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もろびとこぞりて  作者: 苅野しのぶ
2/4

森の生活

02.森の生活


 鬱蒼とした木々に埋もれるようにして、その森番小屋はあった。

 もう随分と以前から使われなくなっているようで、森の入口も、そこからつづいていたはずの小径も、気ままに伸びた下草や細枝、蔓草などに覆い尽くされてしまっている。

 だから、ここに辿り着けるのは、獣道とすらいえないようなかすかな痕跡を見出せた者だけだ。

「なあ」

「うん?」

 鳴瀬は作業台の上を片付けていた手を止めて、顔を上げた。

 もうすぐ仕上がるらしいシチューのうまそうな匂いが、中央に据えられた作業台がほとんどを占める小さな建物いっぱいに広がっている。

 壁際に据えられた薪ストーブの前では、西村が鍋をかき混ぜていた。なんでも器用にこなす西村は、料理もうまい。誰に頼まれずとも、適当に見繕った食材でそれなりのものを作り上げる。

 鳴瀬と西村、ここを最初に見つけたのがどちらなのかは、どうも意見が一致しない。

 どうやら、だいたい同じようなときに、それぞれが偶然に発見したものらしかった。

 一度目は、こんなところにこんなものが、と驚き外から眺めただけ。その後やっぱり気になって、もう少し詳しく様子を見に来てみたところ、ばったり二人が鉢合わせたというわけだ。

 このままうち捨てるのはもったいない、ごくごく簡単に手入れして、ちょっとした息抜きの場にでもするか、ということになった。取り敢えず窓から蔦を払い、ガラスを拭いて、開け閉めしやすいようにドアまわりだけ草を抜く。あとは、室内の蜘蛛の巣を除き、箒で床を掃いて、作業台や腰掛けなど、数少ない家具の雑巾がけ。ためしに薪ストーブの様子を見てみたところ、これは使えそうだということになり、煤や埃を落としておいた。薪は部屋の隅に積まれていたし、森に入ればいくらでも補充できる。

 どんな人物がここで暮らしていたのかは知らないが、薪ストーブでお湯を沸かすくらいのものだったのだろう。最低限の調理器具が残されていたが、ほとんど使われた形跡はなかった。二人にしても、お茶の一杯も飲めれば充分であったし、ここを勝手に使用しているのが誰かにバレて、面倒なことになるのだけは避けたかったから、授業の合間にふらりと訪れ、見咎められないようにそっと立ち去る、そんな感じで過ごしていた。幸い、小屋の裏には井戸があり、化学教師の鳴瀬が蝋燭とアルコールランプを調達したおかげで、不便はなかった。コーヒー豆や茶葉をこっそり持ち込んだほか、薬草園からハーブも少々失敬し、なかなかに充実した環境が整ってくると、お茶請けもポケットに忍ばせてくるようになり、それが高じて簡単な調理をするようになるのにそれほど時間はかからなかった。井戸の近くには石釜があって、そこでパンやピザを焼くこともできた。書籍や衣服という名目で種々さまざまな食材を島へ運び込み、どうせ捨てるのならと冗談半分で植えてみたネギやジャガイモ、サツマイモ、カボチャなんかも収穫できて、そうとなればゴーヤやトマトも植えてみようと、裏庭は家庭菜園の様相を呈してきた。

 今では夕餐会に出席しなければならない日以外は、ほとんどここで食事をしている。

 西村はシチューの味見をすると、「よし」と小さく頷いて、背中を向けたままボソリと言った。

「柏原雫のこと、どう思う?」

「柏原雫? 高等部三年の?」

 問い返す鳴瀬に、西村は、そう、とやはり頷く。

「特には何も。素行も成績も問題なし。大人しいといえば大人しいけど、友達がいないわけでもない。編入組だから気を付けるようにはしてたけど、うまいこと馴染んでるように見える」

