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もろびとこぞりて  作者: 苅野しのぶ
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萎める心の花を咲かせ

01.萎める心の花を咲かせ


 それは、私がこの「楽園」と名付けられた牢獄に送り込まれたばかりの頃のことだった。

 広大な(うみ)に浮かぶ、三つ子の島。

 それぞれの島は吊り橋で繋がれているが、その前に聳え立つ錬鉄の門は常に閉ざされ、監視されている。唯一の交通手段、向こう岸に渡る船が発着する桟橋も同様だ。

 島の周囲は深い森となっており、夜になると野生動物の遠吠えが聞こえてくる。その森を抜けたところで、あるのは断崖絶壁のみ。飛び降りれば荒々しい岩に抱き留められて、柘榴のようにぐしゃりと潰れる運命が待っている。

 そんな荒涼とした島の中心に、ヨーロッパの古い街並みを模したような、瀟洒な学園町が築かれていた。

 石畳の広場、修道院を移築した校舎、薬草園風の中庭、それらを繋ぐ趣ある回廊。

 絵に描いたようにきれいで、嘘みたいに美しくて、どこか空虚な学園風景。

 地元ではもともと「雄島」と「雌島」と呼ばれていたそうだが、両端の二つの島は、それぞれ初等部から大学まである全寮制の男子校と女子校だった。二つの大きな島に挟まれた小島には、両校の教職員の宿舎がある。

 一度入ったら決して抜けられない、「学校」という名の「監獄」。

 こんなところに送られてくるのは、「理由(わけ)アリ」に決まっていた。どんなに表面を取り繕っても、明るく振る舞い「そうじゃない」振りをしてみても、一皮剥けばみな同じ。

 ここに打ち寄せられるように集うのは、家にいられない「事情」があり、親に捨てられた子供たち。

 それは教師も同様で、まだ年齢も若く、それぞれ優秀そうでもあるというのに、こんなところで飼い殺しにされて燻っている。わざわざ男子校に女性、女子校に男性の教員が配されているのも奇妙な話だ。


 この、見た目だけはきれいで楽しげで平和そのものの「楽園」に、私は突如として流された。説明も釈明も何もなく、ただそう決まったことを知らされた。自宅から通っていたエスカレーター式の私立校にそのまま進学するものだと信じて疑わなかった、中等部の卒業式を終えた、その夜のことだ。

 春まだ浅い薄ら寒さの中、私は茫然としたまま船に乗せられ、この島に来た。

 生徒のほとんどは下からの持ち上がりで、私のように高等部から編入してくるのは少数派。

 いかにも物珍しげな眼差しを向けられるのに耐えられなくて、広場を避け、細道を渡り、小路を抜けて、俯いたままどこへともなく歩きつづけるうちに、今は使われていないらしい老朽化した建物に行き着いた。穀物倉庫とか、納屋とか、厩舎とか、かつてはそんなようなものであったのだろう建物だった。がらんとした母屋の左右には、双子のようにそっくりな塔がある。ざらざらとした石の螺旋階段をひたすら登っていくと、やはりがらんとした小部屋があって、昔々の学校で使われていたような、小さな木の椅子がぽつんと置かれていた。

 私はそれに腰掛け、くり抜き窓から外を眺めた。

 初等部、中等部、高等部、大学、それぞれに分けられ独立した「国」を形成している学園全体の姿と、それらの間に巧みに設置された本屋やカフェ、雑貨屋などのささやかな店並み。さらに向こうには森が広がり、その奥で時折きらきら瞬くのは、湖だろう。

