第二章 運否天賦 3.
3.
どれくらい経った頃か、前を向いたままの孟徳から、独り言のような問いかけが聞こえた。部屋の外の音は、完全に途絶えていた。
「不服か?」
文若は、迷わず首を振った。
「いや。どんな理由があっても、他人の命を狙ったんだ。己の命で購ってもらうことに異論はない」
本心だった。
たとえこの屋敷への招きを断っていても、別の、恐らくはもっと強引な方法で、呂伯奢は孟徳と文若を襲って来ただろう。
その時に二人が命乞いをしても、通ったとはとても思えない。
「いちいち刺客の命に同情していたら、命が幾つあっても足りゃしない」
文若の日常でさえ油断すれば刃が飛んできたし、孟徳の周囲はもっとずっと騒がしかったろう。
「……ただな、どうして呂伯奢の最後の言葉を嘘だと決めた?」
謀は暴かれ、助けも来ない。
ぎりぎりまで追い詰められていた状況で、呂伯奢が嘘をつく利はなかった。
それは、孟徳にだって分かっていただろう。
「董卓に、人質を使った駆け引きができるとは思えん」
文若は、都に入ってきてからの董卓を思い浮かべ、少し考えた。
「やっていた行為は、残虐で粗雑のように見えても、それくらいの知恵が無い人間だとは思わなかったが……?」
孟徳の口の端が、吊り上がった。
「あの獣は頭が切れるぞ。皆、分かり易い獰猛な行動に、目を取られるがな。することには無駄がない」
きっぱりとした口調だった。実のところ文若も、同じように感じていた。
既に腐っていた土台……旧秩序の、完膚無きまでの破壊。その上に新たなる秩序を、圧倒的な暴力によって、打ち出そうとしている。
方法としては即効性があり、至極合理的だ。
この改革が功を奏せば、董卓は漢帝国の滅亡を救った一代の英傑として、後の世にその名が謳われるだろう。
しかし文若は、国の礎が暴虐の果てに成立するとは、思っていなかった。
(礎とは、すなわち民、人だ……血と涙だけでは固まらない)
董卓には、別の意見があるだろう。だが、文若はそう信じている。
「人質を取るのは、無駄な行為か?」
「賭けてもいい。董卓なら商人相手に、そんなまどろっこしい真似はせん。人質を取らねば動かぬ人間なぞ、その場で首を刎ねるだけだ」
孟徳は無造作に酒器を取ると、己の杯を満たして呷った。
「なら、騙されていたというのはどうだ? 董卓か、その下の誰かに」
巷に貼られた、孟徳の手配書に書かれている懸賞金の額は、少なくなかった。
目が眩む者が出ても、不思議はない……とはいえ、呂伯奢にしてみれば、それしきの金などあまり意味を持たないだろう。
「それは、ありそうな話だな」
孟徳はあっさりと認めた。
「じゃあ、何で嘘だとしたんだ?」
うーんと唸り、孟徳は首を伸ばすようにして、頭を少し後ろへ傾けた。
「そもそも大商人は、洛陽を出られない仕組みになっておる」
「財産を捨てても、か?」
「着の身、着のままなら出られもするが、案外これが捨てられんのだ」
人の欲の深いところだな――孟徳は他人事のようにつぶやいた。
「商人連中は、都の支配者が替わったら替わったで、その下でまた、同じ商売ができると思っておる」
「相手にも、よるだろうに……」
文若のぼやきに孟徳は大きく頷いた。
「全くだ。あれだけ、街を蹂躙されても逃げ出さん。落ち着けば、元に戻ると高を括っているのだ」
「握っている物が多いと、重過ぎて動けないって訳か」
そういうことだ、と相槌を打ち、孟徳が椅子に背を預けた。
「そうやって後生大事に抱えた財産も、やがては没収され、抵抗したところを、殺される手筈になっている」
今度は、文若が天を仰いだ。
「救いようがないな」
「おうよ。だからな、呂伯奢が誰に騙されていたとしても、どの道、財産は没収。都に残った身内は皆殺しだ。おそらくもう、生き残りは一人もおるまい」
