メクリ湖
主人公は暗いけど明るいおバカです。
『お前、どのメクリが美味そうに思う?』
赤ん坊と共にやってきたのは、山頂の湖だ。 若干の地熱をたたえた火口に水が溜まって湖となった所に、緑がかった白い毛玉の塊がある。この毛玉はメクリといって、毛玉のように丸くたっぷりとした毛を生やした胴体に、真っ黒な4つのヒョロリとした長い足と顔が生えた動物だ。メクリは群れを形成して、冬ではこの湖に生える耐冷性の苔を食べながら身を寄せ合って、厳しい寒さを耐えるのだ。
雌のメクリから出るミルクは前世で飲んだものよりも、ずっと濃厚でかつコクのある味わいだ。寒さから守るために脂肪分を貯めるため乳脂肪分が高いのと、苔を食べることでのミネラルなどの栄養素が混ざってこのような味わいが出来上がるのだろう。より肥えていて、かつ、苔をよく食べるために色素が毛に沈着した薄緑色の雌が、美味いミルクを出すのだ。
赤ん坊の視線の先は、まさしく私が狙っていた個体だった。
この子、天才!義弟みたい!どうして私の狙いがわかったのだろう!?この子は天性の狩人か?そうなのか?
私が赤ん坊の才に興奮したせいで、メクリの群れがギェーギェーと騒ぎ出した。
まずいまずい。
直ぐに私は気配を消して、もう一度赤ん坊の顔を覗いてみる。
いかん…
赤ん坊は冷や汗をかいて私をじっと見ていた。
やはり、グムリの愛し子…、察しがいいな。取り敢えず笑って敵でないことをアピールしておこう。
普段使っていなかった口輪筋をなんとか駆使して、ピクピクと痙攣させた笑顔であやしていると、赤ん坊は何とか落ち着いたようだ。むしろ、赤ん坊はまるで私の必死さを収めるように、頬をひたりと私の胸につけてきた。安心させようとしたのは私の方なのだが、いつの間にか逆になってしまった。義弟に、いないいないばあを繰り返しした結果、笑ってあげているという顔をされたことを思い出し、赤ん坊のおかげで冷静になれた。
気を取り直し、気配を消してメクリの群れに近づいていく。
メクリは序列関係がある。群れの中央にいる個体ほど格が上なのだ。端にいる格下メクリは筋肉を震わせることで熱を産生し群れ全体を温めている。常にエネルギーを消費するため苔を食べ続け体毛の緑は濃く、無駄な脂肪がないため、まん丸な毛玉の形ではなく長方形の毛玉になっている。一方、中央に構える格上メクリは特にエネルギーを浪費することなく、気の向くままに苔を食べるので、毛色は殆ど白色で、脂肪を蓄えているため、遠目でみたら大きな雪玉のように見える。
赤ん坊と私の狙いは中間メクリだ。中央でもなく端でもない所に陣取る、程よく緑色がかった楕円形の雌毛玉を狙う。雌か雄かの判断は勘だ。
狙いから15メートル位だろうか、そこまで近づき、私は土下座の姿勢で風の友人に‘声’をかけた。
『リェーリエさん。マジでお願いします。ちょっとだけ、ホント!ちょこっとだけ力を貸して下さい!』
特に返答はない。
下を盗み見ると赤ん坊は訝しげな目で私を見上げているので中々気まずい。
『そうだ!チョコあげるから!献上しますから!チョコだけに!……ゲフッ』
リェーリエに風圧で頬を殴られた。
鼻血が出たが直ぐ凍りつく。チラと下を見ると、赤ん坊は引き気味になっている。ふーっと一息吐いて、丹田に力を入れ土下座に‘声’に力を入れる。
『リェーリエさん!いや、リェーリエ様!見てください!この子!本当に可愛いでしょ!?この子の為に何卒お願いします!……え?……、チョコじゃなくてチョコクッキー?……ちょ、下手に出てりゃ調子の…、いえいえ、すみません!違います違います!チョコクッキーですね!あい分かりました!用意させて頂きます!あ、はい!その通りです!はい!はい!よろしくお願いします!』
リェーリエの言質を取った。
私は静かに立ち上がり、ふー、と鼻から垂れた鼻血氷を指でこすり取り、赤ん坊のロープを縛り直す。赤ん坊は見ない、何故なら気まずいからだ。うん。見ない。
