抜ける髪色、怒り爆発顧問フェイス
月の浮かぶ夜、誰もいなくなった学校は木の葉も揺らさなかった。
校舎の鉄部分は赤く錆びていて、壁は長年の汚れで黒く染まっていた。
数時間前に嵐が通り過ぎていて、グラウンドはぬかるみ、濡れた木の葉が校舎の壁に張り付いていたが、風はとても静かで物音一つ立たない。
森に囲まれて、丘の上で静かにそびえ立つ姿は、不気味にも捉えられた。
プールも随分と年季が入っている。
青かったであろうプールサイドは風化で水色より白くなり、ベンチの屋根はビニールが剥がれて赤い骨が見えている。
プールの水面だけが鏡のように光っていて、空に浮かぶ月を映し出していた。
そのプールの側に生えている茂みが、風に吹かれた訳でもなく不自然に揺れた。
周囲の静けさがなくなって騒がしいほど揺れ始めると、そこから一人の男子生徒が転がり込んできた。
バランスを崩して派手に尻餅を付いたようで、顔を歪めながら尻を擦る。
不法侵入ではあったがこの学校の生徒のようで、半袖のシャツと黒いスラックスを着ている。
太めの眉が熱い意志を感じさせるが、短い髪と卵型の顔が爽やかだ。
その顔を苦痛に歪めていると、その男子生徒に声が掛かった。
「おい、新。誰もいないのか?」
「いないよ。先生も見張ってない」
尻餅をついた新は立ち上がりながら、背後の龍馬に返事する。
茂みから顔を出している龍馬は更に後方の二人に向けて合図を送る。
誰にも見つからないようにジェスチャーを送っていたのだが、それに対して一人が何を思ったのか大きな声で答えた。
「おっけー! 今行く!」
「おい馬鹿!」
叫んだの口を慌ててが塞いだが、静寂に包まれていた学校に声が響く。
やまびこまで聞こえてきそうなほどの反響に、四人は粟立った。
しばしの緊張感が流れたが、どうにか何事もなく済み、四人はため息をつく。
「隠れてるのにどうして大声を出すんだよ」
「ごめん、つい」
小柄で丸刈り頭の宗はハエにたかられながらにこにこと笑う。
反省していなさそうな様子を見て、まるまる太っている勝平はもう一度大きくため息をついた。
「静かに歩いて」
宗は軽快に「おっけー」と答える。
言われた通り静かに前を歩いていたが、背後で枝の折れる音がばきばきと響く。
先程の叫び声ほどではなかったが、これでは宗が静かにしても意味がない。
あまりにも騒がしいので宗は振り向いて言った。
「勝平は静かにしてないじゃん」
「しょうがねえじゃん、太ってるんだから」
四人の中で一番の体重と体積を有している勝平は、歩くだけで落ち葉が鳴り、何本も枝を折ってしまう。
勝平にとっては気を付けて歩いていたのだが、静かに歩こうとする方が無理な話だった。
「二人共遅いぞ。これじゃあ泳ぐ前に日が上っちまう。台風とテストでできなかった練習を取り戻せないぞ」
怒る龍馬に対して、二人はそれぞれ「だって宗が」「だって勝平が」と責任を擦り付け合う。
怒る気力もなくなった龍馬は自らの坊主頭をぽりぽりと掻いた。
そして前へ向き直って「新」と呼ぶ。
新は「わかってる」とだけ答えてポケットから鍵を出す。
事前に作っておいた合鍵を使って、新がフェンスの扉を開けた。
四人がプールサイドへ走っていくと、期待していた光景がそこには待っていた。
空の下に伸びる7レーンのライン。
古ぼけた字でナンバリングされた飛び込み台。
くすんだ銀色の手すり。
雨の日も風の日も吊るされている5メートルフラッグ。
昼とは違って生徒も先生もいない、自分達だけのプールがそこにあった。
新はようやく泳げることが嬉しくて走りながら制服を脱いでそのまま水着一枚になった。
「あっ、待てよ! まだ塩素入れてないから汚いぞ」
「そんなの後でいいって」
勝平の言葉も振り切って新はプールサイドを駆けていき、飛び込み台に足をかける。
足に力を込めると一気に腕を伸ばしてプールの水面に体を滑り込ませた。
