魚の骨
改めての自己紹介というものは、何だか照れ臭く、目を落としてニコの握った手を見ていると、その温かさを一段と意識した。
あの、小さな手が、こんなに大きくなったんだ…。
私の手の平位の大きさだった赤ん坊の手が、今や私の手を包み込んでいる。
その感慨深さは、どこか懐かしかった。
そんな照れ臭くて、温かくて、懐かしい空気をブチ破るように、ドアを叩く音が鳴り響いた。
「ニコル!もう時間だ!仕事が溜まりに溜まってるんだよ!」
何を言っているのかは分からなかったが、シュワルが催促をしているのだろう。
ニコはそれに対してドアに殺気を向け、私の手を握る力を強くした。
時間感覚はないが、ベッドの横のロウソクの明かりだけが私たちを照らしていることからして、既に夜は更けきっているのだろう。ニコはこのような時間まで私を看てくれていたのだ。
私はニコの顔を伺おうとすると、それを察したように、ニコは振り向いてきた。何てことのないように、微笑んだ顔をで。
『これから仕事に戻ります。』
『もう、夜遅いよね?しかも、私の看病をしてもらって……。だ、大丈夫?本当に、ご、』
謝る言葉を言わせないかのように、ニコは気色悪く私の頬を撫で回してきた。
ニコに触れられるのは、いくらか慣れたか、と思ったが、そんなことはない。
今の触れ方は、先ほどとは違っていやらしいというか、ネチっこいのだ。
ゾワゾワと鳥肌がたつ。
蕁麻疹は出ないが、出るもんは出るのだ。
ニコは私の目線と同じ高さになるよう顔をベッドに乗せて、あざとく目を細めた。
『貴女のためなら、何てことないですから。明朝に戻ります。』
気障ったらしい台詞を吐いて、ひと触りする。
「お嬢、騙されない方がいいですよ、ここ、ベッドが一つしかない、ゴフっ」
シュワルが何か言ったようだが、ニコが素早く身をドアの向こうまで移動させて、彼を殴っていた。
何を言ったのだろう。
ニコはチラリと私に顔を向け、笑って出て行った。
私はニコの背中を見ながら、『行ってらっしゃい』と呟いて、一人となった部屋の広さと静けさと冷たさを意識した。
こんな時は、考え事をするのにピッタリだ。
先ずは、私を思いとどませる心残りについて考えよう。
ちゃっちゃか片して、ウキウキドラゴンライフだ。
しかし、心残りといっても、それが何なのか全く思いつかない。自分の心の筈なのに、こんなにも他人事のように分からないというのは、不思議な感覚だ。
けれど、その心残りについて考えると、喉に魚の骨が引っかかったような、取りたくてたまらない気持ちになる。
唯一の手がかりは、夢で私の腕を掴んだ誰かだろう。その掴んだ手がどんな手かすら思いつかないので、人間なのか人間でないのかもわからないが。
多分、どこかで会ったのかな……。今世か前世かは分からないけど。
前世だったら取りようがないので、是非、今世の内の誰かであってほしいものである。
窓から心地よい風が流れてきた。
ニコが窓をあけてくれたのだろうか。
逃げ出したというのに、随分信頼されているな。
と思いながら、私はもう一つの魚の骨について考えた。
その魚の骨はニコだ。
ニコは勘違いもしているし、取り違いもしている。
私はニコを育てたのは、優しさとかそんな大層なものからくるのではない、一種の気紛れなのだ。もし、私に義弟の記憶がなかったら、もし、赤ん坊ではなかったら、そのまま捨て置いていたかもしれない。そして、もし、優しさからくるものであったのなら、最初から赤ん坊を、人里まで下りて、親元に届けている。私は自分に言い訳をして、ダラダラと情が移るまで時を過ごしたのだ。そんな卑怯な私を優しいなどと、勘違いもいいところである。
そして、ニコの私への情は、家族への愛みたいなものだ。
家族からの愛情に飢えていたお年頃の時期に、ちょうど良く私が出てきて、私への感情を取り違えてしまったのだ。
すっごく良い子なんだもん、真っ当な良い子と一緒にならなきゃ。
うんうん、と頷きながら、一つ目の不明瞭な魚の骨よりも、先ずは、ハッキリとした二つ目の骨を何とかすることを決意した。
窓からは、黄白色に輝く綿毛のようなものが風に乗って闇に沈んでいた部屋に入ってきた。春の訪れを知らせるフワリだ。春になると光の精霊である、ルタンが一斉に欠伸をして、出てくるのだ。フワリは草木や動物に触れるとカッと目を見開いて、パチリと破れ、長い冬の間眠っていた彼らを目覚めさせていくのだ。
