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もろびとこぞりて  作者: 苅野しのぶ
4/4

ミュンヒハウゼンの末裔たち

04.ミュンヒハウゼンの末裔たち


 広場の中心に聳える常緑樹は、天然のクリスマス・ツリーだ。この樹に飾りつけをするのは宮田章吉の最大の楽しみのひとつで、「メンドくせー」などとのたまう輩の気が知れない。「そもそもお前は『植物係』じゃねーのかよ!」と、毎年手伝いを拒否して温室に引き籠もる、生物担当の望月修史に悪態をつくのも含めて、年中行事となっている。

「はい、みやっち」

「おう、サンキュー!」

 大樹の下から手を伸ばし、お手伝い部隊の生徒が籐の籠から取り出したのは、金のリンゴ。「知恵の実」を象徴するこれをいっぱい実らせ、リボンで飾る。

「みやっち、もっと右ー」

「もう少し上の方がよくない?」

「ちょっと春風、落っこちないでよ!」

「だいじょーぶー」

 宮田と同様、木によじ登っているのが三人、木の下から指示を出しているのが四人。鈴なりの少女たちの声が、冬枯れの景色の中、ここだけをオーナメントなどよりよっぽど華やがせていた。

「ああハラ減ったー」

「もう、春風ってばそればっかり!」

「そういえば、鳴瀬先生が終わったら家庭科室に顔を出せって言ってたぞ。手伝いのご褒美に、なんかうまいもん食わせてやるって」

「やったー! ボン・ヴィヴァン、ばんざーい!」

「バカ、手を離すな春風! ホントに落ちるぞ!」

 誰よりも高く登って、枝先に腕を伸ばした不安定な姿勢で歓声を上げる春風に、慌てた宮田が自分こそ滑り落ちそうになってアワアワする。

「ちょっと、ナニやってんだよ」

 様子を見に来た神宮寺悠人が、不恰好に枝にしがみついた宮田を見上げて眉を顰めた。

「ふざけてないで、さっさと終わらせろよな」

「ふざけてない、ふざけてない! 悠ちゃんちょっと、助けてよ!」

「えー。なんで俺がー?」

「なんでもナニも、あ、ちょ、もうムリ!」

 宮田は枝にぶらーんとぶら下がるようにしながら、ドスンと落下した。大人の背丈ほどの高さだから大したダメージではないはずだが、「イテテテテ」と大袈裟に騒ぐ。

「はいはい、ペース上げて、早く終わらす! 鳴瀬先生が、あと三十分で来いってさ。あの人食いしん坊だから、一番おいしい状態で食べないと、機嫌悪くなるよ」

「それはいかん!」

 神宮寺に助け起こされた宮田は、再び踏み台を使って枝に登ると、リンゴとリンゴの間にリボンをかけていくように、樹上の生徒たちに指示を飛ばした。自身も樹下の生徒から手渡されるリンゴを、テキパキと枝に括りつけていく。

「ねぇねぇ、みやっち。鳴瀬先生って、ほんとに怒ると怖いの?」

「そりゃぁ怖いでしょー」

「怒ったところ、見たことある?」

「そう言われると……アレだけど」

 枝の間から神宮寺と顔を見合わせ、「ねえ」「なあ」と首を傾げる。

「先生たちも、見たことないんだ」

「『見た』か『見てない』かって二択だと、『見た』とは言いがたいというか……」

「でも、機嫌が悪そうとか、ちょっとムッとしてるなとか、そういうのはあるよね」

 興味津々の少女たちの問いかけに、二人は自分たちの記憶を遡り、鳴瀬脩の穏やかな笑みと、その奥に潜む底知れなさに思いを馳せた。

「みやっちは鳴瀬先生のこと、ずーっと前から知ってるんでしょ?」

「俺が初等部一年のときに、六年だったからな。お世話係っての? よく面倒見てもらったんだ」

「宮田先生」

 神宮寺の声が固くなり、警告の色を帯びる。「雄島」でのかつての彼らの暮らしぶりを、「雌島」の女生徒たちに安易に漏らすべきではない。

 「雄島」の男子校に通っていた自分たちも、「雌島」の女子校ではどのような学園生活が繰り広げられているものか、一方ならぬ関心を寄せていた。だから、彼女たちがあちらの様子をあれこれと聞きたがる気持ちもよくわかる。しかしだからといって、むやみに好奇心を刺激して、おかしな行動に走らせるわけにはいかない。少女たちのバイタリティときたら、同じ年頃の少年たちに勝るとも劣らぬものがあることは、この数年の教員生活でイヤというほど学習させられた。「雄島」で抱いていた異性への夢と希望も、少々色褪せたほどだ。

