①
《喫茶&バー えんとつそうじ》の常連客は、僕の知る限り二人いた。一人はいつもカウンター席の隅に座り新聞を読んでいる中年客。そしてもう一人は、僕と同じく阪南芸術大学に通う二回生の男──緋村奈生だ。
その日も、やけに日当たりの悪い店内には、彼らの姿があった。そこまではいつもどおりなのだが、僕はすぐにある異物を発見し、入店した途端に足を止める。
珍妙な格好をした客が一人、一番奥の四人がけの席──奇しくも、普段僕がよく座っている場所──に、こちらに背を向けて座っているのだ。
驚いて立ち尽くす僕に、カウンターの向こうでカップを拭いていた店主が穏やかに「いらっしゃいませ」を寄越す。紳士然とした初老の店主で、バータイムでも通用しそうな蝶ネクタイが似合いすぎていた。
店名からも察せられるとおり、彼はウィリアム・ブレイクのマニアであり、店の壁には幾つも銅版画や挿絵のレプリカが飾られている。
反射的にそちらに会釈した──ところで、問題の席の向かい側に腰かけていた緋村がこちらに気付き、軽く手を挙げた。
「よお」と声をかけて来た彼は、いつもながら死んだ目をぶら下げていた。今日も暗がりに溶け込むかのような黒い服を着ており、生っチロい肌ばかりが浮かび上がって見える。
彼は貴重な常連客であるだけでなく、この喫茶店の二階に下宿してもいた。つまり、店主と彼の関係は大家と店子でもあるわけだ。それもあってか、彼は一番奥の四人掛けを陣取り、煙草を吹かすか本を読むか──あるいはその両方をしていることが多かった。
すると、その向かいに座っていた問題の人物も、体を傾けこちらを振り向く。
枯葉のような色のジャケットを着た初老の男性で、カールした白い蓬髪や鼻の下に蓄えた髭が、どことなくアインシュタインに似ていた。──それはいいのだが。
僕を驚かせたのは彼の頭に装着されたある物だった。
どう言うわけか、彼は麺の湯切りに使うようなザルを被っているのだ。
いったい何故? そんな小さな子供みたいな悪戯をして喜ぶような大人が、いるとは思えない──いてほしくない。
全く意味がわからぬまま、緋村に手招かれた僕は、彼の隣りの席へと向かう。
テーブルの上には灰皿と二つのカップの他、空いた皿が、これも二人分置かれていた。
「この人が若庭くん? 君のサイドキックなんだって?」
僕が席に着くなり、彼は緋村に尋ねる。好奇心旺盛な子供のような目をしていて、小柄ながら、エネルギッシュな印象を受けた。
この問いに対し、咥え煙草に火を点けた緋村は、心底嫌そうに顔をしかめる。
「そんな大層なモンじゃありませんよ。ただお互い、他にかまってくれる人間がいないからつるんでるだけです」
「そうなの? 二人はいいコンビだと噂に聞いたんだけどねぇ」
「ロクでもない噂ですね。間に受けないでください」
相変わらずの口の悪さだ。正直なところサイドキックとやらの意味はわからないが──おそらくサッカーとは無関係のはずだ──、なんとなく馬鹿にされているようで引っかかる。まあ、「お互い他にかまってくれる者がいないからつるんでいる」と言う点に関しては、否定はしないが。
そんな風に考えていると、緋村は紫煙を吐き出しながら、ようやく彼を紹介してくれた。
「こちらは古賀教授だ。俺のゼミの担当をしておられる」
と言うことは、芸術企画学科の教授なのか。元から何をしているのかよくわからない学科だと思っていたが、彼が被っている物を見て余計にわからなくなった。
ちなみに、僕こと若庭葉は文芸学科に所属している。
「気になるかな?」
古賀教授は悪戯っぽい笑みを浮かべ、自らの頭に被ったザルを指差す。当然だ──と思いながら、僕は頷き返した。
「これはね、私の宗教の正装なんだよ。空飛ぶスパゲッティモンスター教って言うんだけど、知ってる?」
聞いたこともない。と言うか、スパゲッティモンスターの時点で謎の存在なのに、さらに空まで飛ぶのか。
「ボビー・ヘンダーソンって言う人が始めたんだけどね、ユーモアと皮肉に富んでいてとてもオモシロイんだよねぇ。元々はID──インテリジェント・デザインを教育に組み込むことへの批判として誕生したんだ。我々にとってのその知性ある造物主が、スパゲッティモンスターと言うわけだよ。まあ、どうやら彼は、酔った勢いに任せて宇宙を拵えたみたいなんだけどね」
何を言っているのかイマイチよくわからないが、緋村が口を挟まない辺り、どうも本当にそう言う宗教──と言えるのか? ──が存在するらしい。
「ちなみに祈りを捧げる時はこうだ。ラーメン」
アーメンとかけているのか?
反応に困り生返事をしてしまったが、教授は全く気にしていない様子だった。
愉快そうに笑い皺を深めながら、ザルを脱ぎ──結局脱ぐのか──、隣りの椅子に置く。
「君も食べる? ナポリタン。私も今日初めて食べたんだけど、結構イケるね。何もかもがシンプルで全く捻りがないけど、そこがむしろ好ましい」
「はあ。──いや、せっかくですけど」
「遠慮することはない。学生は食える時に食っておくべきだよ。それに、よかったら君にも知恵を貸してもらいたいんだよねぇ。緋村くんの相棒として」
「と言うと、こいつに何か相談されていたんですか?」
「そう。ある殺人事件について、彼の意見が聴きたいんだ」
急に物騒な話になって、少々面食らう。
「と言っても、起こっていないはずの事件なんだけどねぇ」
何やら意味深長な言い回しである。にわかに興味が湧いて来た。
「気になるでしょ? なら、やっぱり君にも聴いてもらおう。元々、若庭くんも無関係ってわけじゃないし」
「どう言う意味ですか?」
「うん、その質問に答える前に、注文だけ済ませちゃおう」
結局ナポリタンをご馳走になることになってしまう。申し訳なく思いつつも、赤貧の身としてはただ飯にあり付けるのは素直にありがたかった。夕食にはまだだいぶ早かったが、腹具合的にも問題はなさそうだ。
店主を呼び、空き皿と引き換えにするように注文を終えると、教授はさっそく話を聴かせてくれた。
「まずはこれを読んでもらうのが早いだろうねぇ。緋村くんにもまだ見せていなかったから、一緒にサクッと読んじゃいなさい。心配せずとも、すごく短い話だからすぐに済むよ」
彼は携えていた古い皮の鞄を漁り、封筒に入った原稿用紙の束を取り出した。右端がホッチキス綴じられており、黄ばんだ表紙の中央には、「田代・古賀、VK教団殺人事件」と言うタイトルらしき物が、達者な字で記されていた。「古賀」は教授のことなのだろうが、だとしたら「田代」も人名なのかも知れない。
「私の死んだ友人が書いたみたいなんだけどねぇ。一応推理小説なのかな。とにかく、それを読めば、どうして私が君たちに相談を持ちかけたのかも、すぐにわかるよ……」
意味深長な言葉を聞いた後、緋村の手が表紙を捲る。
僕はすかさず横からその原稿を覗き込んだ。
そして。
ほどなくしてあることに気が付いた僕は、先ほどの教授の言葉の意味を悟り、クラクラと眩惑されるような感覚を味わう。
文中に、僕と緋村の名前があったからだ。