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今更引き返すのも気まずいので、私は自分の仕事をさっさと終わらせることにする。
ノートを開くとえんぴつを走らせて、花だんの状況をはじから区画の様子を書き留めていく。
えーと、ここからここまでが一年一組、ここまでが二組で……
「ねえ」
すると、黙って私のことを見ていた安永さんが、ふいに話しかけてきた。
「な、なに?」
私は緊張して振り向く。声が裏返ってしまった。
「相葉さんて、慎君のこと好き?」
「へ?」
急に出てきた名前に、私は首をかしげる。
慎君? なんで急に。
「そりゃ、好きだよ。慎君、優しいしいい人だよね。安永さんも知ってるでしょ? こないだ私がけがをしたときに、えさやり当番代わってくれて……」
「違うわよ」
なんだか座った目をした安永さんが、いらいらと私の話をさえぎった。その感情に動かされているのか、背中の黒いもやもゆらゆらと左右に揺れる。
まるでそれは、もやが笑っているみたいで、なんだか怖い。
「特別に好きか、って聞いているの。つきあいたいと思う?」
「つき……ええっ?! だって私たち、まだ小学生だよ?!」
つきあうとか、好きとかって、そんなのまんがの中だけの話で、まさかこんな風に自分に聞かれるような話題だとは思いもしなかった。
私は、ぶんぶんと首を振った。振って……気づいた。
「もしかして安永さん、慎君のこと、好きなの?」
口を閉じた安永さんは、ぷい、と横を向いてしまった。ほんのりとその頬が赤くなっている。
うわあ、かわいい!
そうか、それでいつも私が慎君といる時ににらまれていたんだ。安永さん、やきもち妬いていたのね。全然そんなの心配することないのに。
「二人なら、お似合いだよ」
私は、笑顔で口にしていた。
「安永さんと慎君、一緒にいると美男美女ですてきだなあ、っていつも思ってたの。つきあうとか、私にはまだよくわからないけど、うん、すごくお似合いだと思うよ」
二人が一緒にいるところを想像しただけで、胸があったかいようなくすぐったいような感じでどきどきする。こんな気持ちが安永さんに伝わったら、きっと安永さんのあの黒いもやも小さく……
「なにがすてきよ!」
すると、急に安永さんが、ば、と立ち上がった。その瞬間、黒いもやも一回り大きくなる。もうその頭を超すくらいに。
「何も知らないくせに、勝手なこと言わないで! そうやって私のことばかにしてるの? ふざけないでよ!」
「ば、ばかにしてなんか……」
「してるわよ! 相葉さんだって、慎君のこと好きなんでしょ!? どうせ私はふられたわよ! 聞いてるんでしょ、慎君から。だから、いい気味だと思って、人の事ばかにしてるんでしょ!!」
「え? あの、何が……とにかく、安永さん、おちついて……」
わあああと泣き崩れた安永さんを前に、私は、どうしていいのかおろおろする。今の話の中にいろんな情報が多すぎて、どこからどうやって答えていいのか。
黒いもやはぐるんぐるんと激しく動くし、安永さんは取り乱しているし。
なにか、安永さんの気を落ち着けることとか、嬉しいこととか……えええ、こんな時、なんて言ったらいいんだろう。
「私、全然、安永さんのことばかになんてしてないから」
「嘘! 見ていればわかるわよ!」
「そんなことない。安永さんは美人だし頭もいいし……」
「そんなの関係ないわ! あんたが何言ったって、慎君に……好きな人にそう思ってもらえなかったら何の意味もない!」
き、と安永さんは、涙で濡れた顔を私に向けた。
「慎君、他に好きな人がいるって言ってた。あんたじゃないの? だからいつも……」
「違うよ」
ふんわりとした声が、私たちの間に落ちた。二人で振り返ると、廊下から慎君がのぞいている。
「慎君!」
「僕の好きな人は、相葉さんじゃないよ。君たちの知らない、他校の生徒」
安永さんは驚いて絶句している。
「慎君、今の、聞いてたの?」
「ごめんね、聞こえちゃった。菊池さんがうちのクラスに来て、ここに安永さんがいるから行って様子を見てきてくれって」
