とんとんさん
念願の保育士となって数ヶ月。
高いとは言えない給料ではあるが、職場の環境や子ども達との関係に悩むことはなかった。
中々好調な滑り出しだと思っていた。
「せんせい、きょうちゃんとあやちゃんがケンカしてる」
「せんせい、おしっこ!」
「せんせい、いっしょにまほうつかいごっこしよう」
あどけなく可愛らしい子ども達と接する日々は、私の憧れている保育士そのものだった。
「せんせい、みやちゃんが!みやちゃんが!」
ある日の午後、お昼寝が終わる頃に焦った声が聞こえた。
子どもが泣きそうな顔で園庭を指差している。
そこには、園庭の砂を口に運んでいる女児の姿があった。
「みやちゃん!駄目でしょ、ばっちいよ」
私はすぐにその子の元へ駆けつけ注意をした。
みやちゃんはにやにやと笑いながら砂を食べている。
私はぞっとした。
口の端から見えているのが、虫の足だったからだ。
「何食べてるの!出して!」
無理やり彼女の口をこじ開けて出したのは、まだ生きているバッタだった。
みやちゃんは口から全ての異物を吐き出して号泣した。
「ごめんね、先生いきなり大きい声だしてびっくりしたね。さあ、お口洗おうか」
子どもを手洗い場へ促す。
私は保護者への連絡事項として、連絡帳にその旨をしたためた。
「おままごとしーましょ」
「うん、あっちでしよう」
「あら、いいねえ。何のおままごと?」
みやちゃんの一件があった次の週の事だった。
私は遊ぼうとしている子ども二人に、何の気なしに話しかけた。
話しかけられた、二人はもじもじとするばかりで答えない。
「まだ決まってなかったのかな?」
「んーん、とんとんさん!」
「とんとんさん?それはなあに?」
「せんせいにはないしょだよ!」
そう言って二人はくすくす笑いながら教室の隅に走っていった。
子どもにはよくある事だった。
おおかた何か新しい遊びを思いついたのだろう。
そう思いながら私はその場を少し離れた。
「とんとん、ぐつぐつ、ジュージュー」
「さあ出来た、お上がりなさい」
教室に戻ると、先ほどの子の声が聞こえてきた。
「とんとんさん」とはお料理のおままごとだったのか。
私は他の園児の相手をしながら横目に声の方向を見た。
「特製のシチューです」
「美味しそうでしょう」
その光景に、わたしはおや、と思った。
おままごとをしている子は一人だったからだ。
テーブルを挟んで椅子を二脚使い、一方に座っている女の子。
もう一人はどこへ行ったのだろう。飽きてしまったのだろうか。
「ええ、そうよ。とくべつなおにくなの」
「おやさいもきちんとたべなさいね」
彼女は誰も座っていない椅子に向かって喋り続けていた。
その日の午後、やはりお昼寝の後の事だった。
「せんせー、きょうちゃんが」
男児が不安げな眼差しで私のエプロンの裾を引っ張った。
その子の指差す方向を見ると、園庭の砂場にしゃがみこむきょうちゃんの姿があった。
「どうしたのかしら、見に行ってみるね」
私は嫌な予感がしながら砂場へ向かう。
しゃがみこんだきょうちゃんは、砂と蟻を頬張っていた。
「きょうちゃん、やめなさい。ばっちいでしょ」
背筋に冷たいものを感じながら私は彼女の肩を叩いた。
「ぐぇっげぇっ」
喉にまで砂が達していたのか、きょうちゃんは潰れた蛙のような声を上げる。
私は急いできょうちゃんを担ぎ上げ、砂を吐かせて応急処置をした。
手洗い場できょうちゃんの口をゆすいでいる時、こそこそと小さな声が聞こえた。
「とんとんさん、今日も来たね」
そうして私は、きょうちゃんが、先ほど「とんとんさん」というおままごと遊びをしていた子だった事に思い至った。
了