 良くも悪くも、これといった特徴のない、ごくごく平均的な生徒である柏原雫の姿を思い浮かべ、鳴瀬は首を傾げた。

「柏原雫に、なんかあった?」

「いや」

 西村の返答が素っ気ないのは、今にはじまったことではない。そのままつづきを待っていると、案の定、西村はゆっくりと言葉を継いだ。

「すべてにおいて、可もなく、不可もなく。成績も、性格も、目立ったところがない」

 そう。鳴瀬が持っている「柏原雫」の印象も、まさにそんな感じだ。

 西村は作業台の上のタオルを折り畳むと、それを鍋掴みのかわりにして、鍋をストーブからおろした。時間をかけて煮込んだ甲斐があって、野菜も充分にやわらかく、しっかり味が染みていそうだ。焼きたてのバゲットを入れた籐籠の隣に鍋を置き、今度は井戸水を汲んでおいたやかんをストーブに乗せる。

 そうしてまめまめしく働きながら、なんでもないことのようにさらりと言った。

「そういう擬態をする心理っていうのは、どういうものなのかと思ってな」

「え……?」

 カトラリーを用意していた鳴瀬の手が、ふっと止まった。

 こちらに背中を向けている西村に、それがわかったはずはない。なのに、どうしてだろう。

「いただろう、その昔。そういうヤツが」

 低い声でつづけた西村が、唇の端だけでニヤリと笑った。

「……」

 いつでも笑みを絶やさぬ穏和な鳴瀬が、珍しく不機嫌な顔になる。それが一層、西村の笑みを深くすることはわかっているが、こればかりはどうにもならない。


 二人の出逢いは、二十年ほど前に遡る。

 この学園の中等部から高等部へと進んだ鳴瀬は、新しく移った寮で、編入組の少年と同室になることを告げられた。鳴瀬のように初等部から入学する者と、中等部から新たに加わる者とは、だいたい半分半分。高等部からとなるとそれだけでも稀少な存在だが、その少年の登場の仕方は、一際異様なものだった。人目を忍ぶかのように真夜中に運び込まれた担架の上に、傷だらけの姿で寝かされていたのだ。

 不慮の事故で大怪我を負ったため、鎮静剤を打ってある。目覚めたときに混乱すると危険なので、身体を拘束しているが心配はない。

 担架に付き添ってきたスーツ姿の男が、突然のことにぽかんとしている鳴瀬に、事務的な口調で淡々と告げた。家族の誰かではなく、秘書か弁護士だったのだろう。その間に、看護師らしき服装をした男たちが意識のない少年をベッドに移し、その脇に柵を設置すると、左右の手首をそれぞれそこに紐で繋いだ。そうして一連の作業を済ませると、男たちは何も言わずに去っていった。

 ひとり取り残された鳴瀬は、呆然と自分のベッドに腰掛けて、名前も知らぬ少年の寝顔を眺めやった。消灯時間はとっくの昔に過ぎていたから、室内を照らすのは窓から射し込む月明かりだけで、顔立ちもよくわからない。薬が効いていたのだろう、ピクリともせずに死んだように眠る様子をしばし見守り、鳴瀬は自分も再びベッドに横たわった。

 近日中に同居人がやってくるとは聞いていたが、まさか、こんな風に引き合わされるとは思わなかった。なんだか現実のこととも思えずに、おかしな夢を見ているような気分の一方、ヘンに気が立っているというか、眠気が飛んでしまっていた。それでも、取り敢えず目だけは瞑っているうちに、いつの間にやら本当にウトウトしていたらしい。ガシャン、という金属音に飛び起きると、少年が腕を動かそうともがいていた。意識を取り戻したわけではなく、悪い夢でも見て魘されているのか、自由に動けないことに苛立っているようだった。

「……だいじょうぶ?」

 そんなはずはないのはわかっていたが、気付いたらそう声をかけていた。少年は荒い呼吸の合間に、何かを言っているようなのだが聞き取れない。向こうにも鳴瀬の言葉は届いていないのだろう。引っ張るたびにギシギシと締め付けられる手首が痛そうで、なんとかしてやりたいのだが、どうしてやることもできそうになかった。「多感な年頃の青少年の安全を考慮」して、ハサミやカッター、ナイフの類は、自室に持ち込めない規則になっている。

 鳴瀬はそっと廊下に忍び出ると、洗面所でハンドタオルを濡らして戻ってきた。春まだ浅い時期で、外は寒いくらいだが、具合が悪いのなら気持ちがいいかもしれないと、ひんやりとしたタオルを少年の額にあてがった。ほかにできることを思いつかなかったのだ。

