃないかという懸念も生まれてきた。
できれば、今年の憂いは今年のうちに取り払っておきたいが、怒り狂った彼とはメール以外に接触の窓口がない状況であった。メールも読んでいるのかどうかさえ分からなかった。しかし、受信拒否にはされていないようだったので、それは助かった。『なんとかなるかも』と高を括っていた。
しかし、現実は高を括っていてはいけない状況であった。
二カ月も無視が続くとさすがに私も堪える。
私が何かに堪えているのが分かるのか、友人が「心配事でも?」と尋ねてきた。
状況を打ち明けると、友人は「許してもらえるといいね~」とか、「相手も気まずく思ってるのかもよ」と希望を持たせる事を言っていたが、日が経つにつれ「あなたにはそういう自己愛の強い男は向いていないと思う。」とか「怒りの持続性が長いのも不安だ」と言い出した。
私も「とりあえずは怒りを鎮めてもらおうとは思うんだけどね・・・」と言った。
その後は「どうでもいいや」と思った。
彼の怒りがおさまってしまえばいいやという感じだ。
怒りをおさめさえすればいいという、私の身勝手さが出てきた。
怒らせたままでは、お互いの精神衛生上によろしくない。いつまでも気にかけていないといけないから、とにかく一旦許してもらって肩の荷を下ろしたい。
肩の荷を下ろしたくてたまらない。私の身勝手さはさらに湧き出る。
とりあえず非礼を詫びることに専念して、許しの言葉を貰ったら距離を置こうと思った。彼が距離を置いてるんだから、ぎこちないまま終わるのがいいんじゃないかなと思い始めていた。
謝り続けるのも大概疲れたし、卑屈な気持ちになることがあったので、この状況を終わらせたい気持ちが強くなっていた。
喧嘩の翌日から数日は毎日謝ってみたけれど、反応もないまま、私はメールを数日間を空けることにした。間を空けては何度か、接触を試みたが返事はなかった。
やがてその年の暮れも迫ったところで、彼は年賀状でも書きつつ一年を振り返ってでもいたのだろうか。
「もういいよ」と一言、返信が来た。
「ああ、よかった」私の懸念は取り払われた。
ホッとした。
彼が本当に私を許したのか腹の底は測りかねるが、謝罪は受け入れられたのだから私の憂いは消えた。
もう、振り回されることがないと思うとホッとした。そして、ぎこちなさが残るうちに、距離を置くことを頭に置いた。彼も距離を置きたかったのか、春になるころにはフェードアウトしていた。
ここ1~2年、体温を測られることが増えた。
喧嘩の発端となった、医療機器メーカーの体温計を見ると思い出す。
よくもまぁ、恋を終わらせるだけの威力があったものだなと。