 宮田は「わかってるって」というように小さく頷き、ニカッと笑った。だがしかし、本当にわかっているのかは甚だ疑問で、その後も投げ掛けられる質問に嬉々として答えている。

「鳴瀬先生と西村先生は、同い年なんだよね?」

「そうそう。俺が初等部の五年のときに、西村先生が高等部に来たのよ。悠ちゃんはまだちっちゃかったから、覚えてないでしょ」

「ナニその偉そうな感じ。三個しか違わないクセに」

 ぷんとムクれる神宮寺に、人の好いカラッとした笑顔が向けられる。

「初等部の三個はおっきいよー? 五年だったらもういっぱしだけど、二年なんて、まだ赤ちゃんじゃん」

「なんだよそれ。てか、その理屈でいったら、あの二人から見たら宮田先生なんてぜんぜんお子ちゃまだって話だろ」

「そう、それよ、それ。だからかわいがってくれたんだろうし、とにかくオトナで、カッコよかったんだよなー」

「高等部の一年なんて、ぜんっぜんコドモなのにね」

 お手伝い部隊はみな高等部三年だから、口々に「ねー」と言っては頷き合う。

「そーなんだけどさー」

 同意し、頷き返しつつも、少し遠い目をした宮田は、「でも」とつづけた。

「高等部に入った頃、三年生のお姉さま方はすっごくオトナに見えただろ? 自分が三年になってみると、ぜんぜんそうでもなかったわけだけど」

 たった二つ年上なだけで、何もかもをわきまえて、すべてを支配しているように感じられた。手の届かない高みに君臨する、絶対的な存在。

 今から思えば、あのとき見ていたものは幻にすぎない。所詮は未成年のおこちゃまの集団、オトナに管理されているという点ではここの誰もが同類だ。

 それでも、こうして魔法がとけた後でさえも、あの少年の日に築かれた関係性は揺るがない。

「カッコよかったんだよなぁ、とにかく」

 聳える大樹の枝に跨り、宮田は夕闇迫る空を仰いだ。

 宮田は、少しでも早くオトナになりたくて仕方のないコドモだった。自分自身どうしようもなくコドモだったくせに、同級生はもちろん上級生も、とにかく周囲にいる連中が幼く見えて、耐えられなかった。

 だから、ことあるごとに高等部に潜り込んだ。大学は初等部の敷地からは遠すぎたし、さすがにちょっとコワかったが、高等部の生徒たちは制服の着こなしひとつとってもあか抜けていて、宮田のイメージする「オトナ」そのものだった。

「ちょうど球技大会やっててさー。バスケのコートの、そこだけライトが当たってるみたいだったのよ。ゴール下にノールックで走り込む西村先生の手許に、鳴瀬先生からのパスが計ったみたいに通ってね。二人がかりのガードを軽くかわして、あっさりシュートを決めるわけ」

 いとも簡単そうに、呆気ないくらい軽々と。特に喜ぶ素振りも見せず、駆け寄った鳴瀬と手だけ合わせて、また次のプレーに集中する。ゴールコースがみつからなければやはりノールックでパスをまわし、敵との間にカラダを入れて、鳴瀬のためにスペースを作る。そうして放たれるのは、正確無比な三点シュート。

「どっちも絶対にパスがくる、取ってくれるって信じてて、動きに迷いがないんだよね。だからすんごいきれいで、なんか、ダンスでも踊ってるみたいでさ。いつの間にか、体育館中の視線が釘付けよ」

 自由で、しなやかで、力強くて。苛立った相手のラフプレーをいなすのも、しかしそのまま放置はせずに、審判の目を盗んできっちり報復しておくのも、一触即発の険悪なムードを剣呑な眼差しひとつで抑え込むのも、痺れるくらいにカッコよかった。

