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けあらしの朝  23  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 博之は年が明けると休日も部屋に籠りきりになる日が続いた。QCサークル発表会の資料作りに追われてパチンコ屋に行くこともままならないのだ。無駄な出費を避けられるというメリットもあるではないかと言う同僚の言葉もとても善意的には受け取れなかった。それでなくても普段の仕事で身体と神経がすり減って逃げ場所が欲しい。そこへ決算期の棚卸しの準備も加わって来た。同時進行しなければならないことがこれほど重なった経験は初めてだがQCサークル発表会にエントリーされた者は同じ条件下で仕事をこなしている。一人泣き言を漏らすことなど出来ない。チキショーと思いながら手を休めて外を見れば太陽の光もずいぶんと強さを増している。もちろんまだ空気は刺すように冷たいが棚卸しと発表会さえ終わってしまえば一息つけるしその先のこと、予定では6月中旬になるが再び釣具を手にして海に繰り出せる楽しみが待っている。このことはともすれば投げ出したくなる気持ちをモチベーションに変えてしまうことにとても効果的に働いた。

 そして自らの尻を叩き奮闘した甲斐があって3月中旬に行われた発表会では参加10チーム中の二位という予想以上の成果を収めることが出来た。3位までのチームには会社側から表彰状の他に金一封が進呈される。慣例的にそれで打ち上げを兼ねた慰労会をやることがほとんどだ。博之のチームでも女工さん達はその気満々で、いつやるか、店はどこがいいだろうかと言った会話が仕事の合間に飛び交っているようだ。リーダーである博之にも当然誘いはあったが自分は資料を書いただけであり実際に改善案を上役に具申して実行したのは彼女達だからと辞退するつもりでいたがそれを聞いた佐久間は博之に諭すように言った。

 「あのな、チームのリーダーはお前だろう。遠慮する必要がどこにあるんだ。それにな女工さん達も課長とかには言えない愚痴もお前だったら言いやすい。それを黙って聞いてやりゃいいんだ。ラインのリーダーてのはそんな役割も負っている。それにまだあの話、ああ、由里子さんのことだが打ち明けてないんだろう。いい機会じゃないか。去年、俺に話したように全て話してしまえ。驚かれるだろうがお前を見る目も今までとは変わってくるはずだ。実はな、かなり前からお前んとこの女工さん達からウチのリーダーはとっつきにくいってこぼされてたんだよ」

佐久間の言い分はもっともなことだった。女工さんの仕事は単調な内容が多くて、ともすれば飽きが来ることもままある。その積み重ねがミスや果てはクレームに直結する要因ともなる。チームリーダーは仕事の段取りだけでなく女工さん達をいかに乗せて気分良く仕事してもらうかという雰囲気作りにも気を配るという役目もあるのだ。今まで博之は無駄口を叩くこともほとんどなくて淡々と仕事に向き合ってきた。そうした態度は周囲に不快感を与えることもなかった代わりに確かにとっつきにくい印象が前面に出ていたことは否めなかった。それはチームとして必要な潤滑油を欠いていたとも言える。由里子の事を洗いざらい話してしまえばそれを注入出来るかも知れない。博之は素直に佐久間の進言を受け入れた。



 QCサークル発表会というありがたみのない山を越えると年度末の棚卸というもう一つのこれまた逃避したくなる山がてぐすねを引いて待っていたが、それは前職時代から当たり前のように行っていたことだから面倒だとぼやきながらも無難に終えて無事に新年度を迎えた。チーム内で女工さんの配置転換があったので歓送迎会という形で棚卸後にQCサークル発表会の打ち上げ慰労会が行われた。会場は博之が予約した市内の居酒屋だが時々一人で飲みに出掛けていたこともあり顔なじみになっていたので女性軍と一緒に現れたところを居酒屋の大将は、ドッキリを仕掛けに来たのかと笑いながら冷やかした。

 「まあ、そんなもんかな。今年度から単身で来ることはあまりないっすよ。会社の釣り愛好会にも入りましたから、あそこのメンバーもたまに訪れるでしょう。今まで平日に来ることが多かったのは鉢合わせしたくなかったからなんです」

 大将はそいつはいいこったと満面の笑みを浮かべながら小部屋へ案内した。

 