「そんなの……今更……」
突然慎くんが現れて、安永さんはどうしていいのかわからないみたいだ。慎君は、私に向かうとにっこりと笑った。
「ごめんね、相葉さん。僕たちのことに巻き込んじゃって」
「あ、ううん……」
それ以外、言いようがない。
「安永さん」
慎君は、校舎の中からベランダに出てくると、安永さんの前に立った。
「昨日も言った通り、僕は君の気持には応えられない。でもね、ライバルとしての君を、心から尊敬している。君ほどの努力家を、僕は他に知らないよ。これからも、僕にいい影響を与えてほしいと思っているし、僕が君の力になれればと思っている」
慎君の言葉を、安永さんは、じ、と彼を見つめながら聞いていた。
と。
その背中のもやが、しゅるしゅると小さくなっていく。
その変化に、私は目を見張った。
「私のこと……嫌いに、ならない?」
「どうして?」
「だって……私、取り乱して、ひどいことを……」
「悪いと思ったら、謝ればいい。君ならできるだろう?」
ちら、と私の方を見ると、安永さんはうつむいた。
その時はもう、黒いもやは手のひらサイズにまで小さくなっていた。
あんなに大きかったもやなのに、慎君の……好きな人の言葉で、一気にこんなふうになるんだ。
「ごめんなさい、相葉さん。私のかんちがいだったみたい」
「ううん……」
全く消えたわけじゃないけれど、安永さんの背中のもやは、もうほんの少しになってしまった。
「慎君、これからも、一緒に勉強してくれる?」
「もちろん。安永さんの方が理解力は柔軟だから、僕の方が教えてもらうことは多いかもね」
にっこりと笑った慎君に、安永さんも笑顔を見せる。その笑顔は、少しだけまだ切なそうだった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「戻ろう。菊池さん、心配してたよ。そういえば、相葉さんは、どうしてここへ?」
「あ! そうだ! 委員会の仕事で、裏庭の見取り図を作りに来たの」
ああー、全然終わってない。これは、放課後に持ち越しだ。
「邪魔しちゃって、ごめんなさい」
すまなそうに私に言ったその姿は、以前に私が知っている安永さんだ。その変化の大きさに、私は戸惑っていた。
さっきまであんなに怒鳴り散らしていた様子からは、ちょっと想像できない。
もしかして。
安永さん、黒いもやに操られかけていたの? あの黒いもやって、人をあんなふうにしてしまうの? 確かに宮崎さんは怖かったけれど、あれは、特殊な場合なのかと思っていた。
違うんだ。
人の心の闇って、あんなふうに簡単に大きくなってしまうんだ。
「ううん、また放課後にやるからいいよ。安永さんの気持ちが楽になったなら、そっちの方が大事」
私が言うと、安永さんはちょっと目を見張ってから、優しく笑った。
「相葉さん、相変わらずなのね」
「相変わらずって?」
「同じクラスだった時も、自分のことより人のことを心配してくれる人だった。私、こんな性格だからいつもきつい、って言われてて……ずっと、相葉さんのことがうらやましかったの」
その言葉に、私の方が驚いた。あの安永さんに、うらやましいと思われるなんて。
「だから私、あなたに嫉妬してたの。相葉さんなら、慎君が好きになってもおかしくないと思って」
「そんなことないよ」
「相葉さんもとてもかわいいけど、もう、おっと」
慎君は何かを言いかけて口を押さえた。
「何?」
「なんでもない。それより急ごう。授業が始まる」
「あ、うん」
私は校舎の中に戻りながら、誰にも気づかれないほどの小さいため息をついた。
楓ちゃんみたいにできるかな、と思ったけれど……
さっきだって、決して嘘を言ったわけじゃないのに、私の言葉は安永さんに届かなかった。逆に、慎君の言葉は、安永さんにすんなりと受け入れられていた。それはきっと、安永さんが慎君に気を許している証拠だ。
せっかくあの黒いもやのはらしかたがわかっても、それができるかどうかは別なんだ。
心の闇を消すのって難しいんだな。私はもう一度ため息をついて、教室へと戻った。