 小さな小さな世界のすべてが、一望のもとに見渡せた。

 ここで私は、望むと望まざるとにかかわらず、あとまるまる七年も暮らさなければならない。

 たかだか十五歳の小娘が、「絶望」などという言葉を弄ぶのは不遜だろう。

 そもそも私は自分の人生になんの期待も抱いていなかったし、どんな希望も持ってはいなかったはずだ。

 それが、自分でもおかしいくらいに打ちひしがれていた。ぐったりと椅子に腰掛けたまま、もう二度と立ち上がれそうにないくらい、疲弊していた。

 そんなとき。

 島の中心に聳え立つ鐘楼の鐘が卒然として鳴り響き、その鐘の音に溶け込むように、天から歌声が降ってきた。

 朗々とした、深みのある豊かな声が、茜色に染まる夕空に、どこまでも伸びやかに吸い込まれていく。

 ーーアメイジング・グレイス。

 それはまるで、天からの恩寵、そのものであるかのような。

 あんなにも美しいのに、貴いまでの麗しさだというのに、誰にも気づかれまいとするかのように、鐘の音に紛れ込まされた歌声がかすかに聞こえる。

 私は、いつしか泣いていた。声を殺して、呼吸さえも憚りながら、ただ一心に耳を澄ませて、頬を濡らした。

 夢も希望もなんにない、空っぽで無意味な人生だけど。

 この声さえあれば、生きていける。

 そう、思った。

 どこまでも高く、澄み渡る空に吸い込まれていくような、伸びやかで健やかで艶やかな歌声。

 そんな奇跡のように尊い声に、私は出逢った。

 偽善と欺瞞に満ちた、夢のように美しい牢獄で。

 はじめて聴いた瞬間から、私はあの声に囚われている。


 あれから、もうすぐ三年になる。



 終業のチャイムはとっくに鳴ったのに、校庭には人のかたまりが残ったままだ。どうしたのかな、と見守るうちに、近くを通りがかった英語の西村先生が、「みやっち」こと体育の宮田先生に呼び止められて、その輪の中に引きずり込まれた。「なんでだよ!」とか「ふざけんな!」とか、二人はしばらく言い合った後、どういうわけか、西村先生チームと宮田先生チームに分かれて、ドッジボールをやることになったらしい。

 授業が終わったばかりの宮田先生はジャージ着用中だからいいけれど、ふつうにスーツ姿の西村先生は、着ていた上着を傍にいた生徒に渡して、真っ白いシャツの袖を捲りながらラインの内側に入っていく。

 内野に三人、外野に三人、各チーム生徒は六人ずつ。

 西村先生も宮田先生も背が高いから、二人だけ頭ひとつ飛び出て格好の的みたいになってるけど、どんなボールも難なくキャッチして、女の子相手だからそこは上手に手加減しつつ、ひとりずつ確実に仕留めていった。あっという間に、コートの中に残っているのは先生たちだけになる。

 先生同士の力関係は、互角だと思う。けど、西村先生チームには強力な助っ人がいた。全校一の運動神経を誇る、高野春風だ。

 春風と西村先生は宮田先生を挟んでパスをまわし、コート内を右往左往させる。防戦一方になった宮田先生が足を滑らせかけたのを見て取ると、春風から素早いパスが西村先生に渡り、間髪入れずにそれまで以上に気合いの入ったボールが長くしなやかな腕から放たれた。

「うをっ!」

 ちょうど鳩尾あたりで一度は受け止められたボールが、宮田先生の腕を弾いて顎を直撃、先生はそのままマンガみたいに尻餅をついて倒れ込んだ。

「よっしゃー!」

 西村先生は高らかに勝利の雄叫びをあげると、春風を筆頭に駆け集まった生徒たちとハイ・タッチ。きゃっきゃとはしゃぐ少女たちに囲まれて、いかにも得意げに腰に手を当て胸を張る。頭が小さくて腰が細くて足が長くて、まるでお人形さんみたいだ。