 博之は座が砕けてきたところを見計らってちょっと湿っぽい内容になるけれども自分の話を聞いてくれないかと女工さん達に切り出した。いつもとは違う雰囲気の博之に女工さん達も何事なのかと訝ったが全てを話し終えるとさすがに雰囲気が固まった。しかし同時に塞がっていた穴が開いたように思えた。そうなると女工さん達も切り換えが早い。湿っぽい話からすんなりと馬鹿話にシフトして博之は転職して以来初めて酒の席で腹の底から笑った。

 (この会社に入ってからの俺は一人垣根の向こう側で仕事をしていたような気がする。しかしそれも解消出来たかもな)

 確かに休日開けから軽口も自然と出るようになった。機械類の音も雑音にしか聞こえていなかったのが、リズムやメロディのように耳に心地よく響く。それは今まで何もかもを一人であたふしながらこなそうと対応していたのが周りの人間と意思の疎通を計れるようになったことから生じた感覚かも知れない。ふと船で釣りに行っていた頃を思い出した。

 (あの頃は船のエンジン音が音楽のように聞こえていたんだ)



 6月の始めについに待ちに待った釣り愛好会の本年度最初の釣行計画の話が飛び込んで来た。第3日曜日に施津河湾のカレイ釣りで口火を切るとのことだったが、例年1回目は施津河湾で行うのが通例らしい。というのも佐久間の伯父が施津河で民宿を切り盛りするのと並行して釣り船の船頭をしている。そうした経緯から愛好会の釣行の開幕戦は施津河からという流れが自然と出来あがっていたのだ。佐久間自身は単独でも通っているがいくら甥っ子とはいえタダで乗船することはせずに一般客同様にきちんと予約を入れてからといったけじめはつけていた。佐久間本人も船舶免許はあるのだが実家ではおいそれと船を貸してくれないんだとこぼすのを博之は先日初めて耳にした。

 (うん、以前どこかで似たような話を聞いたな。そうだよ、緒方さんも同じような境遇だった。そういやまだ釣りを再開することを連絡してなかったな。いろいろ世話になった人だ。一言話しておくべきだろうな)

博之は思い立つとすぐに緒方に電話を入れた。釣りから遠ざかってからというものほとんど連絡を取ることがなかったから話をするのは本当に久しぶりのことだ。懐かしい声が受話器越しに響いた。

「おう、笹山君か。元気にやっているか。えっなに、釣りを再開するだと。その言葉をずっと待っていたんだ。天国の由里子さんもお前が早く海に繰り出して欲しいと思っているはずだ。それにしてもだ。転職先で釣りと酒好きな人間が大勢いるとはな、宿命のようなもんだよ。お前は今の職場に導かれるべくして導かれたんだ。もし釜石に釣行という計画が持ち上がったら俺に話してくれ、スケジュールが合えばお前んとこの人達を俺が案内してやるよ。俺も施津河に行く時にはその佐久間さんという人の伯父さんの船に乗せてもらえればと思う」

それから釣り以外のこともずいぶんと話して最後には仕事談義にまで及んで電話を切ったが釣りに関して言えばいい架け橋が出来たたように思った。施津河と釜石というカレイ釣りのフィールドがこうした形で結びつくのは展開として好都合であった。

(しまった。肝心な五目釣りのことを言い忘れた。しかし俺自身まだやったことがないんだから一度経験してから話しても遅くないな)

博之は写真立ての由里子にいい方向に仕事も私生活も舵を切れそうだぞと話しかけたが笑顔の写真がいつもよりとびきり弾けて笑っているように見えた。

 



 午前3時、普段は6時頃から仕事に取り掛かる人間が、もしこの時間帯から働けと言われたら間違いなく誰もがウンザリした顔であらん限りの文句を並べ立てて出勤して来るだろう。しかしその午前3時にM食品の社員専用駐車場には数台の車が停まっている。そしてその脇にはダルい、眠いと言いながらも談笑する男達の姿があった。これから施津河湾へとカレイ釣りに向かうために集合したのだが談笑の傍ら一人一人準備に余念がない。博之も久しく忘れていた感覚を取り戻しすんなりと起きて集合時間に遅れることなく合流出来たことにほっとしていた。この日集まったのは12人、愛好会のメンバー全員である。かつては緒方と由里子と時々緒方の釣り仲間が二人ほどとこじんまりと釣行していたのが、これからは職場の人間と一緒に釣りをするという以前とは異なるシチュエーションに変わった。しかしなにぶん現時点では佐久間しか親しい人間は居ない。話の輪になかなか入れずに手持ち無沙汰にウロウロしているところに野口という男が初めてにしてはよくぞ遅れずに来たもんだなと冷やかし半分に声をかけてきた。