泡が立ち上る水中でドルフィンキックを繰り返し、水面に浮いたところでクロールに切り替える。
右手を水から抜いて前方へ真っ直ぐ伸ばし、それから左手を抜いて真っ直ぐ伸ばす。
夏の暑さで火照っていた体が水の冷たさでクールダウンしていった。
泳いでいるうちにプールの壁がやってきて、手を付いて顔を上げた。
荒れた呼吸を整えながら揺れる水面を見つめる。
全力で泳いだことによって筋肉が少し疲労していたが、体の熱を冷やせたようで、満足げな顔で水面に浮かんだ。
「よし、俺達も続けー!」
新の泳ぎを見て龍馬達も制服を脱いで水着だけになる。
水泳の練習ができなかった鬱憤を晴らすべく、一心不乱にプールサイドへ駆けていく。
最早水泳の練習ができなかっただけの勢いではなくなっていたが、一人だけ手間取っている者がいた。
「だから塩素入れないと汚いって!」
嵐が過ぎた後のプールに入るのが気になるのか、勝平はプール消毒用の薬剤をプールサイドへ持ってきて計り始めている。
それでも龍馬と宗が止まることなく一目散にプールへ飛び込もうとしていたが、そのうちの一人である宗が濡れたプールサイドに足を滑らせて体勢を崩した。
慌てて宗が立て直そうとしたが目の前に勝平がいて、派手にぶつかる。
勝平を巻き込んだだけでは勢いが止まらず、そのまま大きな水しぶきと共にプールへと転げ落ちた。
勝平はすぐに水から赤い顔を上げた。
「どうしてくれんだよ、制服が水浸しじゃないか!」
「ごめん、悪かったって」
「いつもそうじゃないか! 宗は毎回反省しないからこうやって失敗するんだ!」
苦し紛れににこにこ笑っている宗。
びしょびしょに濡れた制服を振り乱しながら怒る勝平。
説教のために声を荒げていたが、新と龍馬はそんな二人に構わず自由に泳いでいた。
新はプールの水面で気ままにぷかぷかと浮かんでいる。
龍馬は赴くままに何周かプールを往復していた。
やがて龍馬は気が済むまで泳いだのか、水から顔を出してゴーグルを上げた。
息を整えながらふと新を見てみると、先程とは違ったあることに気が付く。
新の髪色が黒から茶に変わっている。
いつの間に髪を染めたのかと龍馬は怪訝になるが、新もまたあることに気が付いて顔を上げる。
怪訝な顔をして龍馬に尋ねる。
「龍馬、いつ茶髪に染めたの?」
「えっ、俺も茶髪なのか?」
互いを見比べる二人だったが、新や龍馬だけが茶髪になっている訳ではなかった。
宗と勝平にも同じことが起きていた。
四人の黒かった髪が茶色になっていたのだ。
「ま、まさか勝平……!」
龍馬が何かを察して声を荒げる。
勝平も気付いて辺りを見渡すと、予想した通りプール消毒薬の袋が水面にぷかぷかと浮いている。
宗が勝平にぶつかった拍子で一緒に落ちたのか、袋だけがしか残っていなかった。
「持ってきた塩素全部こぼしたの?!」
宗が勝平に怒鳴るが、勝平はすぐに反論する。
「宗がぶつかってきたからだろ!」
「薬まで落ちたかすぐにわかっただろ!」
「なんだと!」
「とにかく勝平も宗もプールから上がれ!」
このまま入っていては髪が脱色するだけでは済まない。
龍馬の声で、四人は慌てて水しぶきを上げながらプールサイドへと向かった。
薬剤の混じったプールから這い上がろうとする四人。
しかしその中で勝平は慌てすぎたのか、プールサイドに上がった途端に足を滑らせた。
よろよろと体勢を整えようとするが結局転んでしまい、剥き出しの水道管に突っ込む。
勝平の巨体による衝撃は水道管の頑丈さを凌駕し、弁を大破して水が勢いよく噴き出し始めた。
「馬鹿! 何やってんだ!」
水の勢いに転がされてきた勝平を怒鳴る龍馬。
宗が慌てて手で水を押さえようとするが全く止まる気配はない。
むしろ水は宗を流さんばかりに噴き続けている。
水を止められる見込みもなく、四人はなす術をなくしてしまった。