「それは、みやっち少年が惚れ込むのもムリはないわぁ」

「私も見たかったなぁ」

 ほぉ、っと溜め息をつく少女たちに、「でしょでしょー」と返す宮田の跨る枝の根元で、神宮寺が呆れたように首を振った。

「おじさんたちの思い出話ってのは、都合よく改竄されてるんだってことをお忘れなく。そもそも、西村先生と鳴瀬先生の高校時代なんて、みんながまだ生まれる前の話でしょ」

「それはそれ、これはこれ」

「そうそう、別腹別腹!」

「それなんか違くない?」

「てゆーか、もしかして、悠ちゃんヤキモチ焼いてるの?」

「はあ? なんで俺が?!」

「話に入れないのが淋しいとか」

「みやっち盗られちゃったみたいで悔しいとか」

「ぜんっぜん意味わかんないんですけど!」

「あー。図星なんだー」

「だからどうしてそうなるんだよ?!」

「悠ちゃんかわいいー」

 まぜっかえす生意気盛りの生徒たちに、

「『かわいい』ってなんだよ。てか、『悠ちゃん』って呼ぶなって言ってんだろ! こう見えて、俺は教師なんだぞ」

と神宮寺が腰に手を当て胸を張ると、この日一番大きな「かわいいー」の声が飛んだ。

 そんなやり取りにアハアハ笑いつつも、宮田の意識の半分は、遠い昔に戻ったままだ。

 あの日、どうしてもそのまま帰る気にはなれなくて、体育館の出入り口で二人があらわれるのを待ち構えた。

 『鳴瀬くん!』

 思い切って声をかけると、鳴瀬は小さな闖入者にきょとんとした顔をしていたが、やがて、「ああ、あのときの」と笑顔になり、隣りの西村に「初等部の頃の顔見知り」だと、的確かつ簡潔に紹介してくれた。

 『久し振りだね。大きくなったなぁ。いま、何年生?』

 鳴瀬の方でも覚えてくれていたものらしく、そうつづけてくれたのが嬉しくて、宮田は先ほど見たばかりの二人のプレーを、息つく暇もないほどの勢いで褒めたたえた。やたらと「すっげー」「すっげー」を連発したのは語彙が乏しかったからであり、その自覚があるだけに必要以上に力んでしまい、身振り手振りを交えつつ、文字通りに口角泡を飛ばして喋りまくるチビ助の話を、鳴瀬は優しく笑って聞いてくれたが、西村は終始ムスッとしていた。怒ってるのかな、生意気なガキだと思われたのかな、と焦ったけれど、口許をギュッと引き結んでいるのは、どうやら照れているためらしかった。

 それに気づいた途端、宮田はそれまでよりももっと大きな笑顔になった。嬉しくて嬉しくて、ぴょんぴょん飛び跳ねたいような心境で、実際、ちょっとばかし地に足がついていなかった気がしないでもない。

 それなのに、ようやく口を開いた西村は、擦れたような低い声でただ一言、「もう帰れ」と言ったのだった。唇の端に浮かびかけていた笑みは消え失せて、宮田の存在なんかもうすっかり忘れたみたいに、どこか遠くに視線を向けて。

 もっともっと話したくって、口をパカッと開けたところだった宮田は、自分がわかりやすくしょぼんとするのを感じ取った。ぷしゅーっと空気が抜けていく音が、本当に聞こえる気さえした。

 しかし、頭のてっぺん、旋毛のあたりに空いたらしい「しょんぼり」の穴は、ぽん、と無造作に置かれた大きな手により塞がれた。

 ナニがナニやらわからなくって、上から抑え込まれたまま、それでもなんとか西村を見上げようと上目遣いになる宮田を、西村はグイっと自分の背後に押しのけた。「なんでだよ?」と問いたかったが、声を発したら涙声になってしまいそうで、助けを求めて見遣った鳴瀬も、宮田をちらりとも見ることなしに西村と並んで背中を向けた。

 せっかく「大きくなった」と言ってもらえたのに、小五と高一の差は歴然としていて、宮田の身長は二人の肩にも届かない。精一杯に背伸びして、聳え立つ壁のような二人の向こうを覗き見ると、肩と肩との隙間から、訝しげな顔をした高等部の教師がこちらを気にしている様子が見て取れた。

 高等部の敷地内に初等部の生徒が紛れ込んでいるのがみつかれば、面倒なことになる。

 すばやく状況を理解した宮田は、「またね!」と小声で囁いて、さらには「約束だよ!」の意味を込めて、二人の背中をどん、と押しやってから身を翻した。どちらも痩せてほっそりしている方なのに、小学生にどつかれたくらいではビクともしないのが頼もしくって、やっぱりどうしようもなくカッコよかった。

