第二章 運否天賦 5.
5.
呂伯奢の屋敷を後にして、再び孟徳の故郷へと続く道に戻った。
懸賞金を目当てにした野盗は、その後も幾度か出没したが、いずれも馬を駆って、やり過ごせる程度のものだった。
ようやく、譙の県境に近づいた時、文若は「そういえば」と、引っ掛かっていた件を口にした。
「今更だが……孟徳殿。俺が誰だか知っていたよな。もしかすると、洛陽から俺を連れ出したのも何かの裏があってか?」
ここまで来れば、裏があろうとあるまいとどうでもよかったが、何らかの事情があるなら知っておきたかった。
一呼吸の間を置いて、隣で馬に乗っていた孟徳が、髪をがりがりと掻きながらぽつりと言った。
「南陽の名士、何頚*を知っているな?」
忘れようにも忘れられない名だった。
意外過ぎる名をいきなり聞かされた文若は、思わず口をぽかんと開き、次の瞬間大声で毒づいた。
「知っているも何も、あの爺さんのお陰で、俺は故郷にいられなくなったんだぞ!」
予想もしていなかったのだろう。文若の剣幕に、孟徳は呆気に取られたように目を瞬いた。
「ちょっと待て。何頚は、お前の祖父殿の友人だったんじゃないのか?」
文若は、落ち着け落ち着けと、自分に言い聞かせながら頷いた。
「そうだ。お祖父様を訪ねて来る、高名な文士の一人として、俺も子供の頃は普通に尊敬していた。問題はあの爺さんの『人物評』だ!」
世相が不穏になるにつれ、巷では救世主を求める声が増える。
権力者たちは自らの生き残りを賭け、曖昧にでなく具体的に、有能な人物の情報を求めていた。
そんな人々の要望に応えるように、昨今、国のあちこちでは、名士による、人物批評が盛んに行われていた。
中でも、南陽の何頚の観察眼には定評があり、孟徳に向かい『漢王朝は危機に瀕している。天下を救うのは君だ』と評した話は有名だった。
「お前の言う『人物評』が縁で、俺は何頚と友人なんだが……」
「知っている。『乱世の英雄』であり、『乱世の奸雄』殿」
孟徳を「英雄」と評したのが何頚なら、「奸雄」と評したのは、同じく観察眼に定評がある、汝南の名士の許劭である。
奸雄と呼ばれても、孟徳は怒るそぶり一つ見せなかったが、意味ありげに口の端を上げ言い返した。
「それを言うなら、お前は『王佐の才』だろうが」
「その呼び名を、口にするな!」
文若は、反射的に叫んでいた。
『王佐の才』=王の隣にあって、偉業を補佐する才能――の持ち主だと何頚に評され、文若は有り体に言えば人生が曲がった。
「あんたはいい。あの頃は既に官位も戦歴もあって、過激な二つ名をつけられても、箔が付いたくらいだろう。だが俺は、一族にちょっと有名人がいるだけの、小さいガキだったんだぞ」
もともと文若の祖父である、名高い賢人の荀淑を目当てに、教えを求めて来る人間が、後を絶たない家だった。
文若も幼い頃から、祖父の客の話相手などはしていた。だが、何頚の評が世間に広まるにつれ、文若自身を目当てに、人々は尋ねて来るようになった。
それだけでも戸惑っていたところに、噂を確かめようと、議論を吹き掛けて来る暑苦しい輩も現われ、文若は、ほとほと辟易させられた。
「おかげで家にいられなくなっただけでなく、名前をごまかさないと旅もできん!」
旅の目的は見聞を広めることにある。
読んだこのない書や竹簡などが埋もれている場所は、殆どが地方の名士、文士の家で、彼らは大概文若の名を知っている。
己がソレだと露見した場合、相手が好意的な人間であれ好戦的な人間であれ、いずれにせよ面倒事が起こるのが常だった。
「良いことがなかったとは言わない。若輩の分際で著名な先生の話を聞くことも適った。だが、降りかかった火の粉で、焼け出されたような事態に何度陥ったか……」
事情を把握して、孟徳の視線に理解と哀れみが混じった。
