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「颯太、着替えないともう時間になるよ」
そういえば、次の時間は体育だった。
「あ、私も着替えなきゃ!」
あわてて教室に入ろうとすると、もう男子が着替え始めていた。男子は教室で、女子は更衣室で着替えるんだけど、すでに教室に残っている女子はいなかった。
「なんだよ、美優さん。のぞきか?」
「ち、違うわよ!」
「美優さん、やらしー。見せてやろうか? 俺のピカチュウパンツ」
口々に男子がからかってくる。
ひーん、莉子ちゃんも萌ちゃんも、先に行っちゃったんだ。私の運動着袋、持って行ってくれたかなあ。確かめたいけれど、もう一度教室の中をのぞくのは嫌だし……
「ほら」
すると、入口で固まっていた私に、颯太がぽんと私の運動着の袋を渡してくれる。やっぱり、まだロッカーの中に入ってたんだ。
「あ、ありがと」
「さっさと行けよ。それとも、一緒に着替えるか?」
「な、何言ってんのよ。そんなことしないわよ!」
私は、運動着袋を抱えると、一目散に廊下を駆け出した。
☆
「あ、美優ちゃん、ごめんね。先にきちゃって」
更衣室で着替えてから校庭に出ると、集合場所にはもう着替えた萌ちゃんがいた。
「ううん、私も遅くなっちゃったから」
「待ってようかと思ったんだけど、莉子ちゃんが先に行くってきかなかったの」
ああうん、わかる。だって、男子が着替え始めたら教室にいるのって、ちょっと気まずいもん。
「しょうがないよ。私だって同じように思うもん。でも、颯太が運動着袋とってくれたから、中には入らずにすんだんだ」
「そうなんだ。優しいよね。颯太君」
「そんなことない! もとと言えば颯太があんなとこで話しかけてくるから時間くっちゃったんだし」
「颯太君が? 何だって?」
「さっき、図書館で泣いてたの、見られちゃったみたいで、けが痛いのかって聞かれた」
萌ちゃんは、ほにゃりと笑った。
「気にしてたんだ、颯太君」
「けがしたのは、颯太のせいじゃないのにね」
「そうねえ」
萌ちゃんは、ただ笑っているだけだ。しばらくすると校舎から男子も出てきて、先生の笛の音が響く。
来月マラソン大会があるから、最近の体育はもっぱら持久走ばかりだ。
「私、持久走って苦手だなあ」
げんなりとして言ったら、萌ちゃんがまた笑った。
「たいしたことないわよ。足を、右、左、右、左って出していくとね、気がついたらいつの間にか終わっているのよ」
にこにこと笑って言う萌ちゃんは、ある意味すごい。
「美優! 遅いよ!」
準備運動の終わった莉子ちゃんは、走る気まんまんだ。
「今日は学校のマラソンコースを五周だって」
「ええー……」
「マラソン大会の時は、もっと走るんだよ。今からそんなことでどうするの」
スタートの笛と共に、莉子ちゃんは張り切って飛び出した。
「はあああああ、もうだめ……萌ちゃん、先に行ってて」
息を切らして言うと、萌ちゃんはやっぱり笑顔で振り返る。その額には汗が光っていた。「あと一周よ。頑張って、美優ちゃん」
「ま、まだ一周も……はひぃ」
早い子たちは、もうどんどんと私たちを追い越していく。
「遅いぞ! 美優」
どうやら最後の周に入ったらしい颯太が、べん、と私の背中を叩いて追い越していった。慎くんと抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げる後姿を見ながら、私も一生懸命足を動かす。
「うわあ、早いねえ、颯太君たち」
「萌ちゃん、なんでそんな平気そうなの?」
のんきそうに言った萌ちゃんだって、汗かいてるし息も切らしている。でも、なぜかその顔はいきいきとしていた。
「だって私、こんなに一生懸命走ったことなかったから」
「え?」
正面を向いた萌ちゃんは、ぜいぜいと荒い息の中から、でも嬉しそうに言った。
「死ぬ前の私はね、ろくにご飯も食べられなくていつでも隠れていなきゃいけなくて、こんな風にお日様の下で思い切り走ることなんてできなかった。あの頃私たちが走る時っていったら、いつも爆弾から逃げるためだったもの。だから、なんの心配もなく、ただ走るためだけに走ることが、すごく、楽しいの」
「萌ちゃん……」
