1-01:『始まりの邂逅』
真夏の強い陽射しが辺り一面に降り注いでいた。
身体の至るところから汗が噴き出している。呼吸をするのにも、どこか息苦しさを感ぜずにはいられない。連日の猛暑だった。
「何だよ、この暑さは……」
軽くため息をつきながら、宮上遥翔は多くの人が行き交う大通りを足早に歩いていた。
黒い短髪に、スラッとした痩せぎみの体型。身長は平均よりも数センチ低い程度。特に裕福なわけでもない一般的な家庭で生まれ育った、ごく普通の大学一年生だ。
ただ、小さい頃から勉学に力を入れてきた甲斐もあってか、学力だけは頭一つ抜きん出ていた。実際、世間でも名が通るような有名大学に合格したので、同窓会で会った中学時代の同級生たちには『高学歴』のレッテルを張られることも多い。
大学生になってから数ヵ月が経ち、ようやく新生活にも慣れてきたなと感じる今日この頃。高度な講義内容に頭をひねることもあるが、何だかんだで充実した日常を送っている。
二限の授業が終わり、昼休みの時間になると、遥翔は決まって大学の近くにある食堂へと足を運ぶようになっていた。知り合いから「昼飯、一緒に行こうぜ」と誘われても、そこで首を縦に振ることはあまり多くない。
人間関係はそれなりに良好な状態を保っているつもりだ。あくまで最低限のものでしかないが、遥翔はそれで十分だと思っていた。
もし、心の奥底に踏み込んでこようとする者がいたら、そいつのことを拒絶してしまうだろう。人と接するときはそこに壁を作って、必要なときに必要な分だけの会話をする。この距離感がちょうどよかった。
――そもそも、コミュニケーション能力の低さに問題があるんだけどさ!
騒々しい蝉時雨の音を聞きながら、歩みを進めていく。その短い寿命を絞り出した声は幾重にも重なり、遥翔の鼓膜を揺らし続ける。
通りを歩く会社員たちは、会社という組織からの一時的な解放感に浸っているように見えた。小一時間経てば元に戻るというのに、と少し哀れみを覚える。順調に進級できたとしたら四年後には、自身もそのうちの一人になることを考えると、何とも言えない気持ちになった。社会人になったら、ブラック企業には死んでも入りたくないな。それだけは御免だ。
目的地の食堂がようやく見えてきた。通っている大学からは徒歩七分。大した距離ではないはずだが、いつもよりずっと長く感じたのは、きっとこの暑さのせいだ。
段々と太陽に体力が奪われているのが分かる。深刻な運動不足についても、よく自覚できた。今のうちから気をつけておかないと、中年になったときには大惨事になりかねないと思い、運動だけは適度にしておこうと決心する。
遥翔は暖簾のかかった引き戸の前で立ち止まり、一度呼吸を整えてから食堂の中に入る。
「はい、いらっしゃい!」
「どうも、こんにちはー」
はつらつとした店主の声が大きく響き渡った。それと同時に、ひんやりとした涼風が身体に染み込んでくる。なんと心地よいのだろうか。まるで砂漠の中のオアシス、もう外には出られなくなりそうだ。
食券販売機に千円札を入れ、少し悩んだ末に目当てのメニューが書かれたボタンを押す。結局のところ、いつも通りの料理を選んでいた。
女将さんに食券を渡し、遥翔はカウンター席の真ん中あたりに腰を掛ける。
「特製親子丼、一つ!」
「まいどー!」
店主は素早く手を動かし始める。流石、慣れた手つきだなと思った。三十年もの間、経営を続けてきただけのことはある。
遥翔は食堂に来ると、かなりの頻度でこの親子丼を注文する。特別なところは何一つなかったが、素材の味を生かしたシンプルな味付けと、六〇〇円という比較的リーズナブルな価格設定が、看板料理である所以だった。そう、シンプルイズベストだ。
厨房の様子を眺めながら、午後からの予定について考える。
まだ一コマ分の授業が残っているが、今日だけはどうしても外せない用事があるので、パスさせてもらうことにしよう。一回限りの欠席なら、単位を取るのにも支障はないはずだ。定期試験の時期が差し迫っていて、少し不安ではあるが、どうしても外せない大切な用事なんだから仕方がない。
あの教授の教え方、本当に分かりづらいんだよ。十分に予習をしてたとしても、ギリギリ分かるかどうかの瀬戸際といったところ。誰かにノートを見せてもらわないとヤバイ、立ち行かなくなって詰んでしまう。大学初めての定期試験で、いきなり失態をさらすわけにはいかないし――。
「あの、すみません」
「――――――」
「おーい、そこのお兄さん?」
「……ん?」
透き通るように綺麗な声が聞こえてきたので、何かと思いながら振り返ってみると、そこには一人の美少女が立っていた。
腰の辺りまで伸びた黒髪のロングヘアで、身長は百六十センチぐらいか。その凛とした瞳には、どこか幼さが介在しているようにも見える。
制服姿から察するに、女子高生だと思われる。俺が高校生のときは分からなかったが、やっぱり『JK』のブランド力は凄まじい。とにかく、キラキラして見える。俺たちが失ってしまったものを、たくさん持ってる気がする。
――いや、それはそうとして、なぜ俺に話しかけてくるんだ?