 その後も、宮田は足繁く高等部に通いつづけた。

 級友に囲まれた鳴瀬には声をかけられないことも間々あったが、西村はたいていひとりでいたから、するりと忍び寄ることができた。敷地外れの、打ち捨てられた穀物倉庫のような、がらんとした建物。窓際にポツリと置かれた椅子に、西村は長い足を投げ出すようにして腰掛けている。ちらりと視線を向けて、「おう」だの「よう」だの言ったきり、放っておかれるだけだったが、それでも宮田は満足だった。西村が小難しそうな本を読んでいるときは、そのすぐ横に運んできた椅子に座って持参した漫画を眺めていたし、これといって何もせずに窓の外を眺めているときは、隣りに並んでボーっとした。宮田が野球のボールを持ってきたことに気づいてキャッチボールをしてくれたこともあったし、西村がどこからか見つけ出した道具を使って、ダーツの手解きをしてもらったこともあった。

 鳴瀬がいるときには宮田は饒舌になり、西村もいつもよりよく笑った。

 宮田が中等部に上がっても、そんな日々に変わりはなかった。二人は高等部の三年だったが、系列の大学に進むのになんの問題もありはしない。

 当たり前に春は過ぎて夏となり、短い秋が終わって冬が来る。だだっ広いだけでほとんどものもない石造の建物は寒くって、こっそり焚き火をしたり、さらには鳴瀬が手品のように取り出したさつまいもで焼き芋を拵えたりして、春になったら二人はいなくなっちゃうし、そしたらもうここに来ることもないんだなぁ、なんて話をして、だけどそしたら大学に遊びに行けばいいんだ! となんの疑問もなくのたまう宮田に、鳴瀬は「そうだね」と優しく頷き、西村は呆れたように笑っていた。


 ――それなのに。


 西村の姿は、忽然と消えてしまった。

 新年度となって、前言どおりに大学の敷地内に潜り込んだ宮田は、桜舞うキャンパスにひとりでいる鳴瀬を難なくみつけた。高校の制服ではなく私服だというだけで、ほんの数日前よりも大人びて見え、そんな人と「ともだち」である自分もオトナになったような気がして鼻が高く、「西村くんは?」と何気なく問うと、「さあ」と、ひんやりとした声が返ってきた。

 改めて見上げた鳴瀬の表情は、いつもどおり穏やかで、優しげだった。それなのに、どうしようもなく傷ついていて、それに勝るとも劣らないくらい、怒っていた。

 宮田にしても、ナニがどうしてどうなったのか、鳴瀬を問い質したいのは山々だったが、訊けなかった。訊いたところで答えられないのだろうことも、だからこそ訊いてはならないのだということも、きれいに整った優しげな顔立ちの、しんと静まり返った表情が、無言で雄弁に語っていた。

 そうして、「西村雅樹」などという人間ははじめから存在しなかったかのように、時は流れた。

 大学から先の進路がどうなるのか、宮田にはよくわからない。

 さすがにみんな、島から出ていく。一生働かないで済むだけの経済的援助と引き換えに、どこか別の、しかし同じように閉ざされた島に隔離されて生涯を終える者もいれば、これまでの半生については口外せず、身元保証人に迷惑をかけないという条件で、「実社会」に紛れ込む者もいるらしい。みなそれぞれ自分がこの先どうなるのかを察していて、概ねその通りになるようだ。なんとなく、雰囲気でわかる。

 宮田には、友人たちがいつとはなく受け取っているらしい封筒の類が、届かなかった。それはつまり、どこからも誰からも連絡がなく、指示や問い合わせもないということだ。

 誰も呼び戻してくれない以上、帰るべき場所はどこにもない。

 大学を卒業した鳴瀬が、「雌島」の化学教師となったことは知っていた。驚いたが、このときもまた、「どうして?」とは聞けなかった。

 だが、今ならわかる。

 鳴瀬もやはり、ほかに行き場がなかったのだ。

 ここにいる教師や職員は、誰もがかつてこの島に捨てられた子供であり、そのまま出ていくことができずに朽ち果てる日を待っている。

 もしかしたら、とは思っていた。しかし、確かめるのは恐ろしくって、できなかった。「雄島」の教師は女性ばかりで、おばあちゃんもいれば、若い人もいた。優しい人も、怖い人も、厳しい人も、甘い人も。なかには気安く話せる人もいたけれど、「どこから来たの?」とか「どうして来たの?」だけは訊いてはいけないのだということは、初等部の生徒でさえ誰に教わらなくても弁えていた。

