夜泣き
坊っちゃまだから、清潔にしていたいよね。
『でも、もう遅いからまた明日だね。』
ごめんね、と言いながら頭を撫でる。その坊っちゃまは私を見ようともしない。未だにじっと魔法陣の山を見続けている。
私も赤ん坊に倣って魔法陣を見ていると、思考の波に攫われていった。
「あ、あ、」
突然、赤ん坊の声が上がり、意識が波面へ上がってきた。
『お、どうしたの?』
赤ん坊は一つの魔法陣を記した皮を指差し、私に何かを訴えかけるように、じっと見つめてきた。
指差していたのは、丁度私も考えていたものだった。
『そうなんだよ。』
私はその魔法陣が描かれた皮を手にとって、赤ん坊に見えやすいようにした。
『理屈はいいと思うんだけどね。やってみても、その上着に描いたくらいの効力しかならないの。』
今のところ、別属性の魔法の精一杯は‘現状維持’。それ以上にもそれ以下にもならず、出来るのは保温くらいだ。
まだまだ友人の手を借りなければならない。
『父上達は全属性、魔法を使えるんだけどね……。』
ため息をつきながら、前世の癖が出たのだろうか、手持ち無沙汰になった手で赤ん坊の 耳たぶをやわやわと触れる。
赤ん坊は拒否せず、じっと私を見ていた。
◯◯◯◯◯◯
目を開くと、目の前には黒髪黒目の顔の凹凸が少ない塩顏の男の子が立っていた。
じわりと胸にいっぱいの熱が沁み渡っていく。その熱は懐かしさと愛しさと悲しさで、無性に泣きたくなった。
男の子は私に近づくにつれて、段々と大きくなっていく。
私に手がすぐ届くくらいの距離になった時には、優に私の背を超えてしまった。
男の子は、何か呟いて私の頬に触れようとした。
◯◯◯◯◯◯
ひたりと頬に何かが触れるのと、私が『テ…』と言ったのは同時だった。
…手?
何の手だろうと思って目を開くと、赤ん坊の手だった。
赤ん坊は私をじっと見ていて、頬に手を乗せている。
『おはよ。朝早いね。』
そう言って、赤ん坊の手を触れると、私の頬が濡れていることに気付いた。
どうしてだろ?特に夢見が悪かったわけでもないのに……。そもそも私、夢見てないよね…?
夢を見たかどうかすらあやふやだった。
考えても仕方がないので、考えないことにした。
私は濡れた頬を拭いて、心配そうに覗き込んでいる赤ん坊を安心させるために、顔面筋を苦役させて微笑んだ。
そんなことより、涙が拭いてくれちゃうとか、この子、マジ紳士!外見と相まって将来、数多のご令嬢から求婚されちゃうよ!天性の紳士だね。
私は、教育上良い面はしっかり褒めることが大事であることをどこかの本で読んだことを思い出した。
『よく出来ました!良い紳士!エライエライエライエライエライエライエライエライライライライライライライ…』
と言いながら頭を撫でまくったら、赤ん坊にペシリと頬を叩かれた。
だめか…、どんな褒め方がいいんだ?
赤ん坊の考えていることがわかればいいのに、と思いながら、額と額を合わせてみた。勿論、考えていることは分からなかった。けれど、思っていたよりも額がずっと小さく温かだった。勢い余って前世で義弟にするように、そのまま額にキスを落としてしまった。
キスを落とした後で後悔した。
これ以上、情をかけちゃダメでしょ…。親元へ返す時、悲しくなっちゃうじゃないか。それに、家族でもないのに……。
赤ん坊をチラリと見てみると、少し頬を赤らめていたが、叩いたりはしてこなかった。
そのことに安堵したが、やはり一方で後悔が残って、それを振り切るように私は朝ごはんの準備を始めた。
メニューは昨日と殆ど同じだ。赤ん坊はパン粥。私はパンと干し肉。
『ほうはほふほひひふははへ、はひ。』
パンを齧りながら、パン粥を赤ん坊の口に運んでいく。
いい食べっぷりだね〜。
乳児にしては食欲が旺盛だ。
それに、昨日よりも大きくなっている気がする。
前世と同じと考えてたけど、この世界では子供の成長や発達の速度が違うのかもしれない。
そんなことを考えながら、今度は干し肉を口に含んで、匙を運んでいく。
夜泣きもないし、おねしょもなかった。むしろ、夜泣いたの、私だし…。
そう考えると、一気に恥ずかしくなった。
それらを全て飲み込んでしまおうと、口の中のパンと干し肉も一緒にゴクリと飲み込んだら、激しく噎せた。