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後編

 「博士」

 その夜、洗い物をしながら私は声をかけた。

 「なぜ、トガリに助太刀を申し出なかったか、ですか?」

 「……はい」

 言い当てられて、私は前掛けで手を拭った。


 帽子掛けの上で船を漕いでいる様子は、まるで無垢な幼児のごとき小動物なのだが、やはり大賢者に隙はない。

 「サグレへの復讐がトガリの生きることへの原動力になっていることは認めます。しかし、一匹で倒せる相手でしょうか? 話に聞くだけでも狡猾な獣です」

 「そのオコジョも半妖怪セミファントムの可能性が高い。頭に血がのぼったままの彼女では、餌となるために虎口に飛び込むも同然ですな」

 「虎児を得られぬことを承知で好きにさせたのですか?」

 「革命時代のロシアで、トガリ同じ目をした人間をよく見たものですから」


 博士の真っ黒な目が、過ぎ去った時代ときを見る。

 「赤軍白軍問わず、友軍に見捨てられ、生還を絶望視せざるを得なくなった兵士のやることは同じでした。捕虜への拷問目的の拷問、戦死者への凌辱、それが敵の仕業に見せかけて疎ましい同胞へ向かうことも珍しくありませんでした」

 「すでにトガリは救えない魂だと……?」

 「若者らしい好奇心が常に希望をもたらすとは限らないということです。捕食者と情を通じ、身内を食われた個体を受け入れる野ネズミはいません。トガリはサグレを追って仇討ちの旅に出たかのように言っていましたが、アカネズミの世界から追放されたというのが実情です」


 冷徹だが口調はあくまで優しかった。

 野ネズミの少女の愚かしさへの憐憫をも抱いた上で、我々に介入できる問題ではないのだと断定されれば、もはや私に反論の余地はなかった。

 「……僕はトガリが奇跡的に本懐を遂げられることを祈るだけにします」



 しかし私は、否応なく復讐に手を貸してしまうことになった。

 翌日、町の人々らと申し合わせて、稲荷社の雪かきに赴いたところ、まだ手付かずだった雪の上を走りまわる二匹の小さな獣が目に飛び込んできたのだ。


 「チューッ! チューッ!」

 みっともなく悲鳴をあげて逃げ回るのはトガリだった。

 後を追う真っ白な鰻のような生き物はオコジョ、当然これがサグレだろう。


 「チューッ! チューッ! チューッ!」

 昨夜のうちにサグレを発見、家族の無念を込めた一撃を受けてみよと挑んだものの、彼我の力量差は歴然、たちまち追われる立場へと転落したといったところか。

 だから一匹では手に余る報復しごとだと博士に進言したのだ。


 例えトガリが救われぬ魂を抱えていようと知己を得た者の窮地は見過ごせない。博士にお叱りを受けるのを承知で加勢する。

 私は目まぐるしく雪上を這う追手へ石を投げた。

 武器を選んでいる暇もなかったので、足元に落ちていた握り拳大の石を使ったのだが、これが私自身も予想しなかったほどのタイミングの良さでオコジョに命中、頭を押し潰したのだ。


 投石の下で頭部が爆ぜて、完全に事切れている。私の横槍によって、アカネズミの仇討ちはあっけなく幕を下ろした。

 窮地に一生を得たトガリも呆然と仇敵の亡骸を見つめていた。


 「大丈夫かトガリ……」

 触れようとした手に火のような痛みを感じ引っ込める。

 理不尽に門歯を突き立てられて、手の甲には血の玉が浮いていた。

 「助けてやったんだぞ⁉」

 「ばか! ばか! どうして殺すのよ!」

 合点のゆかぬことを口走りながらトガリが飛びかかってきた。

 小さな手で私をぽかぽか殴り、小鞄の中身を次々ぶつけてくる。投げる物が尽きると今度はサグレの死体に取りすがって大声で泣き始めた。


 「サグレ! しっかりしてサグレ! こんな所で死ぬなんてあんまりだわ! どうしてよ! どうしてこんなことに……!」

 矛盾を責めたところでどうにもなるまい。

 自力で本懐を遂げられなかった無念かはともかく、愛憎などという生易しい表現の遙か遠くにある感情がトガリの中で荒れ狂っているのだ。


 「私の友人を噛むとは、困ったお嬢さんですな」

 ふわりとポラトゥーチ博士が私の肩へ降りてきた。

 「怪我を診せなさい」

 「大丈夫です。薬をもらいましたから……」


 ぶつけられた所持品の中には、イラスト化されたネズミの顔が描かれた小指大の缶があった。傷によく効く鼠印の薬草軟膏とはこれであろう。

 出血したのは最初に噛まれた箇所だけ。爪もたてず、小さな拳を振るう彼女にこれ以上、私を傷つけるつもりがないことは明らかだった。


 「目を開けてよサグレ! あたしはあんたと一緒に旅がしたかっただけなのよ! サグレ……おおサグレ……!」

 私は後悔していない。正しいと思うからやった。

 自分がトガリにとって新たな仇となることも受け入れよう。


 「理解できますか」

 あなたに彼女の気持ちが──と博士の黒目が問いかけてきた。

 「全然わからないんですが……わかります」

 矛盾もいいところだが、率直な気持ちを私は述べた。

 「私もです。できれば、あなたには知らずにすませて欲しいことでしたが」


 まだ雪かきの途中だ。獣の死骸も片付けなければならない。

 早くトガリを退かせるには、どう説き伏せればいいか私は考えた。



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― 新着の感想 ―
[一言] トガリとサグレ。敵対する種族でなければ彼らは幸せになれたのでしょうか。もしも……を仮定していても無意味と知りながら、思わずそんなことを考えてしまいます。 トガリは少しばかり愚かだっただけ。…
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