 「ああ、野口さん。笹山君は仙台で働いてた頃も頻繁に行ってたらしいんで早起きには慣れてるみたいですよ」

 佐久間がさりげなく言ってくれたお陰で博之は難を逃れた格好となった。野口は博之と佐久間とは違う部署の課長である。釣り愛好会では唯一人の管理職であるが、オフの遊びでも仕切るぞという態度がみえみえだ。新しい加入者の博之にいろいろと探りを入れたかったようだが佐久間に上手くかわされると踵を返して自分の車へと戻った。

 「さて車はいつも通り、俺と平野が出すということでいいかな」

 すかさず平野という若い男が返事をしたがその様子からこれはいつも同じパターンを踏襲しているんだなということが何となく分かった。

 野口も平野も8人乗りのワンボックスカーを所有している。少ない台数で移動した方がまとまって行動するのにも都合が良い。そしてアルコール好きが多いということもあって行きは景気づけに一杯やりたい。そうした理由からハンドルは握りたくない。平野はそのまま自分の車を運転するのだが野口は車だけ出して運転は他人任せにするのが常だ。その役目は平野と同期入社の田村という男が担っている。野口は田村に鍵を渡して自分は後部座席にどっかりと腰を降ろすと迷いなく缶ビールのプルタブに指をかけた。その一方で博之と佐久間は平野の車に同乗したが佐久間もまたあらかじめクーラーボックスから一本だけ取り出しておいたビールを旨そうに喉に流し込んだ。

 「俺は向こうの車に乗ることはまずないんだ。野口さんは部署も違うし移動くらいは一緒に居たくないのが本音だよ。あの人は酒が入るととてもくどくなるからな。向こうの連中はほとんど同じ部署だから仕方なしってことさ」

 M食品の管理職のほとんどはゴルフを趣味にしているが野口だけはゴルフはどうも乗り気になれない、釣りの方が断然面白いからと毛嫌いされることを承知で愛好会に籍を置いている。それでも船賃の足しにしてくれと時おり金銭をポンと出すことがあったり乗船してしまえばよけいなことは言わずに釣りに没頭してしまうので愛好会のメンバーは野口の存在をさほど邪魔だとは思っていないようだ。その姿に博之はかつての勤め先であるS製菓の人間模様を思い出した。

 (職場は変われど一緒だな。野口課長も管理職でありながら会社とはつかず離れずのスタンスなんだな。前にもそんな人間を見てきた)

 荷物も積み終え、いよいよ施津河に向けて出発する準備も整い2台のワンボックスカーは滑るように走り出した。平野も田村もなかなかのハンドル捌きだ。予定出港時刻は5時だから余裕を持って到着するだろう。道路も空いている上に信号機も点滅状態なのでさほどスピードが出ていなくても高速道路を走行しているような錯覚に陥った。こうなると睡魔に襲われるが博之は仙台時代のように運転手を気遣い眠気を吹き飛ばすことに努めた。そこへ缶ビールを飲み終えた佐久間が企みごとをほのめかすような話を振ってきた。

 「今日は釣りを終えたら俺の伯父がやってる民宿へ寄る。恒例行事みてえなもんだが酒抜きで愛好会が今年1年無事に釣行出来ますようにとの祈願を兼ねた打ち上げをやる。そこでお前にはあらためて自己紹介して貰う。まあそいつはいいとしてお前に用意してることがある。サプライズって言うのかな?とにかく期待しててくれ」

 (俺にサプライズだと。なんだそりゃ)

 博之の気持ちは既に船上にある。早く釣り糸を垂らしたい。佐久間の言葉に生返事しただけで少しだけ窓を開けてみた。すると外海の匂いが鼻をくすぐった。

 (由里子、やっとお前と俺の釣り道具を使える日が来たぞ)

 博之は拳を軽く握りしめた。

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