 タオルの下で、少年がビクリとするのが感じられた。首を振って嫌がる素振りもみせたが、そのまま様子を見るうちに、おとなしくなった。

 夜が明けるまで、何度も同じことをくり返した。

 少年が魘されると、「大丈夫だよ」と声をかける。

 それが聞こえているとも思えないのに、いつしか彼の呼吸が静かになった。

 そして、長い長い夜が終わり、ようやく空が白みはじめる頃。

 頭と首に包帯を巻き付けられた、精悍な面立ちの少年が、切れ長な眸をゆっくりと大きく見開いた。鎮静剤の効果が残っているのか、ぼんやりと天井を見上げている。

「おはよう」

 声をかけた鳴瀬をジッと見つめるものの、何も言わない。

 そのとき、突然ガチャリとドアが開いて、白衣を着た医師らしき初老の男があらわれた。二人が目覚めているのを見て小さく舌打ちすると、少年のベッドに歩み寄る。

「彼は何か言ったかい?」

 背中を向けたまま尋ねられ、鳴瀬は「いいえ」と短く答えた。男は「ふん」というような声を漏らし、おもむろに柵に繋がれた少年の右腕の袖を捲り上げた。

「……っ」

 男の影になって鳴瀬からは見えなかったが、少年は抵抗しようとしているようだった。だが、まともに動けない状態ではどうにもならず、小柄な男に難なく押さえ込まれてしまう。男がポケットから注射器を取り出すのが、ちらりと見えた。

「…………くっ」

 必死に手足をバタつかせる少年の全身から、くたりと力が抜け落ちた。それを見届けると、男は何事もなかったかのように出て行った。

「充分な睡眠が、回復への近道だからね」

 正論だろう。しかし、無言で一部始終を眺めていた鳴瀬の耳には、去り際の男の言葉が、言い訳にしか聞こえなかった。

 起床時間となっても、少年は目覚めなかった。春休み中ではあるが、通常とさほど変わらぬ日課が組まれていて、生徒が寮の自室でダラダラ過ごすことは許されない。自習室や図書室へ行ったり、部活動に勤しんだり、そうした間に「医師」たちがなんらかの処置を施していたのか、少年はその日も、翌日も、昏々と眠りつづけた。たまに目を開けてもぼんやりとしているだけで、すぐにまた眠りに落ちてしまう。さすがに栄養は補給されていたのだろうが、数日のうちに窶れ果てて、本物の病人にしか見えなくなった。

 そうして、彼が連れてこられてから三日目の夜。

 鳴瀬が入浴を終えて戻ってくると、西村雅樹は目覚めていた。相変わらずベッドに横たわって目を開けているだけだったが、天井に向けられた突き刺すような鋭い眼光は、それまでのものとはまったく違った。

 こちらに視線を向けることもなく、無言を通す西村に、かける言葉はみつからなかった。気にはなるが、どう接したらいいのかわからない。

 否応となく消灯の時間となり、おやすみ、とだけ小さく言って、鳴瀬は自分のベッドに潜り込んだ。

 一睡もできないまま、時間だけが過ぎていく。

 一時間か、二時間か、暗闇の中では判然としないが、しばらく時がたった後、ギシ、とベッドが軋む音が静寂を破った。隣りに顔を向けると、西村が肘をつき、カラダを起こそうと苦心している。

 ああ、腕の拘束も解かれていたのか、と思いつつ、「どうしたの?」と尋ねたが、返事はない。手を貸した方がいいだろうかと、うまくカラダを動かせずにもがいている西村を見守るものの、あちらは鳴瀬の存在など眼中にないようだった。自分自身に集中して、どうにか上半身を起こすことに成功し、肩で息をついている。それだけでも充分つらそうなのに、苦労して両足を床におろし、柵を掴んで立ち上がろうとしたところで、そのままぐにゃりと崩れ落ちた。