「最悪だ……」
やがて、龍馬が顔を押さえながら言った。
確かに、ただプールで泳ごうとしていただけにしてはこの事故は取り返しのつかないことになりすぎた。
呆然と水柱を見ているしかない四人。
水道管を直すことなどできないし、塩素でいっぱいになったプールを元に戻すことなどできない。
誰に助けを求めていいかさえわからず固っていた四人は、ただ噴き上がり続ける水柱を見続けていた。
教師に事件が知れ渡るのはすぐだった。
新たちは朝礼の後すぐに職員室へ呼び出され、水泳部顧問の前に立たされている。
書類が山積みになった机の真ん中には被害報告書。
水泳部顧問はクーラーが効いているのに、「新台入替!」と書かれたうちわを頻りに扇いでいる。
他の先生がせわしなく授業に備えている中、茶髪となった男子生徒四人は直立不動になっていた。
既に何度も怒鳴られて、口も開けないほどにすっかり意気消沈していた。
焼けた肌と禿げた頭の顧問は声を荒げた。
「お前達のおかげでうちのプールはもう使いもんにならん。近々補修する予定だったからまだよかったが、今年は水泳の部活も授業もできない。夏休みが近いから授業はまだしも、うちの水泳部は練習もままならない。夏まで市民プールを使わせるような金はないんだぞ。お前らだけじゃなくて部活全体の成績に大きく響くんだ。そこらへんお前らわかってるのか?」
顧問がうちわで一人ずつ額を叩いていく。
固まっている四人は額を掻くこともできない。
「特に八代新。この三人をそそのかしたのはお前らしいな。お前が主犯格ということだ」
この指摘に対してさすがに新は黙っておれず、仲間三人に訴える。
「た、確かに言い出したのは僕だったけど、途中からはいつもみたいに龍馬が引っ張ってたじゃないか」
「いや俺は良かれと思って新の代わりを――」
顧問の怒号が二人を止める。
「そんなことは重要じゃない。これからお前らがどう責任取るかだ!」
うちわが机をぱんぱんと叩く。
四人は再び萎縮した。
「水泳部は今年もインターハイに出場する予定だった。だがお前らがプールを壊したおかげで練習できない。責任とってどこか練習できる場所を探してこい!」
「そんな場所なんてありませんよ」と泣き言を漏らす宗。
顧問は再びうちわで宗の額を叩く。
「下手すれば退学も有り得たんだ。修理代の請求書をお前ん家のポストに叩き込んでやろうか? 水道代もバカにならんのやぞ。この罰だけで済んだだけでも喜べ」
退学という言葉を出されて四人は改めて事態の重さを思い知る。
下された罰は厳しかったが、退学や弁償を免れるためにも口をつぐむしかなかった。
それから、ようやく顧問から解放された廊下で、勝平は尋ねた。
「どうするんだよ。プール貸してくれるところなんてあるのかよ」
三人は唸るしかなかった。
唸るだけで、しばらく誰も答えず黙ったままだった。
会話もないまま四人は廊下を進んだ。
そのうち、知らない生徒が四人を見るなり「プール壊してくれてありがとよ、泳げなかったんだ」と揶揄してきた。
四人は無視して廊下を歩いた。
揶揄されたことも気にせず打開策を考えていた。
そうして、考えが煮詰まりそうになった時、不意に新が「あっ」と声を漏らした。
他三人が新に視線を向ける。
「龍馬の彼女って志摩崎高校だったよね」
龍馬が「そうだけど」と答える。
「彼女に頼んで志摩崎からプール借りられない?」
新の問いに龍馬は苦い顔をする。
明らかに嫌そうな顔をする。
それだけはやめてくれと言わんばかりの顔だったが他に手段はない。
彼女に頼りたくない気持ちは新でもわかっていたが、手段を選べない今回は龍馬を押し切ることとなった。
こうして新たち歌島高校水泳部は、龍馬の彼女のツテで志摩崎高校に話を持ち掛け、水泳部顧問にも話を通し、正式にプールを借りることとなったのだった。