「ムダに美声を響かせて、ナニやってんだ、あの人は」

「……菫子!」

 いつのまにか、すぐ隣に友人の深草菫子が立っていた。

「な、なななななに! どーしたの!」

「『どーした』もナニも。黒板消し持ってバルコニーに行ったまま、いつまでたっても戻ってこないから、様子を見に来た」

「あ……」

「そんなに汚れてたっけ? 黒板消し」

「う……」

「充分きれいになったみたいだな。もうそろそろ、いいだろう」

「……う…ん」

 私はいつのまにか握り締めていた黒板消しに視線を落とし、曖昧に頷いた。

 菫子の言葉に、他意はない、と思う。思わせ振りなことを言うような子じゃないし、他人の心に土足で踏み入るような真似は絶対にしないし、決してさせない。

 だから「友人」でいられるのだ、私たちは。

 菫子はそれ以上は何も言わず、私と並んでバルコニーの手摺りに肘を乗せると、校庭を見下ろした。

「もうナニよ。なんなのよアンタたち! これってイジメじゃない?!」

 なぜか横座りになってキーキー喚く宮田先生に、西村先生は右手を差し出し、仲直りの握手をするみたいにして立ち上がらせた。お尻についた土埃も、ぽんぽん叩いて払ってあげる。笑って何か話しているらしい、西村先生の声は三階のここまでは届かなかった。ただ、なんだか楽しそうなのだけは伝わってくる。私たち生徒にはアニキ風を吹かせたがる宮田先生だけど、年上の西村先生や鳴瀬先生といっしょだと、急に弟分みたいな顔になるのがおかしかった。オトナで無口で飄々として、ちょっと近寄りがたいところのある西村先生も、宮田先生たちといるときは、少し子供っぽくて、表情がやわらかい。

「明日の一時間目は、西村さんのリーダーか」

 菫子はまっすぐ前を向いたまま、ボソリと言った。

「……なに、急に」

「いや。黒板消しがきれいになってたら、嬉しいもんなのかな、教師ってのは。と、思っただけ」

「…………」

「なんで怒るんだよ」

「怒ってないよ」

「リーダー好きだろ? 雫は。だからさ、そういう敬意みたいなもの? をこういう形であらわしているんだとしたら、美しいなと思ったんだ」

 陶器のように白い肌に、重たげな長い睫毛に縁取られた涼やかな眸。流れるがごとき黒髪が背を覆う、すらりとした長身の美少女の艶やかな唇が紡ぐ「美しい」という言葉以上に、美しいものなどこの世にあろうか。

 そう。深草菫子は、美しい。

 私と同じく高等部からの編入組だが、同級生からの「オトモダチ」志願が列をなしたのはもちろん、あっというまに上級生からお茶に招かれ、どういうわけか中等部からもファンレターが届くようになったという、超弩級の「スター」なのだ。

 一方の私はといえば、容姿といい性格といい成績といい、「平凡」を絵に描いたような地味な存在で、入寮から入学式までのわずか数日で、見事に群衆に埋没した。それは私の願うところでもあったから、不満はない。

 ただ、どういうわけか、クラスメイトとなった菫子と、「親友」と呼ばれるような間柄となっていた。周囲の評価がどうあろうとも、菫子自身は徹底して非社交的な人間で、媚びへつらわれるのが大嫌い、どんな招待もけんもほろろにお断りするうちに、お近づきになりたいなどと願うのもおこがましいという、「高嶺の花」の地位が確立された。私にしても常にべったりくっついているわけではなく、唯一菫子の方から話しかける級友で、それを鼻にかける様子もないということから、彼女にお熱をあげている面々から見逃していただいている次第だ。

 私だって、菫子の美貌も、才気も、人柄も、誰に劣ることなく愛している。が、だからといって彼女におもねる気はないし、自分を曲げてまで付き合おうとは思わない。

 それでいいのだ、私たちは。

「『クリスマス・キャロル』か」

 菫子の、この年頃にしては低い、それゆえに妖艶さを滲ませる声が、ぽつりと零れる。

 十二月に入って、西村先生は教材にディケンズを選んだ。

 正直、『クリスマス・キャロル』はキライじゃないけど好きでもない。

 でも、西村先生の声で語られるとなると、話は別だ。地の文章は、聞き取りやすく、ゆったりと。会話になると、登場人物に合わせて生き生きと。男性、女性、老人、子供、紳士に悪党、自由自在で、情景が目に浮かぶようなのだ。

 先生の声に集中できるように、私はいつも、目を閉じる。そうして物語に浸りきり、先生に重ね合わせるようにして辿っていく。先生のリズムに合わせて、抑揚も、間も、そっくりに。寮の自習室で何度も何度もくり返し練習していたから、すっかり暗記してしまっている。

 ちょうどその章の区切りとなり、満足感とともに目を開けると、私の机の傍らに、西村先生が立っていた。ついっと切れ上がった大きな眸が見開かれ、驚きと、おもしろがるような色を浮かべている。

 私は、自分が本当に声を出していたことに、はじめて気づいた。教室中が静まり返り、先生と私を見つめている。

「excellent」

 さっきまでのロンドンの下町訛はきれいに消えて、完璧なクイーンズ・イングリッシュで、一言。

 それは、囁きのようにかすかで静かな声だったというのに、教室の空気がふわっと浮き立った。

 終業のチャイムが鳴り、先生が教室をあとにしても、私は動くことができなかった。心臓がとくとくとくとく鳴っていて、少しでも動いたら転がり落ちてしまいそうだった。

 私に向けられた言葉。私だけに捧げられた賞賛。三年目にしてはじめて得た、最大級の讃辞。


 ーーexcellent.


