③
物語はそこで終わっていた。まだ続きがありそうだが、教授の手元にあるのはこれだけなのだろうか?
僕と緋村は同時に顔を上げ、テーブルの向こうを見る。
彼は愉快そうに破顔していた。
「不思議でしょ? 私の友人が書いた小説の中に、何故か君たち二人が出て来るなんて。──私は友人に教え子の話をしたことはないし、若庭くんに関しては今日が初対面。初めは緋村くんの悪戯じゃないかとも思ったが、それにしてはやけに紙が古いし、何より筆跡が全然違うでしょ? なんでこんな物が突然現れたのか、まったくもって謎だねぇ」
確かに奇妙な話だ。僕たちの名前だけではなく、阪南芸術大学の二回生と言うの事実と一致する。
まさか、筆者はVK教団の崇めるヴィジョン・キングよろしく、過去、現在、未来全てを見通す力を持っており、それによって僕たちのことを知り得たとでも言うのか。
「まるでラプラスの悪魔ですね……」
緋村が呟く。
ラプラスの悪魔──数学者ピエール=シモン・ラプラスが生み出した、全知の存在か。過去と同じように未来を見ることができるその概念を、ラプラスは単に「知性」と呼んでいた。しかし、語り継がれるうちに「ラプラスの霊」と名前が変わり、最終的には「悪魔」に落ち着いたと言う。
無論、これは緋村の受け売りで、彼はこうした生きて行く上ではあまり役に立ちそうにない知識ばかり豊富だった。
「緋村への相談と言うのは、この話の事件を解き明かすこと、なんですね?」
「そうだね。でもそれだけじゃない。──いったい誰が何の目的でこの奇妙な小説を書き、私の元に送り付けて来たのかも含め、真実を知りたいんだよ」
「でも、さっきは『友人が書いた』と──誰が書いたのかわかっているんじゃ」
「いいや。ご覧のとおり表紙に著者名はないし、元々原稿が入っていた封筒にも送り主の名前は書かれていなかったからねぇ。──それなのに友人の誰かだと確信できたのは、君たち以外の登場人物の名前が、全部私が中学時代に仲のよかった子と同じだからだよ」
なるほど。つまり、筆者はその中の誰かに違いないと考えたわけか。
「それに、田代さんのことも関係あるようだし……」
「小説の中で前教主だった人ですね? 何かあったんですか?」
原稿用紙の束をテーブルに置いた緋村が、そう尋ねる。ついで煙草の箱に手を伸ばしながら。
「田代さんも中学の時のクラスメイトだったんだけどねぇ、二年生に上がってすぐ亡くなってしまったんだよ。不運な事故でね。確か、校舎の階段で足を滑らせて転んじゃったんだったか。打ち所が悪かったようで、即死だって聞いたよ」
どこか遠い場所──過去を見据える眼差しを宙空に向け、彼は述懐する。
「ちなみに、作中では特に言及されていないけど、本物の田代さんは女の子でね。名前は田代友里さんと言って、美人さんで、それはそれはモテていたねぇ。クラスの男子はみんな彼女を好きだったんじゃないかなぁ。──少なくとも、私や私の友人たちはそうだったと思うね」
もしかしたら、謂わゆる初恋の相手だったのだろうか? だとすれば、彼女が亡くなった当時は相当堪えたはずだろう。本人の口調が軽い物だからとっくに過去の出来事となっているのだろうが、察するに余りある。
「と言っても、みんな素直じゃないと言うか、まあ子供だったから、直接好意を伝えた者はいなかったはずだけど。それどころか、私らは何かに付けてちょっかいかけていたね。まんま、好きな子ほど意地悪したがる腕白小僧だったよ」
「その人たちには、確認はしていないんですか? この小説を書いたのは誰か」
「ああ。したくてもできないんだよねぇ。みんなもう死んじゃったから」
「と言うことは──これを送り付けた人物は、ご友人の誰かから頼まれた可能性が高いですね」
「そうかも知れないねぇ」
「その心当たりは?」
「さあ、どうだろうなぁ……みんなとは、もうずいぶん前に疎遠になっていたからねぇ。葬式に参列できなかったところか、未だに線香を上げられてない人もいるくらいだよ」
中学校時代の交友関係などそんな物なのかも知れない。僕でさえ、すでに地元の友人との付き合いは希薄になっているのだから、教授の年齢なら尚のことだろう。
「そんなわけだから、途方に暮れちゃっててねぇ。どうか君たちの知恵を貸してくれないかな。もちろん、お礼は弾むから。取り敢えず──緋村くんには単位をあげよう。これでもう、私のゼミは出なくても大丈夫だよ」
急に生々しいな。
「別に、嫌々出席してなんていませんよ」火を点けた煙草の煙と共に、呆れたように吐き出す。「そんな特典がなくとも、相談に乗るのは吝かではありません。すでにご馳走になっていますし」
意外にも乗り気のようだ。いつもこう言った面倒ごとを持ち込まれた時は、まるで不退転の敵と見えたかのように嫌な顔をするクセに。
「ありがとう、恩に着るよ。虚構の中とは言え、殺されちゃってるなんて、あまりいい気はしないでしょ?」
「失礼なことを言うようですが、何かそれだけの恨みを買っていた、と言うことはないんでしょうか? この中に登場するご友人方との間に、トラブルのような物は?」