フワリがフワンフワンと漂っている様子をぼんやりと見ながら、ニコ魚の骨取り除き作戦を考えた。
私は結局徹夜をして、フワリの輝きを打ち消すように、部屋が明るくなってきた頃、そっとドアが開かれたことに気づいた。
『戻りました。』
ニコルは私を起こさないように、そっと中へと入る。ドアの外にはシュワルと、もう一人誰かが控えているようだ。
『おかえり、ニコ。』
私がそう返すと、ニコは驚いた顔で私を見て、恍惚とした表情で涙を流した。私はその様子に引いていると、ニコは人差し指を立てた。
『クロ、もう一度仰ってください。』
『え……う、うん、おかえり…。』
ニコは余韻に浸るように、暫くそこに佇んでいた。
ニコは満足できたのか、満面の笑みを浮かべた。
『ずっと、このようにクロに迎えられることを夢見てきました。』
ニコはそう言うと、朝餉の準備をします、と言って、いそいそと部屋から出て行った。ニコのその様子を不思議に思いながら、ニコに言うべきことを整理した。
よしよし、大丈夫。
そう思うと、自然と手は握り拳を作っていた。手が動くようになったのだ。
徹夜しなかったら、もっと動けたかもな…
と、反省しつつ、どのくらい動けるようになったのかを確かめていく。
ベッドから出ることはまだ出来ないが、一人でご飯を食べれるくらいには動かせるようになっていた。
そのことに安堵していると、ニコは皿をいくつか載せたお膳を片手に、そしてもう一方には本を持って戻ってきた。
ニコは私が一人でご飯を食べれることを聞くと、悲壮な目をしたが、私はそれを無視してハーリナ粥を食べ始めた。
『今日はまた城へ戻らなければいけないのです。』
ニコは私の食べる様子を見ながら、今日の予定を話し始めた。
『日が落ちる頃には戻ります。あと、昨日仰っていた本を持ってきました。』
『ありがとう。』
『昼食は置いておくので、お好きなときに食べてください。もっと食べ応えのあるものを準備しておきますね。』
咀嚼する力も随分戻ってきている。干し肉を食べるのは難しいが、ハーリナ粥は少し物足りなかったので、嬉しい知らせだ。
『夕食はご一緒しましょう。』
ニコはそう言って、粥を溜めた私の頬に触れる。食べている時に触らないでほしい。
『もっと、クロと一緒にいたいのですが…。』
ふう、と一息吐くと、ニコは申し訳なさそうに私を見た。
『クロ、本当に面目ないのですが、貴女を護衛する者を私の代わりにつかせてください。』
『?、そんな必要ないでしょ。』
『勿論、クロ以上の力を有す人間は、この国に、この世界におりません。けれど、私はクロにその力を使わせたくないのです。ご理解頂けませんか?』
『……、力がでか過ぎってこと?』
自分でも自覚していている。
私は人間だけど、人間ではない何かだ。
人間の世界でその力を使えば、混乱を呼ぶ。
もしかしたら、昨日暴れてしまったのを誰かに見られたのかもしれない…。
つまり、護衛という名の見張り役なのだ。
私が目を落としたのを心配したようだ、ニコは私の肩に手を置いた。
『……クロ…。』
『うん、分かった。私がしでかしたことだしね。』
私がそう言うと、ニコはきっぱりと首を振った。
『いいえ、分かっておりません。私はクロを他の人間の目に触れさせたくないのです。そして、クロの力を貴女の嫌う者に使わせたくない。クロを知るのは私だけでいい。』
私は思違いをしていたようだ。
そのせいで、ニコは熱を持った目で、私の目を見つめてきた。
ニコの深い水奥の瞳はゆらりと揺れて、私の耳に口を近づけて囁いた。
『クロの世界には、私だけがいればいいのです。私だけを知っていればいい。』
ニコはそう言うと、呆然と固まった私に不穏な笑みを浮かべた。
『護衛の名はセルゲイ・ローゼンフェルド。実直な男です。屋外に控えさせているので、クロの目に入ることはないでしょう。…では、いってきます。』
ニコはそう言って、部屋から出てしまった。
私は、口から自然と、行ってらっしゃいと声をかけ、ニコに言うはずだった言葉がスッポリと抜け落ちていたことを、今になって気がつくのだった。