遥翔の人間関係の希薄さを考えれば、普段なら絶対にありえない状況だ。その頭上にクエスチョンマークを浮かべざるを得ない。
不思議に思うことは多いが、とりあえずは応答してみることにした。
「……あー、ええーっと、何ですか?」
「これです、落としましたよ」
その女子高生が渡してきたのは、一つの小さな結晶だった。十センチほどの大きさで、透明なガラスの表面にはしっかりとした光沢がある。中にはレーザーで刻まれたような幾何学的な模様が描かれていた。文字のようにも見えるが、それが何を意味しているのか、さっぱり分からない。ただ間違いなく、こんなものは見たことがない。
――うん、これは俺のものじゃないな!
「あぁー、俺のじゃないです」
「でも、ズボンのポケットから落ちたように見えたんですが……」
「えっ、本当に?」
その質問に対して、女子高生は無言で強く頷いた。
遥翔には『話し相手の嘘を見抜くことができる』という特技があった。高校生のときに心理学への興味を持ち、それから独学を進めた結果、自然と身についたものだ。身体のあらゆる部分の反応から推測するだけで、必ずしも当てられるわけではないが、知り合いが若干引く程度の精度を誇っていた。
嘘を見抜く能力、それを使えば分かる。この子は嘘をついていないということが。
だとしても、この正体不明の結晶を受け取る理由にはならなかった。ポケットに入れた覚えなんて、微塵たりともないのだから。
二人の間には暫しの間、時が止まったような沈黙が続いていた。
――うわぁ、困らせちゃったよ。こうなってくると、こっちまで困ってしまう。
さて、どうしたものだろうか。このままだと埒が明かない。コミュ障の俺にとって、長い沈黙ほどツラいものはない。
まあそうだな、嘘はついてなさそうだし――、
「あぁ!」
「……!?」
驚かせてしまったみたいだ、ごめんね。コミュ障だと、こうなってしまうのね。
「これ、俺のだわ。ありがとう。ポケットに入ってたのか」
「……あっはい、それなら良かったです。どういたしまして」
そう言うと、女子高生は軽くお辞儀してから、彼女が座っていたテーブル席に戻っていった。友人と二人で来ていたらしい。
礼儀がよくて結構。きっと良い育てられ方をしてきたんだろう。いや、お前は誰目線で人様の娘さんを語ってるんだ。
「はい、特製親子丼」
「いつも思いますけど、あっという間に出来上がりますよね」
「三十年近くもやってりゃ、自然にな」
これが『継続は力なり』ってやつか。なるほど、なるほどね。
それにしても、この結晶は何なんだろう?
あのままの膠着状態ではどうしようもないと思ったから、あたかも俺の落とし物であるかのように振る舞って、流れで受け取ってしまった。
本当に怪しいものじゃないよね? まさか、盗品をなすりつけられたわけじゃないよね?
これ以上考え続けたところで、何かが分かるわけでもない。ひとまずは御守りとして、リュックの中にでも入れておこう。根拠はないが、その輝きが厄を払ってくれそうな気がしたからだ。
「……いただきます」
次の用事までの休憩時間もそう長くはない。遥翔は急いで白米を口に頬張った。