「おーい!」

 校庭からの呼び掛けに意識を戻すと、春風がこっちに向かってぶんぶん両手を振っていた。気づいたことを知らせるために片手をあげると、さらに大きく腕を振りまわしてくる。

 そのちょっと先を歩いていた西村先生が、ちらりと春風を振り返り、その視線の先を辿って、こちらを見上げた。

 ここからでは、表情までは読み取れない。けど、少し、笑ったような気がする。

 指先だけをひらひらさせていた菫子が、ふっと、唇の端に笑みを浮かべた。同い年のはずなのに、ずっとずっと大人びて、「成熟」した微笑み。

 そうして、遠ざかっていく先生の背中を見下ろしたまま、低く言った。

「雫のそういう細やかさに、気づける人だと思うよ、西村さんは」

「……そんなんじゃ、ないってば」

 黒板消しがきれいになっていることには、気づいてくれるかもしれない。でも、それを誰がやったのかは、先生にわかるはずがない。

 それでいい。それでいいのだ。


 バルコニーから教室に戻ると、掃除当番の面々の姿はすでになかったが、一番後ろの廊下側の席に、春風のルームメイトの大原志紀が座っていた。隣のクラスの田村実桜と小松七海が、志紀の机の上に広げられたノートを覗き込んでいる。ちなみに、実桜は私の、七海は菫子のルームメイトだ。寮で同室の者とはクラスが分かれる決まりなのだが、そうはいっても各学年三クラスしかない小所帯なので、意味があるのかないのか定かではない。

「何してるの?」

「見て、似てると思わない?」

 実桜のかわいらしい指が示した先には、つんと澄ました黒猫のイラスト。優美な肢体と、芸術的な弧を描く尻尾のフォルム。ちらりと向けられた視線が謎めいている。その下には白くてふさふさした洋犬と、オウムみたいな鳥が描かれていた。

「これって……」

「ほんと上手よね、志紀ちゃんて。特徴とらえてる」

「確かに」

 実桜のとなりで、七海が感服しきりといった様子で頷いた。いかにも「女の子」らしい実桜と、一見して「優等生」タイプの七海は、普段は別のグループに属しているのに、性格的には合わないわけではないらしく、放課後になるとこうして連れ立ってあらわれたりする。

「この黒猫は、西村さんか」

「あるいは、黒豹の仔」

 私の後ろから覗き込んだ菫子に、志紀が真顔でぼそりと応じた。大きな黒縁メガネの奥の眼差しは、深くて鋭い。絵の中の黒猫が、豹としての本性をあらわす瞬間を見定めようとしているかのようだ。

 ごく平凡な英語教師という仮面の下の、凶暴な野性。知りたいような、知りたくないような、西村先生の本当の姿。

 志紀が暴き出そうとしているものから目を逸らし、私はその下のイラストを示す。

「ということは、こっちの白犬が鳴瀬先生?」

 色白で優しげでふんわりした印象の鳴瀬脩先生は、生まれ変わったとしてもこんな風に上品なんだろうな、と思いながら尋ねると、志紀はやっぱり真面目に付け加えた。

「もしくは、ホワイトライオンの仔かも知れない」

「え。だって、ライオンってネコ科でしょ?」

「ああでも、鳴瀬先生ならあり得るかも!」

 実桜の言葉に、みんなが「ああ」と納得したのが伝わった。

 いつでも笑顔で、誰にでも優しくて、常に親切で丁寧で紳士な鳴瀬先生は、その実、ちょっと底知れないところがある。優しいけれど、甘くはない。むしろ、礼儀や信義というようなものには、誰よりも厳しくすらある。普段優しい人ほど怒らせると怖いというけれど、まさにそんな印象があった。実際に怒ったところを見た人は、ひとりもいないにもかかわらず。