「何頚もなあ、悪い奴じゃないんだが、思い込んだら一途というか、他が見えなくなるからな」
孟徳は文若を眺め、しみじみと言った。
「俺も、お前のことは『荀家の才子』って、何頚から何度か聞かされていたからな。己の見つけた才覚を、どうでも自慢したかったんだろうよ」
文若は、ずきずきと痛んできた額を片手で押さえた。
「あの爺さんが本物の祖父なら、孫可愛さで話は済む。だが、一応は南陽の名士で、宮廷の『司空』様だぞ」
文若は、そこではっとして、言葉を切った。
「爺さんも、今は洛陽にいるはずだな? 俺をあんたに頼んで……」
頼んだんだよな?――念を押して訊く文若に、孟徳は軽く頷いた。
何頚なら、文若がこしらえた任命書を調べることも、荀攸から事情を尋ねることも可能だ。
「爺さん自身は、どうしたんだ?」
「お前の身内と同じだ。洛陽からは出ないとさ」
文若がさっと顔色を変えた。
孟徳は眉を顰めて、ふうっと息を吐いた。
「俺も落ち延びろと言ったんだが、天子は見捨てられないとのことだ。もういい歳だしな。最後の奉公だと思ったんだろうよ」
唇を噛み締めた文若に、「あまり気に病むな」と孟徳は告げる。
「残った奴等は残った奴等で、何らかの勝算はあるはずだ」
「そうだな」
頷きながら、文若は急に疲れを思い出したような気分になった。
孟徳が不意に顔を上げた。
眉を寄せ前方を見る孟徳に、遅れて文若も路の前から近づいて来る砂塵に気づく。
旗を揚げた、複数の騎馬が二人の方へ近づいていた。
暫しの緊張の後、孟徳の顔にほっとした笑みが浮かんだ。
警戒している文若に、明るい声で伝える。
「『夏』の旗印が見える。心配ない。あれは、味方だ!」
遠目に二、三十騎ほど見えたが、途中から二騎だけが早足で駆けて来た。
向かってくる二つの騎影に向けて、孟徳は手を振り声を上げた
「元譲! 妙才!」
「孟徳!」
「無事か?!」
「何とかな」
あっという間に近づいて、馬上で肩を叩き合う孟徳らを見て、文若はほっとしたと同時に、全身から力が抜けていくのを感じた。
「文若、この二人は俺の身内だ」
孟徳は文若に向け簡単に説明すると、軽く軍装を整えている馬上の男二人に文若を紹介した。
「元譲、妙才、こちらは荀文若殿という。俺の都落ちに付き合わせた御仁だ。」
紹介された二人の男は、孟徳と同じ位の年恰好だった。
やや年長に見えるほうの男が、短い髭を蓄えた口元に苦笑を浮かべ、文若に向き直った。
男は両手を合わせ、礼の形を取った。
「孟徳と一緒では、さぞやご苦労だったでしょうな。俺は夏候惇、字は元譲と申す。隣りにいるのは、従弟の夏候淵、字は妙才といいます。お見知りおきを」
夏候氏は、前漢の高祖の臣、夏侯嬰で名高い軍人の家系だ。
そういえば、曹嵩(孟徳の父親)殿はそちらの出だったな、と文若は思い出す。
文若も手綱から離した手を、礼の形に合わせた。
「荀彧文若と申します。よろしくお願いします」
口上を告げた気もするが、いずれにせよ、気力と体力の限界だった。
文若の視界が揺らいだ。
妙才と紹介された青年の精悍に引き締まった顔に、驚きの表情が浮かんだのが、文若の目に映った最後の光景だった。
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*何頚…正確には『何顒』。ギョウの字が機種依存にしかないので、別の字を当ててます。
*司空…宮廷の高官。三公の一つ。
*奸雄…奸知に秀でた英雄。
……第二章終了です。
楽しんでいただいてますでしょーか?
ようやく曹操の股肱の臣、夏候惇が出せました。
中華系物語の常として名称が馴染みにくいですね。
(解説ばっか入れると読みにくくなるしー(T_T))
第三章の前に人名、地名その他のまとめを出せたら、と思ってます!