「危ない!」

 飛び起きた鳴瀬がすんでのところで抱き留めるのを、西村は無意識のうちに押し退けた。そうして歯を食いしばり、ゆらりと危なっかしく立ち上がる。

 膝丈の薄っぺらいガウンのようなものを着せられていた西村は、その寒々しい格好のまま、よろよろと部屋を出ていった。裸足のままで、今にも倒れ込みそうになりながら。

 咄嗟にあとを追おうとして、しかし、鳴瀬は思いとどまった。無闇に干渉しないのがここでのルール。夜間はすべての出入り口が施錠されているし、あの様子ではたいして遠くへ行けるわけもない。ヘタに寮内をうろついていれば、巡回中の舎監にみつかり、連れ戻されるのがオチだろう。

 だが、朝になっても西村は戻ってこなかった。気になって浴室やトイレ、洗面所などを覗いてみたが、どこにもいない。そろそろ起床の時刻となる頃で、食堂では職員が朝食の準備をはじめている。

 「まさか」と「やはり」が、同時に浮かんだ。

 とにもかくにも、騒ぎになる前にみつけださねばと、鳴瀬は職員の目をかい潜り、業者の出入りする搬入口から外に出た。室内履きのままだったが、そんなことは気にしてられない。

 謎めいた編入生の噂は、すでに学内に広まっていた。鳴瀬のほかに西村の姿を見た者はいないはずだが、みな、鳴瀬よりも遙かに事情に通じていた。

 『ムリヤリ渡し船に乗せられそうになって、向こうの波止場で一暴れしたんだってさ』

 『ぜんぜん言うこと聞かないもんだから、大のオトナが五人がかりで、警棒でぶん殴って縛り上げたんだって』

 『なのに、縛られたまま船から湖に飛び込んで、大騒ぎになったらしいよ』

 ここに来たくて来る人間はいない。それでも、みんな自分の中で折り合いをつけ、夢や希望や親子の縁や、多くを捨て去り湖を渡る。どんなに幼くても、自分自身を宥め賺し、諦めと絶望とともに生きる術を学ぶのだ。悲しくても、悔しくても、やり切れなくても、「仕方がない」のだと言い聞かせて。

 それなのに、彼は最後まで抵抗した。「オトナの事情」に絡め取られることを、この期に及んでさえも拒もうとしている。

 そういう少年の向かう先は。

 人目を避けて逃げ延びるためには、どうすればいいか。

 鳴瀬は森への小径を分け入った。立ち入り禁止になっていて、まともな道はないけれど、悪戯盛りの少年たちが潜り込む隙ならいくらでもある。

 あのカラダでは、たいして進めはしないだろう。鳴瀬は慎重に、折れたばかりの枝や、真新しい足跡を辿っていった。奥へ、奥へと、ただまっすぐに。自由を求めて、未来を願って。その気持ちが手に取るように伝わってくる。

 しかし、少年の向かうその先にあるものを、鳴瀬は知っていた。

 彼を、そこに行かせたくはなかった。

「待って」

 骨ばった薄い肩を、後ろから掴んだ。振り払おうとした弾みによろめくカラダを、支えてやる。

「俺に、かまうな」

 はじめて聞いた声は低くかすれて、嗄れていた。幽鬼のように血の気のない顔をして、手も足も傷だらけで、たった今できたばかりの切り傷からは血が滲み、数日前のものとみられる打撲痕は痛々しく変色して、いつ倒れてもおかしくはない状態なのに、前方を睨みつける眼差しだけが強い光を放っている。

「この先に行っても、出口はないよ。ぷつんと森が終わって、崖になるだけ。伝って降りるような足場もないし、飛び降りて無事でいられる高さじゃない。下は岩場だし、確実に死ぬ」