「イヌでもネコでも、変幻自在?」

「鳴瀬先生なら、それくらい、さらっと笑顔でやってのけそう」

化学(ばけがく)なだけに?」

「なるほどー」

 と、感心しあったところで、みんなの視線が鳥に移る。

「で、これは?」

「ワライカワセミ」

 志紀がそう答えた途端、四人の声が重なった。

「みやっち!」

 元気で陽気でおもしろおかしい宮田章吉先生は、いつもアハアハ笑っている。怒ったり拗ねたり癇癪起したりもするんだけど、最後には笑顔で授業を終える。

「うんうん、似てる似てる!」

「もうみやっちにしか見えない!」

 実桜と七海がお腹を抱えて笑い出し、菫子までニヤリと口許を歪めている。

 でも、私はどういうわけか、笑えなくなってしまった。

「ワライカワセミって、どんな声で鳴くんだろう」

 人間の耳には笑っているように聞こえるだけで、本当に笑っているわけではないのだと思う。

 宮田先生だって、きっと。

 本当は、笑いたくないときだってあるんだと思う。でも、いつだってガンバって笑ってくれているんじゃないか。

 志紀の絵を眺めるうちに、それまで考えたこともなかった疑問が、ふっと浮かんだ。

「いたいた! お待たせー」

 これもまた太陽の申し子みたいな春風が、賑やかに顔を覗かせた。ドア枠に頭がぶつかりそうに背が高く、ショートカットがよく似合って、こうしてジャージを着ていると、まるっきり男の子みたいだ。「春風」と書いて「はるか」と読ませるのだということだが、教師も生徒も親しみを込めて「はるかぜ」と呼ぶ。

「ちょっと、ちゃんと着替えてきなさいよ」

 体育の授業を終えたままの格好であらわれた春風に、七海が眉を顰める。

「いいじゃん、どうせ寮に戻るだけなんだからさ」

「よくない! っていうか、どっちにしろ夕餐会には正装しなきゃならないんじゃない」

「そーだけどさー」

 シックでクラシカルで仕立てのいい制服を、いつでもきちんと折り目正しく着こなしている七海。規則は守りつつ、胸元のリボンやシャツの襟の開き具合を最大限にかわいらしく見せている実桜。無頓着なのに、それすらが魅力的に見える菫子。どこかしら歪んだり曲がったりはみ出したり、ズボラを絵に描いたような春風。取り敢えず何かしら身に着けていればそれでいいといった風な、どこか浮世離れした志紀。可もなく不可もないとしか言いようのない、「無難」そのもののこの私。

 赤みを帯びた焦げ茶のジャケットに、同系淡色で合わせたタータン・チェックのプリーツスカート。まったく同じ服装をしていても、自ずと個性は滲み出る。

「ハリネズミと、クマと……これ、ナニ?」 

 春風は志紀のノートを覗き込んで、首を傾げた。

「フェネック」

 志紀は大きな耳をしたキツネのような生き物を、愛おしそうに見つめて言った。

「つまりそれって、悠ちゃん、よね?」

 神宮寺悠人先生。小柄で華奢で、くるんとした瞳が愛くるしい、「永遠の少年」の異名を持つ数学教師。実桜の属するグループには彼のファンが多く、「悠ちゃん」と呼んでヒマさえあれば纏わりつている。

「そういえば、『星の王子さま』のおともだちのキツネって、フェネックなのよね」

「ああ。王子さまに、『大切なものは目に見えないんだよ』って教えてあげる?」

 問い掛ける七海に、実桜が頷く。

「悠ちゃんて、ただ単にかわいいだけじゃなくって、ちょっと、そういう哲学的なところがあるかも」

「哲学っていうか、捉えどころがないっていうか、不可思議な存在ではあるな」

 菫子が呟くのにかぶせるように、春風が得意げに言った。

「じゃ、こっちのハリネズミは、もっちーだ!」

 無口で無愛想でぶっきらぼうな、生物の望月修史先生。けど、実は極度の照れ屋なだけで、本当は優しい人だったりする。管理を任されている薬草園で、ぼそぼそと語りかけながら水遣りしている姿なんて、職員室でいかにも所在なげにムスッとしている人と同一人物だとは思えない。そのギャップがいいとか、そんなところが「すっごくかわいい」とか、神宮寺先生と双璧をなす人気者だ。小柄で細くて掌サイズな感じがするところも、志紀の描くハリネズミはよく似ていた。