いつもならリェーリエの助けなしでメクリミルクを取って来られるのだが、赤ん坊の害のない程度の速度でメクリに近づくと、気配を察知しメクリは防御態勢に入ってしまう。防御態勢に入ってしまったメクリからミルクを取るのは困難なのだ。
メクリ達の天敵はグムリ。それは即ちグムリ以外の殆どの肉食動物には身を守れるということだ。彼らは、グムリより狩りが下手な動物に10メートルほど近づけられれば素早く気配を察知し、長い足を折りたたんで、腹部を隠すようにして丸まってしまうのだ。つまり、まんま毛玉なのだが、その毛が剛毛すぎて、殆どの動物の牙では肉には達しない。
今回は速度はそのままに、赤ん坊の周辺の風圧をちょびっとリェーリエに弄ってもらい害のないようにしてもらう。
その代償がチョコクッキーなのは大分、大分、高い気がするが、背に腹は変えられない。このようにして友達への借りが雪だるま式に増えるのだ。
嘆息したいが、息は吐けない。10メートルより先は、メクリの五感察知圏内だ。出来る限り息を殺し、5メートルまで近づく。近づくにつれて緊張感が増してくる。それと同時に、アドレナリンが、そして、得体の知れない何かが噴き出しそうになる。それを外に漏れ出ないように、丁寧にしごきながら、四肢を支配する筋肉の一本一本に染み込ませていく。
『リェーリエ様、では頼みます。』
そう‘声’をかけてから、筋肉を一気に収縮させて私は跳んだ。風圧で一気に顔と髪が凍りつくのがわかる。赤ん坊が心配だが、リェーリエのおかげで、その重力は感じない。3メートルほど跳び上がり、今度は空気を蹴り上げ、狙いのメクリに突撃する。狙うは首元。足を首元に絡ませ、上半身は突撃した勢いのまま、前につんのめる格好にし、メクリの真正面に向かって腹から思いっきり、『わ!!!』と、声をぶつけた。
するとメクリは、周りのメクリ達もドサリと倒れていき、倒れなかったメクリ達はどんどん丸まっていく。
メクリは、驚いて倒れたのではない。これは、突如として現れた敵への防御法、死んだフリだ、と言われている。
私だったら絶対やんない。
2秒くらい死んだフリをするので、その間に雌かどうか確認し、できたらメクリの毛でうまく引っ掛けを作って、それを使って腹につかまる。
私も中々勘が良くなったようだ。二分の一の確率で雌に当たるようになった。
メクリは死んだフリで、呼吸、心拍、意識、そして瞳孔までも死んだ状態となる。それに対して、驚いたせいで仮死状態となっただけなんじゃないかという説もあるらしいが、あくまでフリらしい。ともかく、その死んだフリをした後は、腹部にいる私達に気付くことはまずない。死んだフリはメクリにとっては最後の手段で、生き残れたことに安堵するあまり色々と油断するらしいからなんだそうだ。
まぁ、それはさておき、ミルクの時間だ。
赤ん坊は私の胸の上でじっとメクリの乳を見ている。
『そんなに腹が減ったのか。』
極寒の中、雑菌を心配する必要はないと思われるが、念には念を入れ腰につけた巾着に入っている革袋にどんどんミルクを搾っていく。時々そのまま私の口に搾ると、赤ん坊が恨みがましく見てくるのが愉快である。
革袋は5つある。クッキーを作らなくてはいけないため5つ全てを満たしていった。
『よし、こんなもんか。』
ひょいっと、メクリから降りると、目の前にいたメクリがバタリと倒れ、周りはクルリと丸まっていく。
『皆んなごめんよ。あと、君のミルク美味しかった。ありがとね。』
そう言って、ミルクをもらったメクリの頭を撫でたらバタリと倒れられた。
どうして、私が撫でるとこうなるのだろう?
撫でた途端、周りはパニック状態となった。あちこちでバタリと倒れる音や、何故か防御態勢を解いて逃げ回る音、そして何より騒がしいギェーギェーというメクリの叫び声。いつものことながら、居た堪れなくなる。
『行こうか…。』
片手で赤ん坊を抱き、もう一方で革袋を担いで、チャポンチャポンと音を立てながら、メクリの湖を後にした。