今も萌ちゃんの体は、走っていればふらふらとするほどに細い。
私は知らない、死ぬ前の萌ちゃんの姿。想像したこともなかった。私と同じように、学校に行って普通に暮らしていたんだろうとしか思っていなかった。
七十年くらい前。
そうか。萌ちゃんは、戦争で死んだ子なんだ。
「ああ、こんな話をしたの、美優ちゃんが初めて。いつもいつも、誰かに言いたかったんだ。この世界で普通に生きていることが、それだけでもう、こんなに幸せなんだよって。だから、走ることも、生きることも、もっと楽しもう? 美優ちゃん」
こんなつらいと思うマラソンだって、萌ちゃんにとっては楽しくてしょうがないことなんだ。
私、『青い鳥』読んで幸せは身近にあるんだ、なんてえらそうに感想書いていたけれど、心からそう思ったことってあったかな。
萌ちゃんの本当に嬉しそうな顔を見ながら、私はようやく、身近にある幸せの感じ方が分かったような気がした。
「うん!」
私は顔をあげると、スピードをあげて走り出した。
☆
その日の放課後。莉子ちゃんがくるのを教室で待ちながら、私は萌ちゃんに昼休みに見てきた六年生の様子を話した。
「モデルの人、六年四組の宮崎仁美さん、っていう人だった。長い髪だったけど、ふわふわしててちょっとくせっ毛だったの」
「黒髪のストレートじゃないのね。だったら、今のところ心配しなくても大丈夫かしら」
「きれいな人だったよ。子供のころからずっとモデルやってるんだって。でも今はあんまりやってないって、楓ちゃんが言ってた。楓ちゃんの周りの女子は、彼女が気取ってるとかであまり仲よさそうじゃなかったなあ」
笑ったところを見なかったからちょっと冷たい感じはしたけど、それでもすごい美人さんだった。
「ふうん。そうなんだ……」
萌ちゃんは、私の話を聞いてなにやら考え込んでいた。
「あと、髪がきれいっていったら、楓ちゃんの友達に由紀さんて人がいるんだけどね、肩を少しこすくらいで、きれいな髪だったよ」
「肩をこすくらい……なのね。もっと長い人って、いたかしら?」
「今日見てきた中では、六年二組の越川さんと一組の吉村さん、それとおなじ一組の茜さんが長かったかな。みんな、これくらい髪が長かった」
私は体をひねって、自分の肩甲骨のあたりを示してみた。萌ちゃんは、それを見ながら難しい顔で言った。
「低学年での被害は出ていないから、心配なのは、五、六年生の人たちね。その人たちが被害に遭わないようにできれば薄い結界を張っておきたいけれど……私の力じゃ、一度にできるのは二人くらいまでかな。来週になれば、応援の天使がきてくれるから、それまで被害者を出さないようにしないと」
「けっかい?」
「ええ。闇の心を持つ人がその力で手出しできないように、ええと、膜でおおって守る、って感じかしら。一番いいのは、これ以上の被害者を出さないように早く該当者を見つけることなんだけど」
「誰が闇の心を持っているのかって、萌ちゃん、わかるの?」
「近くにいれば、見えるのよ。私も注意して学校の中を見ているけど、今のところ見当たらないの。うまく隠れているのか、それとも、私の探し方が悪いのかしら」
「お待たせー!」
そこに、莉子ちゃんたちが帰ってきた。莉子ちゃんたちの班は、六時間目にあった理科の後片付けをしていたのだ。三班は、莉子ちゃんと美由紀さん、それに慎君と光義君の四人だ。
「お疲れさま」
けれど帰ってきたのは、三人だった。
「あれ? 光義君は?」
「サッカー遅れるからって、直接理科室から帰ったよ。あ、美優さん」
帰り支度をしていると、慎君が近寄ってきた。
「なに、慎君?」
「中尾先生が、明後日の委員会の資料、心配してたよ。どうなっているのかって」
中尾先生は理科の先生で、私が副委員長を務める園芸委員会の顧問だ。
「あれは瑠奈ちゃんがやっているの。多分、もうできているとは思うけど」
「瑠奈ちゃん?」
「一組の谷本瑠奈さん。知ってる?」
「あー……」
そういえば、あれ、どうなったのかな。手伝わなくても大丈夫だって言うからまかせちゃったけど、集計とか大変だったんじゃないだろうか。
明日、確認してみなきゃ。
すると、慎君はちらりと莉子ちゃんたちの方を見ると、内緒話でもするみたいに私に顔を近づけてきて声をひそめた。