「いいや、なかったはずだよ。少なくとも、私が覚えている限りではだけど」
「素朴な疑問なんですが、そもそも小説に登場する人たちは実物に即した描写がなされているんでしょうか? それともどこか改変されているとか?」
「それなんだけどねぇ、どうにもデタラメなんだよなぁ」
教授は両手で頬杖を突くと、訝るような口調で答えた。
「どう言うことですか?」と、これは僕。
「なんて言うか、みんな私の記憶と違いすぎるんだよねぇ。例えば、一誠治くんは全然オドオドした感じじゃなくて、むしろクラスの中心だったね。悪く言えばガキ大将かな。田代さんへの悪戯も一番積極的だったし。小柄な方ではあったけど」
なるほど、確かに小説に登場する一とは真逆のタイプである。
「他にも、煙井直孝くんは全然太ってなんかいなかったね。確かスポーツが得意で幾つか部活を掛け持ちしていたっけ。ただ、一くんには頭が上がらなかったようで、子分とまではいかないけど、わりと追従してたなぁ。
それから沢長賢太くんは──言っちゃ悪いが、こんなに頭のよさそうな話し方はしなかったよ。どちらかと言うとお馬鹿な方で、剽軽な子だったねぇ」
どうやら本当に全員「デタラメ」な人物描写をされているようだ。
しかし、いったい何故そんな齟齬が生じたのだろう? これを書いた人物は教授の友人の誰かのはずなのに。
それとも、実は単に彼らの名前を知っているだけで、大して面識はなかったとか?
いや、だとしたらわざわざ名前を拝借して推理小説──のような物──を書き、それを教授に送り付ける理由がわからない。関係が薄い人間が、そこまでのことをするだろうか?
何より僕と緋村までもが作中に出て来るのだ。少なくとも教授や僕らのことを知る人物でなければ書くことができないはずである。
「そうですか……。──ちなみに、この警部に相当する人物に心当たりは?」
教授は少しだけ考え込む。
「……いや、いないねぇ。強いて言えば当時の担任なのかなぁ。でも名前が出て来ないし、やっぱり違うか。──あ、でも、そう言えば一くんが警察官だったな。昔からの夢らしくて、よく刑事になりたいって話していたよ。まあ、実際は交番勤めだったけど」
「他の人のことも、何か思い出しませんか?」
「そうだねぇ……確か、煙井くんには一人弟がいたかな。名前は忘れちゃったけど、『そうちゃん』って呼ばれていたっけ。病気がちで学校にもあまり来られていなかったから、一、二回くらいしか遊んだことはないけどね」
「沢長さんや田代さんに関しては?」
「沢長くんは、お父さんを早くに亡くしていてね。お母さんが夜遅くまで働いていて、晩御飯はいつもお祖母さんと一緒に食べているって言っていた気がするよ。優しいお祖母さんでね、私らが遊びに行くとよくお菓子を出してくれたねぇ。あと、なんだかよくわからない柑橘系の味のジュースも。とても美味しかったんだけど……はて、結局何だったんだろうなぁ、あれは」
話しているうちに、あまり関係のなさそうな記憶まで蘇ってしまったようだ。
「田代さんは転校生でね。確か、お母さんが亡くなったのを機に、お父さんの地元である私たちの町に越して来たんだったかな。だから、私たち田舎者からしたら、都会から来たお嬢さんって感じに見えて──いや、実際都会にいたのかどうかは知らないんだけど──、みんなが憧れたのも無理からぬことだったんだろうねぇ……。
彼女が亡くなった時はみんな悲しんでたねぇ。私らなんか、事故だったことを認めたくなくて、犯人探しをしかけたくらいだよ。──まあ、すぐにやめちゃったけど」
「やはり事故であることは明らかだったんですね?」
「ん、まあ、それもあるんだけどね……」
そこでわずかに声のトーンが落ちた。何か後ろ目たいことでもあるのだろうか?
年老いた依頼人は、やがて過去を映す瞳のまま、こう続けた。
「少し調べてみたら、すぐにわかったんだよ。事故当時校舎に残っていた生徒は、田代さんを抜かせば、私たち四人だけだったってことがね。つまり、もしあれが事件で犯人がいるとすれば、自分たちの中の誰かってわけ。──それがわかった途端、みんな犯人探しをやめてしまったよ。田代さんの話も、それ以来あまりしなくなったね。今思うと、ちょっとショックだよねぇ。自分たちの友情とか田代さんへの弔いの気持ちは、その程度のモノだったんだなぁって……」
そう述懐する教授の様子を、緋村は酷く無機的な視線で眺めていた。まるでマジックミラー越しに被疑者を観察する刑事のようだ。
もう少し心動かされてもよさそうなものだが……相変わらずどう言う神経をしているのかわからない。
ともあれ、それは彼なりにどんな些細な情報も見逃すまいと集中している証拠なのだと、最近になってわかって来た。今年の夏に陰惨な殺人事件に巻き込まれた時も、こんな様子は何度も見受けられた。
おそらく、緋村もこの事件──と呼ぶには大袈裟だが、ここは敢えて事件と言うことにする──に、少なからず興味を感じているのだろう。




