1-02:『二つの輝く結晶』
三限の授業をサボった遥翔は、郊外にある総合病院に来ていた。二歳年下の妹と面会するためだ。
この県内有数とも言われる総合病院は、大学から電車とバスを乗り継いで、二時間ほどの距離にある。都会の喧騒に飲み込まれていた街並みも、どこか落ち着きを取り戻していくように見えた。
ナースステーションで手続きを済ませてから、妹の元に向かう。複雑に入り組んでいる病棟フロア。初見なら迷ってしまうが、もう何度も通っている場所だから、案内を見なくても問題なく辿り着ける。
目的地となる病室は四階の角部屋だった。入り口の壁には『宮上世奈』と書かれたプレートがはめられている。そこに他のプレートはない。一枚だけだ。
「……よし」
意を決した遥翔は、ゆっくりと病室の中に入っていく。昼過ぎとはいえ、病室内の照明がすべて消されていて、窓から入ってくる光も乏しいので、かなり薄暗く感じる。
「やっほー、来たぞー」
「――――――」
「約束通りの三時ピッタリ、遅刻じゃないよな」
返事をせずに、ただ沈黙を貫く世奈。反応がないのも当然だ。
世奈が抱える症状は遷延性意識障害、いわゆる『植物状態』なのだから。
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その瞼を閉ざしたのはちょうど一年前の今日、七月二十一日のことだった。
俺が高校三年生、世奈が高校一年生だったあの日、同じ高校に通っていた俺らは一学期の終業式を迎えていた。夏休み前最後のホームルームで、通知表の内容に一喜一憂するクラスメイトの姿を、今でも何となく覚えている。
数日前に答案が返却された一学期の期末試験。俺は世奈から、合計点での対決を持ち掛けられていた。八教科の合計点で競って、勝った方は負けた方に一つだけ、お願いを聞いてもらえるというものだ。勿論、無理のない範囲で。
俺も世奈も、各学年で五本の指に入るぐらいの実力はある。お互いに負けず嫌いだから、全力で挑む以外の選択肢はなかった。
因みに、中間試験のときも同じように勝負を挑まれた。結果は俺が745点で、世奈が726点で俺の勝ち。世奈のやつ、今にも泣き出しそうな顔で悔しがってたな。だから、例のお願いはなかったことにしたんだけど。
今回もまた勝利する自信があった。ただ、その予測は覆されることになる。俺が751点、世奈が757点で、世奈に軍配が上がったからだ。
「いぇーい、ざまあみろ!」
これでもかという勢い、全力の元気で煽ってくる。流石にイラっとした。
どうやら、前回の悔しさをバネにして、いつも以上に頑張ったらしい。だとしても、まさか学年トップに躍り出てくるとは。流石に頑張りすぎだろ。
どんなお願いをされるのかと身構えていたが、実際には思ったよりも単純なものだった。「終業式の日の放課後、買い物に荷物持ちとして付き合って!」ということだ。そういえば、俺がなかったことにしていた分のお願いは、既に使用期限切れだったらしい。何だよそれ、聞いてないぞ!