 みんな、知るのが怖かったのだ。

 ここから一生出られないかもしれないのだということを。現にそういう人間が存在するのだということを。

 そして、自分が「そういう人間」になってしまうかもしれないのだということを。

 だから目の前の現実から目を背けて、明るく楽しくおもしろおかしく、日々を過ごす。「先」のことなんて考えない。「今」が楽しければそれでいい。そうやって一日一日をやり過ごして、いつしか「コドモ」ではいられなくなる年齢となる。そのときどうなるかは、そのときになってみなければわからない。だったら考えたって悩んだって、仕方がない。そうだろう?

 鳴瀬の後を追うように、宮田も同じ道を辿って体育教師となった。

 五年振りに顔を合わせた鳴瀬は、高等部の体育館に突然あらわれた初等部のガキを迎えたときより、驚いてはいなかった。宮田には鳴瀬の未来はみえなかったが、鳴瀬には宮田が自分と同じルートを歩むであろうことがわかっていたのかもしれない。

 それから三年がたち、望月と神宮寺がやってきた。上ばかり見ていた宮田はよく知らなかったが、それでも噂だけには聞いていた、中等部あたりからやたらと生意気で目立つ存在だったらしい二人組。さらにその翌年、「眉目秀麗」の見本のような容姿をした、おとなしくてマジメで、そのくせどうにも風変わりな井上も加わって、若手の教師は五人に増えた。特につるむようなことはなかったが、ほかの教職員は年寄りばかりだったから、自然と言葉を交わすようにはなった。

 生徒の側だったときと、何が変わったわけでもない。平凡で、変化のない、ぬるま湯に浸かったのような毎日。これといった不満もないが、大きな喜びが生まれようもない日々。

 そうして、五年前。

 なんの前触れもなく、唐突に、あの男が帰ってきたのだ。

 誰もが羨む奇跡の大脱出を果たしたくせに、何事もなかったかのように平然として、ふらりとこの牢獄に舞い戻った。

 あの頃よりは、少しだけ角が取れて。よく笑い、やわらかな表情をするようになって。相変わらずあまり自分からは話さないし、他人を寄せ付けないようなところもあるけど、立ち居振る舞いにどことはなく余裕が感じられる、本物の「大人の男」となって、帰還した。

「みやっちー」

「おー」

 記憶の中にあるはずもない女子高生の元気な声に、宮田は現実に引き戻された。

 下から差し伸ばされた最後のリンゴを受け取って、枝に括る。出来栄えを確かめようと視線を上げると、さらに上方の枝に跨りリボンを結びつけていた春風と、目が合った。

「どした?」

 いつでも元気印の春風が、何か物言いたげなように見えて声をかけたのだが、いつもどおりの屈託のない笑顔で、「なんでもない」とぷるぷる首を振られてしまった。

 「なんでもない」ってことはないだろう。「なんでもない」というときは、大抵ナニかあるものだ。

「なんだよー。先生になんでも言ってみろよー」

 ちょっと先生風を吹かせて言ってみたら、春風はさっきよりももう少しはっきりとした笑顔になってくれた。

「俺はメッチャ頼りになる男なんだぜ? ここで頼っとかないと、あとでゼッテー後悔するぞ?」

 わざとおどけて見せたらば、「あはは」と明るく笑ってくれた。

 この子はいつも、こんな感じだ。飾り気がなくて、さっぱりしていて、中身は小さな子供のまんま、ひょろひょろ背ばかり大きくなってしまったみたいな。口下手で、ガサツなところもあるけれど、心の機微にはすごく繊細。相手が望んだとおりの反応を返してくれる。

