第一章 故郷の語り部
2005年の冬。
僕は炬燵に潜りながら、静かにテレビを眺めていた。
外はなんの変哲もない、いつもの雪景色。
「翔太、早くお風呂に入っちゃいなさい。」
母の声が聞こえる。相当苛立っているようだ。
僕はテレビを消して、ゆっくりと立ち上がり、風呂場へと向かった。
そのときだった。
「ピンポーン」
家のチャイムが鳴った。
夜11時を過ぎた頃だった。
こんな時間に誰だ、という顔をしながら母が玄関へ行く。
ドアを開けた先にいたのは…
なんと我が父親だった。
母と父は3年前に離婚して別々の生活をし始めたはずだった。
なのに、父は戻ってきたのだ。
父は無言で部屋に上がり込む。
「何のつもり?」
という母の声も耳には届いていない様子だった。
炬燵に入り込むなり、僕に
「翔太、旅に出なさい。」
と言った。
それは唐突だったので、驚いた。
まさか、その言葉を言うために戻ってきたのではあるまいなと思ったが、聞き出してみるなり、その「まさか」であった。
父は理由や動機を話そうとはしない。
母も何も言わない。
その光景に違和感を覚えた僕は嫌になって自室に籠った。
廊下から母の声が聞こえる。
しかし僕には聞き取れない。
それどころではないのだ。
僕の心は葛藤していた。
理由を聞くべきか、断るべきか。
それとも…今からでも出発すべきか。
僕はその晩、眠れずに朝を迎えた。
窓からのやわらかな日差しが僕を照らす。
時計は朝の7時過ぎを指していた。
僕は何も考えずにリュックサックに物を詰めていた。
「僕は一体何を考えているのか。」
それだけが頭に浮かぶ最後の言葉だった。
朝食は抜きで、家から出た。
日曜の早朝だ。
母はまだ眠っており、父は知らぬ間に家を抜け出していたようだった。
誰にも気付かれずに僕がいた住宅地を駆け抜けていく。
寒さに耐えながら、朝の眩しい光に目をくらましながら、僕は無心で電車の駅へと向かった。
電車の駅に着いたところで僕の携帯が鳴る。
友人の悠希からだった。
電話に出なくとも、内容は把握していた。
どうせ、毎週日曜の「お決まり」。
遊びの誘いだろう。
悠希の電話を無視しつつ、僕は8時発の電車に乗って隣町を目指す。
目的もなく、ただ無心で僕の知る小さな世界を駆け巡る。
電車は通勤中のサラリーマンが殆どだった。
少年の僕は彼らに押し潰されそうになりながらも、窓から消えゆく僕のいた町を眺める。
全てが塗りつぶされた世界。
躊躇なく上書きされてゆく世界。
川沿いの工場を通り抜けたとき、僕は一つの思い出を思い出した。
僕は幼い頃、よくこの川沿いで遊んだものだ。
まだ幸せだったはずの一つの家族が川沿いを歩いてゆく。
しばらく進んだときに会った老人。
初対面であるにも関わらず、彼は僕に古い話をいろいろ教えてくれた。
普段親の言うことも聞かない僕が初対面の老人の話に静かに飲み込まれていく記憶が鮮明に甦る。
残念ながら話の内容まで思い出せなかったが、老人の優しげな顔は色褪せることなく今でも思い浮かぶ。
冬の日の電車で甦る故郷の語り部の顔はいつまでも僕を暖かに見守ってくれた。