(32)見えないモノ
オカルト、怪談の類いではないが、見えないモノは怖い。もちろん、ビリビリッ! とくる電気や身体の健康を脅かす放射能なども含まれる。だが、それでも人々はそうしたモノに近づこうとする。ひょっとすると、人はサド的ではなくマゾ的な動物なのかも知れない。^^
とある地方の池である。朝から飽きもせず、一人の釣り人が糸を垂れている。水面からは当然、釣ろうとする獲物の魚は見えない。その見えないモノを釣ろうと、釣り人はすでに二時間ばかり経つというのに微動だにしない。その釣り人に近くの道を通りがかった男が気づいて声をかけた。お地蔵さまのように動かない釣り人を不審に思ったのだ。
「あの…どうかされましたか?」
だが、釣り人からはなんの返す言葉もない。
「…もしっ!」
男は念を押すようにもう一度、声をかけた。聞こえなかったか…と思ったのである。だがそれでも、釣り人からはなんの返答もない。男は瞬間、こりゃ!なにかあるぞっ!! と思えたものだから、釣り人に近づいた。すると、釣り人は目を閉ざしたまま、釣り竿を構えたまま眠っていた。いや、男にはそう見えたのである。ウトウト眠ってしまったとすれば、池の中へドッボン!! という万が一も有り得る。
「あの、もしっ!!」
「…」
だが、やはり釣り人からはなんの言葉も出なかった。男は、こりゃ、大変だっ!! ポックリと死んだんじゃ!? と、益々(ますます)、気になり、ついに釣り人の肩を揺さぶった。
「ったくっ!! 小煩い人じゃなっ! 騒がれては見えないモノが見えないではござらぬかっ!」
釣り人は静かに両の瞼を開けると、厳かな声でそう告げた。
「し、失礼しましたっ! 動かれなないもので、つい…」
「それがしは、この近くで庵を結びおる全安と申す僧でござる」
「あっ! これはこれは気づかぬことで…失礼をいたしました」
そのときである。釣り人の糸がサッ!! と動いたかと思うと、水面から一匹の魚が勢いよく浮かび出た。
「ははは…見えないモノが見えましたぞっ!!」
釣り人は、釣り糸の先の魚を確認すると、「南無阿弥陀仏!」と小声で呟き、魚を池へとリリース[解放]した。
男はその釣り人に後光を見たように、思わず合掌した。
見えないモノは怖いが、有り難い見えないモノもある訳だ。^^
完