 だから、ときどき、心配になる。

「あのなー、春風」


 ――お前、もっとわがまま言ってもいいんだぜ。


 宮田にそう言ってくれたのは、西村だった。

 いつでもみんなに気を使って、アハアハとバカみたいに笑ってみせて、その場を和ませ、道化役を演じつづける。

 この島に送られるまでの六年間に、染みついた習慣。

 この小さな島社会を生き抜くために、脱ぐことを諦めてしまった憐れな鎧。

 なんにも見ていないようで、ちゃんと気づいてくれていた。

 それがどれだけ嬉しかったか。

 なのに、なんにも言わずに消えてしまった。

 それがどれだけ悔しかったか。

 わかっているのだろうか、あの男は。

 わかっているのだろう、あの男は。

 自分がどんなに特別で、大切で、掛け替えのない存在であるか。

 何もかもわかっていて、それで――。

『中央広場で作業中の、みなさん』

 突然スピーカーから流れてきたやわらかな声は、鳴瀬のものだ。

『制限時間は、あと10分です。間に合わなかった場合は、こちらですべて処理いたしますので、悪しからず!』

「えー!」

「うそー!」

「あと10分?!」

「だから早くしろって言ったじゃん!」

「イテテテテ。いま誰か俺のアタマ蹴っただろ?!」

 空っぽになった籠をいくつも抱え、「美食倶楽部」へと咄嗟に走り出した少女たちにつづこうと、大樹に登っていた少女たちがわらわらと降りてくる。本人たちは恐れげもなく地面にぴょんと飛び降りるが、見ている方はそうはいかない。神宮寺は全員の無事を確かめてから、最後に幹を伝って降りてきた宮田の腰を、「お疲れさま」とポンと叩いた。

