前編
三頭の犬神が滞っているのを悩ましく思いながら、ひさしぶりにポラトゥーチ博士を書きます。
前、中、後に分けて、締切日までには完結させます。
「ラッセル、ラッセル、それラッセル」
膝下まである雪を、掻き分け、掻き分け、前進する。
大寒波襲来の予報を聞いて、防水ブーツを購入しておいて正解だった。おかげで沁み込んだ雪水に素足を濡らす心配もない。
何より頭の上の応援団は、除雪機よりも頼もしい。
「ラッセル、ラッセル、それラッセル」
私を鼓舞する声は、穏やかながらも聞く者を奮起させるリズムを刻み、やや無謀に思われた雪あがりの冒険を快適なものにしてくれた。
「ラッセル、ラッセル、それラッセル」
私も声を合わせてしまう。雪面を私と博士のハミングが跳ねた。
「博士、鳥居が見えてきましたよ」
私は笠木にたっぷり雪を乗せた石鳥居を視認した。地元の稲荷社である。
「ありがたい。大体このあたりで間違いないのですが……」
その年は記録的な大雪だった。仕事帰りにちらつき始めた粉雪が、一晩経過して窓を開けると、町全体を埋没させていたのだ。
折悪しくもモモンガの大賢者、ポラトゥーチ博士が私の寓居を訪問してくださる日と重なっており、博士の大事な首飾りを紛失してしまう羽目となった。
どういう経緯で人語を操るモモンガと知り合ったのか、ここで多くの文を割いて説明することは差し控えるが、今でこそ町立の植物園に勤務する学芸員補の私が、過酷な戦場体験で精神を荒ませていたことを汲み取り、人間や世界への信頼を取り戻させてくれた大恩人がポラトゥーチ博士だったのだと言っておこう。
ともかくモモンガだけに滑空はお手の物の博士ですら、一瞬の油断から猛吹雪に吹き飛ばされ、私の家に向かう途中で、首飾りを落としてしまった。
くたびれ果てた体で、テーブルの上で腰を下ろした博士から事情を聞いた私は、喜んで落とし物探しへの協力を申し出たのである。
「確か瑪瑙の勾玉でしたね」
「私の仙鼠への昇格を記念して師から賜った霊石です。風向きや風速から推算するに、この神社の境内のどこかに落ちていることは間違いありません」
博士の髭がひこひこ動く。仙術モモンガと霊石、霊力を宿したもの同士で反応し合うのだろう。正確な位置までは掴みきれないようだが。
「まだ旅の疲れが取れていないでしょう。博士は家に戻って休んでいてください。今日は非番ですし、私だけで探せるだけ探してみます」
「それでは雪中行軍を志願したあなたの厚意を無下にすることになります」
博士が被膜をひろげる。改めて落とした場所の特定を試みるつもりだ。
見上げる私には、白いお腹の毛しか見えないが、青灰色の背中は種子のような模様を描いており、思わず合掌したくなるほどの神々しさだ。
「じゃあ、博士は上から。私は下を探します」
本殿の屋根や鰹木、木の枝等に引っかかっているケースは、飛行能力を有する博士の探査領域として、哀しき歩行動物の私は、地道に雪をどかして大地を見つめることに専念しようと決めた矢先だった。
「あれは!」
「見つかりましたか⁉」
「否、猫に鼠が追われています!」
「鼠が?」
不審に感じたのも束の間、私はすぐ駆け出した。
ただの野ネズミが野良猫に襲われているだけなら割り切って傍観すべしというのが我々共通の見解である。それを一大事のごとく伝えるのは、おそらくネズミが博士の同類の可能性が高い。
雪を蹴立てて拝殿の裏へ回る。鎮守の杜が開けた空き地には一面の雪が敷かれ、追いかけっこを演じる猫とネズミが視界に飛び込んできた。
「しつこいわね! あんたなんかの間食にされてたまるもんですか!」
博士が念波で中継してくれているので、はっきりと聞き取れた。
藁色の野ネズミは確かに人語をしゃべっている。
「もう! あっちへ行きなさいったら! このケダモノ!」
ケダモノはお互い様だろうに。つい口元が緩んだ。
「博士、自然の摂理に反するかもしれませんが、人語を話す齧歯類は他人のように思えませんので、助けても構わんものでしょうか?」
ポラトゥーチ博士はあっさり了承した。
「あなたの人生に介入した私に聞きますか? お好きなように」
私は雪を握りしめ、礫を作るとひゅっと投げる。白い礫が横腹に当たって弾け散り、猫は泡を食って逃げ出した。
相手が猫でよかった。もし狐だったら話は複雑になってくる。
たとえ脅かすだけであったとしても、稲荷社の御使いへの暴力行為など畏れ多いと躊躇った挙句、野ネズミを助ける機会を逸していたかもしれないのだ。