椅子に背を預けたまま、ゆらゆら杯を振りながら、孟徳は付け加えた。
「迎えに行った息子も、すぐに斬られる……そうなってまで、生に執着する人間には見えなかったからな」
聞いていた文若は二度、三度目を瞬くと、信じられない思いで眉を寄せ孟徳を見た。
「だから斬ったっていうのか……?」
返事はなかった。文若はふうっと息を吐いた。
「……ご親切なことだな」
思わず出た言葉は、皮肉ではなく、どちらかと言えば呆れた口調になった。
孟徳は何の屈託もないかのように、しれっと応じた。
「呂伯奢の財産の問題もあるぞ。この屋敷をむざむざ、董卓にやるのも癪だろう?」
一個人の蓄財として多いのは確かだが、この屋敷を処分しても、百人の兵士を一年も養えまい。
(しかもこの一件は……)
傍から見れば、匿い、供応してくれた親切な商人の一行を、孟徳が口封じのため、皆殺しにしたとでも取られかねない。
好んで悪評を買うのは勝手だが、入って来るものと出て行くものの割が合っていない、と文若は思った。
孟徳は、呂伯奢に企みがあるのを知っていた。今までの追手のように、振り切って逃げることもできたはずだった。
文若は、舌打ちしたい気持ちを抑え、深く息を吐いた。
近くに転がっている杯を取って、孟徳の前にあった酒器を取り酒を注ぐと、一気に飲み干した。
「何を怒っている?」
不思議そうに問われて、文若は吐き捨てた。
「間尺に合わない話が嫌いなんだ」
真っ当に稼いだ金が、不当に奪われること。
結んだ約定が簡単に覆ること。
信義が踏みにじられること。
或いは、他人の絶望を減らすために自身の手を汚すこと……そんな話を聞くたびに、文若は自分が責められているように感じる。
「おかしなことを言う。この世は、そんな話ばかりじゃないか?」
「分かっている! だから俺は怒ってばかりだ」
くっくっと孟徳は笑いながら、空になった文若の杯に自ら酒を注いだ。
「怒れる奴は理想が高い。今の世にお前は、名を残すか、墓も作られないか、どちらかだな」
「ぶつくさ文句を言いながらも、書類を整える小役人が関の山だろうよ。何にせよ、死んだ後に興味はない」
言い放って、酒を口にする文若の耳に、「潔いな」という言葉が届く。
まるで傍観者のような孟徳の声に、いらだちと僅かな違和感を覚えて訊き返す。
「あんたは、名を残したいのか?」
「乱世に生きていれば、当たり前じゃないか?」
気負うでもなく、まるで興の乗らない詩でも詠むような、そらぞらしい調子だった。
それでなくとも『当たり前』が、この男には似合っていない。
文若は、訊き方を変えてみることにした。
「混沌としたこの国の、覇者になろうと思うのか?」
今度の言葉は、孟徳の何処かに届いたようで、静かだった目に、ふっと真剣な光が灯った。
「俺が欲しいのは、俺の居場所だ。この世に生まれ、天子以外、他の何人にも額づかずに済む場所があるのなら……」
そこへ行くためになら……吐息のような声が深閑とした部屋に響いた。
「俺は、何にでもなるだろうよ」
のどの渇いた者が水を欲しがるような、自然で、それでいて真摯な言葉だった。
孟徳という男の片鱗がのぞいた気がした。
文若が捉えた輪郭は、都の人々の喝采を浴びた警備長官でなく、豪放快活な皇帝親衛隊の将校でもなかった。
(道の途中で、見えない前に、じっと目をこらして座っている……)
徒手空拳の、一人の男の姿だった。
ただそれは、まだ曖昧だった。
眇めた目で見ても、暑い日に見える陽炎のようなものだった。
観察が足りないというより、まだ孟徳自身が固まってないんだろう――そう判断すると、文若の肩からすっと力が抜けていった。