まあ、買い物ぐらいなら造作もなかったし、付き合ってやることにした。負けたことは確かに悔しいが、妹の努力とそれに付随してきた結果は評価したい。学年トップのご褒美をあげてもいいなと思った。
世奈には学級委員としての仕事が残っていた。世奈は勉学に勤しむだけではなく、クラスをまとめる優等生で人望も厚い。俺とはそういった側面が完全に真逆だ。本当に兄妹の血が繋がっているのか、疑いたくなってくるレベルだ。
ということで、学校から一緒に行くことはせず、大型ショッピングモール最寄り駅の改札口前で落ち合うことにしていた。
しかし、集合時間の午後三時を過ぎても、世奈はいっこうに姿を現そうとはしなかった。
携帯電話を通じて、警察から「世奈が交通事故にあった」という知らせを聞いたときは、自分でも驚くほど冷静だった。今になって考えてみると、それが事実だと認められなかっただけだと思う。
後から聞いた話によると、世奈が横断歩道を渡っていたところに、赤信号を無視した乗用車が突っ込んできて、その身体を跳ね飛ばしたそうだ。轢き逃げの犯人は、事件発生から一年が経った今も捕まっていない。
この事故で、世奈は意識不明の重体になった。かろうじて命は紡がれたものの、意識が回復する見込みはほとんどないらしい。
現実として受け止められたのは、病室にいる眠り姫の姿をこの目に収めたときだった。
いや、正確には少し違う。――現実を受け止めるしかなかったんだ。
「世奈……」
ちゃんと生きているというのに、ただ眠っているように見えるのに。
あれから、あの日から、流れるはずの月日の動きは止まっている。
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総合病院までの道中で買ってきたフラワーアレンジメントを、窓際にある床頭台の上に置く。使われることのないテレビを退かすことで、そのスペースを作った。周りがモノトーンのままだと、寂しさで満たされてしまう気がした。殺風景な病室の雰囲気も、これで少しは華やかになるだろう。
「じゃあな」
少女はベッドで眠り続け、その目を覚ます気配はない。ボブヘアだったはずの黒髪は、綺麗に胸の辺りまで伸びていた。そろそろ、切ってあげた方がいいかもしれないな。
遥翔はその寝顔を目に焼きつけて、病室を立ち去ろうとした。そのときだった。
「……ん?」
ふと視線を落とすと、病室の入り口の近くに、どこかで見覚えのある結晶が落ちていた。この光沢と中に刻まれた意味不明な模様は――。
――間違いない。昼休みに食堂で受け取ったものと同じだ。
遥翔はおもむろに、財布の中に入れていた結晶を取り出して、落ちていたものと見比べてみる。
じっくり観察してみたが、厳密にはまったく同じというわけではないようだ。大きさや形状は同じでも、刻まれている模様が異なっていた。一見する分には似ているが、部分的に違うところがいくつもあった。
それにしても、今日だけで得体の知れない結晶を二つも手にしたとなると、偶然では済まされない何かがありそうで、流石に少し気味が悪い。下手にどうこうすべきではないような気がしてならない。
少なくとも、一般に流通しているようなものではなさそうだ。まさか、古くから伝わる呪術アイテムとか――いや、ないな。
強いて言えば、どこかの国のアクセサリーといったところか。チェーンがついているわけでもないから、身につけようがないけど。
取り敢えず、病室に落ちていた結晶は、お花の横にでも飾っておこう。置いてある分には綺麗だし、誰かの落とし物だったら、持ち主が探しに来たときに目に入りやすいだろう。一応、食堂で貰った方はリュックの中に戻しておいた。
うん、きっとそれがいい。
コンビニで午後六時から十時まで、四時間という短めのバイトを終えて、遥翔は帰路についていた。昼間の暑さがまだ残っていて、熱帯夜になることは避けられそうにない。
規則的に並べられた街灯が、その道をぼんやりと照らし出している。それでも、夜の暗闇は深く深く沈んでいこうとする。
民家が軒を並べる住宅街の中に、遥翔が住む三階建てのアパートはあった。二階の隅にある部屋の扉を開けると、そこには六畳一間の空間。少し狭く感じることもあるが、大学生の一人暮らしということを考えれば、これで十分だ。
この春から、父は仕事で海外を飛び回っている。そして、母はそれについて行っている。世奈の入院費用はかなりの額で、保険金だけでは足りないのが現状だ。その負担を賄うためにも頑張ってくれているのだろう。こういった事情による一人暮らしだが、特に苦に思ったことはない。
ベッドの上にダイブしてみる。何故だろう、今日はやけに疲れている気がした。いろんな意味で、普段とは違う一日を過ごしたからだろうか。
明日の授業は三限から、思うがままにゆっくり休める。まだ早い時間だけど、もう寝てしまおうか。今はもう動きたくないし、シャワーは明日の朝でいいや。
気づかぬ内に、いつの間にか、遥翔は夢の世界にいざなわれていた。
夢を見た。誰かが怒っている夢を――。
憎悪や嫉妬に包まれて、その者はすべてを否定する。
夢を見た。誰かが泣いている夢を――。
悲嘆や絶望に包まれて、その者はすべてを否定する。
夢を見たんだ。君が笑っている夢を――。