 もしかすると、そんなことはとうに知っていたのかもしれない。西村は、前だけを見て静かに言った。

「それでも、こんなところで飼い殺されるよりは」

 ――死んだ方がマシだ。

 声にされなかった言葉が、はっきりと聞こえた。

「ダメだよ、そんなの」

 西村が、はじめて鳴瀬と視線を合わせた。鳴瀬の真意がどこにあるのか、それを見極めようとするかのように。

 鳴瀬もそれを受け止めて、怯むことなく言い切った。

「俺が、一生自分を許せなくなる」

 逢ったばかりの他人であっても。お互いのことをなんにも知らない、見ず知らずの相手だとしても。

 彼をこのままむざむざ死なせたら、自分は、自分を許さない。

「……」

 西村は何か言いたそうな素振りを見せたが、結局、何も言わずに目を伏せた。

 今にして思えば、随分とエゴイスティックな言い分だと思う。ようは、「俺のために生きろ」と言っているようなものではないか。

 西村がそれをどう受け止めたのかはわからない。ただ、明らかに体力の限界を超えていて、稀代の反逆者も、それ以上我の通しようがない状態になっていた。

 鳴瀬はなかば引きずるようにして、西村を連れ戻った。

 それから三年、二人は同じ部屋で寝起きをともにした。

 そして、三度目の春を迎えたある日、「じゃあな」とだけ言い残し、西村は学園から姿を消した。

 そうして、五年前。西村は、唐突にここに戻ってきた。まるであの日のつづきであるかのように、「よう」とだけ短く言って。この牢獄に囚われたまま、橋を渡り、雌島で化学教師を勤める鳴瀬の同僚として、英語教師となったのだった。

 この間、西村がどこで何をしていたのか、せっかく抜け出すことに成功したのに、どうして再び戻ってきたのか、鳴瀬は何も知らずにいる。


「そういえば」

 鳴瀬は再び動きを取り戻し、丁寧にランチョン・マットを並べていった。

「深草菫子を見ていると、誰かを思い出すと思ってたんだ」

 柏原雫の傍らにいる、怜悧な美少女。こちらも高等部からの編入組で、滅多に口を利かず、感情もあらわさない。

 あの頃の西村も、まさにあんな感じだった。喋らず、笑わず、いつでもひとりだけ別の景色を見ているような、遠い目をしていた。

 ここに来るのは、ほかに居場所のない子供ばかりだ。そういう子が、ここでも行き場をなくしてしまうということがないように、今も昔も鳴瀬は心を砕いている。

「あーゆーわかりやすくミステリアスなのは、案外大丈夫なもんさ」

 棚から皿を取り出しながら、西村がのほほんと言ってのけた。

 どこで何をしてきたのかは知らないが、戻ってきてからの西村は、肩の力が抜けて、雰囲気がやわらかくなっていた。根っこのところは、何も変わっていないのだと思う。それでもあの頃と比べれば、だいぶ生きやすくなっているようで、それは鳴瀬にとっても救いだった。

「誰かさんよりは、よっぽどオトナだしね」

 鳴瀬が混ぜっ返すと、西村はひょいと肩を竦める。

「あんなガキでも、女だからな。俺たちなんか、アイツらの掌の上で転がされてるようなもんなんだぜ、きっと」

「そうかもしれないねぇ、殊に、『まーくん』は」

「……な?!」

 西村は大きな二皮目をまん丸くして、鳴瀬を見た。

「なんなんだよ、それ! 最近、やたらとコソコソ聞こえてくるんだけど、まったく意味がわかんねーんだ。お前、なんか知ってんのか?」

「さあ?」

 鳴瀬はそらっとぼけて、含み笑いをする。

 それは、学園内で囁かれている、都市伝説のひとつ。

 英語の西村雅樹先生は、ちょっと崩れた色気のある男前で、妖艶な美熟女である理事長のお気に入りらしい。

 そんな根も葉もない噂に乗せて、「もしかして、愛人?」だの、「二人が深夜に密会してるのを、見た人がいるんだって!」だの、「理事長には、『まーくん』って呼ばれてるみたいよ!」だの、乙女たちの妄想がどんどん膨らみ、学園中で暴走していた。知らずにいるのは「まーくん」本人くらいなもので、理事長自らもおもしろがっている節がある。

「ナニナニ、なんの話?」

 勢いよくドアが開いて、宮田がニカッと笑顔であらわれた。

「相変わらずいい嗅覚だね。ちょうどできたところだよ」

 鳴瀬も笑って応じると、宮田の笑顔がピカピカになる。

 宮田は二人より五つ年下で、彼が中等部一年のときに高等部三年だった鳴瀬と西村に、絶対的な憧れを抱いていた。宮田少年の目に映る二人は、とにかく「オトナ」で、なんでもできて、メチャクチャに格好良かった。大学を卒業し、女子校の教員となって、鳴瀬とはじめて言葉を交わしたときには、本当に感動した。ドラマチックな登場とミステリアスな退場によって、伝説的な存在となっていた西村の帰還に至っては、興奮しすぎて知恵熱を出したほどだった。そんな遠い雲の上の存在だった人たちと、こうして「同僚」となり、当たり前のように会話しているだなんて、夢のようだ。