「まったくホントにお疲れだよ」

 そうぼやいてみせるものの、きれいに飾りつけられた大樹を見上げる宮田の顔は、満足そうだ。

「今年も無事に、終わったね」

「おかげさまで。悠ちゃんのセンスの勝利だな」

 樹の中にいると全体のバランスがわからないから、地上からの指示が欠かせない。神宮寺は地上の生徒たちの世話を焼きつつ、樹上部隊に的確なアドバイスを送ってくれていた。

「ありがとな」

「なんだよ、それ」

 思いがけない感謝の言葉に、神宮寺は虚を突かれたような顔になる。それからジワジワ赤くなったかと思うと、照れ隠しなのか、ぶっきらぼうに呟いた。

「悠ちゃん、かわいー!」

 宮田はわざとらしく感極まったかのようにそう叫ぶと、神宮寺の華奢なカラダをガシッと羽交い絞めにして、ぎゅーっと抱きつく。

「ちょ、なに、なんなんだよ! 離れろってば!」

 三つも年下で、小柄で、童顔で、憎まれ口をききつつも懐こくて、しっかり者のくせに甘えん坊でもあって、何かと宮田をかまってくれる、神宮寺。

「大好きだよ、悠ちゃん!」

「ウゼー!」

 ひとりだったら、きっと、耐えられなかった。ここでのすべてに。こうした境遇に置かれた己という存在に。そこから脱する術を見い出せない自分自身に。

 誰かがそばに、いてくれなかったら。

「みやっちも、悠ちゃんも、ジャレてないで早くおいで―」

「私たちがみんな食べちゃうよー」

「おう! いま行くいま行くー」

「だから『悠ちゃん』って呼ぶなって言ってんだろ!」

 夜の帳の落ちはじめた広場から、灯りのともる校舎の入り口へと、少女たちが制服の裾を翻して駆けていく。

「ご褒美って、ナニかなぁ」

「試作品のケーキとか?」

「残り物とか切れ端とか、有り合わせの材料で作ったケーク・サレかも」

「ああ、鳴瀬先生のケーク・サレ、おいしいよね~!」

「余り物のフルーツたっぷりのクラフティだったりして!」

「それ最高!」

「私はチョコレートが欲し~」

「チョコバナナのクレープとか、いっそのこと、チョコフォンデュいっとく?」

「いっとくー!」

「なんかもう、期待値上げすぎじゃない?」

「それを軽ーく超えてくるのが、鳴瀬先生だから!」

「確かにー!」

 賑やかに楽しげな笑い声が、人気の絶えた広場にふわりと放たれ、霧散した。

 淋しさを裡に抱えた少女たちの精一杯の虚勢は、後ろ姿までは覆い切れない。

 そうしないとやり切れないから、笑っているだけ。何よりもまず自分を騙すためにはしゃいでみせているだけなのは、宮田も彼女たちも同じこと。

 だからこそ、せめて今このひとときだけは、彼女たちが笑顔でいられますようにと祈らずにはいられない。

 祈りをささげるべき誰かや何かが存在するのかしないのか、それすらわからずにいるのだとしても。

 どうか、あともう少しだけ、この子たちが笑っていてくれますように。

 この先に待ち受ける残酷な現実から、たとえわずかな時間だけだとしても、目を背けていられますように。

「みやっちー!」

「悠ちゃーん!」

「おー!」

「『宮田先生』と『神宮寺先生』だろ! まったく、鳴瀬先生のことはちゃんと呼ぶのに」

「まあまあ、そう固いこと言わずに」

「アンタがそんなだから、アイツら調子に乗るんだよ」

「いいじゃん、いいじゃん! 甘えられるオトナも必要なんだって」

「『オトナ』、ねえ」

 ニカッと能天気な笑みを浮かべる宮田はちっとも「オトナ」に見えなくて、神宮寺は小さく肩を竦める。

 三つ年上のこの男は、たいそう陽気で、どこか物悲しい。

 どうしてなのかは、誰も知らない。もしかしたら、本人にだってわからないのかもしれない。

 初等部の頃から、ずっとそうだった。いつでもここではないどこか遠くを見つめていて、ここにはいない誰かを探していた。

 本当は、みんなちゃんと、ここにいるのに。

「宮田先生は、淋しがりやだからな」

 つまりは、典型的な「この島のコドモ」だということだ。

 どんなに幼くても、自分が「捨てられた」のだという自覚はある。七歳を迎える前に家から出され、それまで育ててくれた人たちと切り離されて、ひとりで生きていくことを余儀なくされるのだ。「親」であろうとなかろうと、本当に頼れる「オトナ」などどこにもいないのだと思い知らされるには、充分すぎる。

 そういう寄る辺のない身の上だからこそ、救いを求めずにはいられない。自分にとっての「ヒーロー」を見つけ出し、理想の「ヒーロー」に夢中になってでもいなければ、正気を保っていられない。

 そうして英雄に祭り上げられたうちのひとり、宮田が崇拝する「西村雅樹」の存在は、神宮寺たちもまったく知らずにいたわけではない。

 いやむしろ、宮田が知ったら泣いて悔しがりそうな出来事も彼らの間にあったわけだが、それは秘密のお話だ。

「西村先生も、今頃『小屋』でナニか作ってるかな?」

 中央広場から校舎へとつづく石畳の道を歩きながら、神宮寺はそこから逸れた先にある、小暗い森へと誘う小径を思い浮かべる。

「どーかなー。ボン・ヴィヴァンのお零れあてにして、暢気にコーヒーでも飲んでるかもな」

「ああ、あの人自身はそんなに食べないしね」

 鳴瀬は自分も楽しむために料理をするが、西村はいつでも誰かに食べさせるために調理している。「うまいうまい」と貪り食う五人を眺めているだけで満足というか、それが目的になっているらしい。本人は気づいていないようで、放っておくとすぐに痩せてしまう西村に、鳴瀬は試食だの毒見だの残飯整理だのと言ってなんやかやと食べ物を宛がっていた。それをまた「ズルい!」「贔屓だ!」「職権乱用だよ!」とやいのやいのと騒ぎ立て、けっきょく全員でおいしくいただくこととなる。事の発端であるはずの西村はどこか他人事のように笑っていて、いつの間にかひょっこりあらわれた望月が、さも当然のように西村の前に置かれたパンを摘まんでいたりするものだから、鳴瀬はそんなこともあろうかと予め取り分けて置いた第二陣をも提供することとなり、やはり「こっちの方がさらにウマそう!」「そういうのは西村くん専用とか、どんだけ依怙贔屓なんだよ!」と、理不尽に攻め立てられて、毎度賑やかなことになるのだった。

 宮田と神宮寺は、恐らくは同じような光景を脳裏に描き、それぞれ小さく笑みを浮かべる。

 西村は、神宮寺にとっての「ヒーロー」ではない。だがしかし、彼の帰還によって何かが変わったことは紛れもない事実だ。神宮寺もそれは認めざるをえない。

 たとえどんなにちっぽけなことであったとしても。

 悲しいくらいささやかなことにすぎないとしても。

 こんな風に、自分たちだけが知っている「隠れ家」ができて、いてもいいしいなくてもいい、緩やかで穏やかな繋がりが生まれたというだけの、掛け替えのない「奇跡」。

 それがどんなに脆く儚いものであるかはわかっている。だからこそこんなにも愛おしく、胸のうちにぽっと灯りがともるような、ほのかな温もりを感じるのだということも。


 「帰りたい」と思える場所がある。

 ただそれだけで、人は、救われるのだ。



2020/12/25


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