「とすると、このクマは……」

「ていうか、このクマって……」

 七海と春風が、首を捻る。

 ハリネズミとフェネックとともに描かれているのは、木彫のクマ。しかも、ちょこんと足を投げ出して座っているかわいらしいクマと、眼光鋭く鮭を咥えているクマが、ヤヌスの鏡のように背中合わせになっているというシロモノだった。

「該当しそうなのといえば、井上さんか」

 菫子は呟きながら、自分の言葉を吟味している。

 眉目秀麗な音楽教師、井上束狭先生。いかにも知的で、黙っていれば超完璧な美男子なのに、口を開くとうっかり者なのがダダ漏れになる残念な人。歴史好きで、音楽教師のくせに社会科の教員免許まで取ってしまったという変わり者で、最近では「変人」どころか「変態」とまで評されるようになってしまった。が、それにもかかわらず、というか、だからこそ、というべきか、井上先生の人気もかなりなものだ。

「志紀ちゃんには、先生たちがこんな風に見えるのね」

「見えるというか、見えてくるというか、見えてしまうというか」

 志紀は自分の描いた動物たちを眺めながら、ぼそりと言った。

 自分からはほとんど喋らず、絵ばかり描いている志紀。先生や学友たちの戯画が抜群にうまいのは、まったく興味がないようでありながら、みんなをよく観察しているからなのだろう。美術以外の成績はヒドいものだし、ひとりでぽつんとしていることが多いけど、なんでも見て、聞いて、人の本質を鋭く見抜く。存在感を消し去っているだけに、志紀の前では人は無防備になり、本当の自分をさらけ出してしまうのかもしれない。

「でも、どうしてこの六人?」

 七海の問いはもっともなもので、いかに小規模とはいえ、高等部だけでも教師はまだまだたくさんいる。さっきみたいに宮田先生がほかの先生たちにからんでいることは間々あるけど、ここに描かれた六人の先生が目につくほどしょっちゅうつるんでいるというわけではない。

「わからない」

 志紀は、やっぱりぼそりと呟いた。そうして自分の描いた絵を見下ろしたまま、ぶつぶつとつづける。

「でも、自然とこうなった。描かないわけにはいかなかった」

 仔豹かもしれない黒猫と、仔ライオンである可能性を秘めた白犬と、ワライカワセミ。ハリネズミと、フェネックと、双頭の木彫のクマ。

 志紀は、うん、と深く頷くと、きっぱりと言い切った。

「これが、必然」

 その決然とした声の余韻に、なんとはなく、粛然とした空気になる。

 と、そこに。

「……ごめん」

 きゅるるるるー、といかにも切なげに春風の胃袋が空腹を訴え、志紀を除いた四人がほっとしたように頬を緩めた。

「そろそろ寮に戻ろうか」

 七海が椅子に置いていたカバンに手を伸ばすと、誰からともなく「そうね」「そうだね」と言い合って、私たちは教室を後にした。志紀もノートを丁寧な手つきでカバンに仕舞い、ひっそりとついてくる。

 志紀は、授業での課題のほかは、自分の描いたものを他人には見せない。だから、彼女の真の能力を知っているのは、私たちくらいのものだ。

 志紀が見出した、先生たちのもうひとつの姿。

 それを知ってしまった、私たち。

 なんとはなく共犯者めいた心持ちが、それぞれの間にふわんとやわらかく浮かんでいる。

「うーーーっ。夕方になると、ほんっと寒い!」

 人気のない廊下に出た途端、実桜が腕を絡めてくっついてきた。

 造作のひとつひとつがちんまりとして、声も仕草も愛らしくて、同性の私から見ても、保護欲をそそられるような女の子。

「雫ちゃん?」

 ついさっきまで西村先生の上着を抱いていた腕が、私の腕に巻き付いている。

「あったかいね、実桜は」

 私からもギュッとくっつくと、実桜が「ふふ」っと、擽ったそうに小さく笑った。

 前を歩いていた菫子が、肩越しにちらりと振り返る。

「ああハラへったー」

「ちょっと! せめて『おなか空いた』にしなさいよ!」

 春風と七海が言い合って、志紀はまた何やら物思いに耽っている。

 廊下の窓から覗く師走の月が、私たちを静かに照らしていた。


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