「あーハラ減ったー」

「今日のメニューはなーにー?」

「寒いから、早く中に入ってよ!」

 宮田の後ろから、小柄な三人がつづいてきた。

 望月修史と、神宮寺悠人と、井上束沙。

 宮田よりさらに若い彼らには、鳴瀬や西村の「伝説」などピンとこない。熱弁をふるう宮田に、「そんな大昔の話をされても……」と、困惑するばかりだ。

 この森番小屋をみつけたのは、ほんの偶然。それぞれ勝手に森へ潜り込み、小径を見出し、ここまで辿り着いた。雄島と雌島に挟まれた中の小島は、教職員以外、立ち入り禁止だ。つまりあそこにいるのは教職員ばかりということで、どうにも息が詰まって仕方がない。できるだけ足を踏み入れたくなくて、避難場所を探していたところ、この小屋を発見したというわけだ。

 鳴瀬も西村も、拘りなく彼らを迎え入れた。自分たちが一足先にみつけたというだけで、所有権を主張するつもりなど毛頭ない。彼ら二人にしても、不法占拠しているのにかわりはないのだ。

 そんなわけで、はじめは人ひとり分の生活必需品しか残されていなかった室内に、いつしかさまざまなモノが増殖した。

 宮田がソーラーパネルつきのランタンを持ち込んだおかげで、日が暮れてからもさらに快適に過ごせるようになった。薬草園を管理している望月はハーブを提供してくれるし、神宮寺はどんなツテを使ってか、どこからともなく果物やチーズなどを調達してくる。井上は薪を割ったり小屋の修繕を手伝ったり、貴重な労働力となっていた。

 腰掛けも、食器も、今では六人分が揃えられている。西村が用意する食事も、自然と量が増えていた。

 いつ来てもいいし、来なくてもいい。約束も、決まりごとも、なんにもない。

 誰にも気付かれないように、ひっそりと。その存在を気取られないように、こっそりと。学内で顔を合わせても、素知らぬ風に。

 それだけ守っていれば、問題ない。

「用意できたぞー」

 飄々とした西村の声に、五人が応じ、席に着く。

「ナニこれ。ロールキャベツ?」

 シチュー皿を覗き込む神宮寺に、「白菜だって」と鳴瀬が答える。

「ニンジンとジャガイモと、キノコ入り?」

「なんか、闇鍋みたいだね」

 宮田と井上のやり取りに、望月がひゃひゃっと笑う。

 ナニを言われようとも、一口食べれば黙らせられる自信のある西村は意に介さず、優雅にグラスを掲げ、一同を見渡した。

「それでは」

「いっただっきまーす!」

 宮田と神宮寺が元気に唱和し、残り三人もそれにつづく。

 宮田と望月、神宮寺は、初等部から。井上に至っては、「もっと前」から。

 ずっとここで生きてきて、学業を終えた今もなお、ここにこうして留まっている。

 それにはもちろん、理由がある。ひとりひとりに、それぞれの理由が。どんなに親しくなっても、どんなに長く付き合ったとしても、誰にも告げられない、それぞれ秘密が。

 だから、敢えて誰も聞かない、尋ねない。

 せめて今このときだけでも、平穏であってくれればそれでいい。

 彼らの関係には名付けようがないように、曖昧で、不確かで、脆く儚いものであっても。

 出口のない迷宮に囚われた子供たちに、一片の安らぎを与えられるのならば、自分がここにこうしていつづける意味はあるのだと、鳴瀬は思う。

 そして、もしかすると。

「ん?」

「……いや」

 きょとんと見返す西村から視線をはずし、パンを取る。

 尋ねたところで、意味はない。「真実」などというものは、人を惑わすためだけに存在するのだ。


 ――お前はどうして帰ってきたんだ。


 訊くだけムダな無数の問いは、今宵もまた、仮初めの団欒のうちに霧散する。




2018/01/02


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