第二章 運否天賦 2.
2.
呂伯奢の一行は、積荷を乗せた大きめの荷車が一つと、従者が七人ほどだった。
県境の壁の上と門の脇には、槍を持った守兵が左右に九人づつ並んでいた。呂伯奢の一行が近づくと、兵は一行を取り囲んだ。
隊長らしき兵士が、誰何の声を上げる。
「止まれ! 名と行き先、用件を述べよ!」
呂伯奢が一歩前に進み出た。
「都で商いをしておりました、呂伯奢と申します。高齢になりましたので引退し、故郷の徐州に帰るところにございます」
しばらくして前方の兵士が退き、太った役人が大儀そうに出て来た。呂伯奢は地面に膝を付き、頭を地に擦り付けるように下げた。
「荷物に比べ、供の数が多いようだが?」
甲高い役人の声に、呂伯奢は悲しそうに首を振った。
「荷物のほとんどは洛陽の門を出る際に没収され、残った物はもう……これだけになってしまいました」
哀れを催す、細く枯れた声だった。
「ふむ」
役人はまだ何かを逡巡している様子だった。
呂伯奢は屈んだ姿勢のまま、おずおずと一歩、膝を前に進めた。
「我らがこうして旅を続けていられますのも、ここにおられる皆様が、命を賭して門を守られ、賊を追い払って下さるおかげでございます」
呂伯奢は懐から、ずっしりとした拳程の袋を取り出すと、両手で役人の眼下に掲げた。
「些少ではありますが、これからのお仕事にお役立て下さい」
役人は、さっと袋を受け取ると己の懐にしまった。
「うむ、よい心がけだ。よし通れ!」
兵士が両脇に下がり、その間を荷車はゆっくり進んで行く。
荷車を押す使用人に紛れていた文若は、深く被った笠の下から、役人の不正を苦々しく見守った。
少しも珍しい光景ではない。
今は国の上から下まで、こんな調子だ。
そのうち、不快に思う文若などが間違っていて、賄賂そのものが正しい行為になるのではないかと、不安になる程に。
もっとも今回の場合は、役人らが職務に忠実であれば、文若たちが困る事態になる。
(一方的に嘆くのは、虫が良すぎるな)
文若は頭を振って、出口のない思考を追い払った。
県境の壁が完全に見えなくなる所まで進むと、呂伯奢は孟徳を積荷の下から出した。
「もう日も暮れます。今日はこの先の村にある私の別邸で、お休みになられては如何でしょう?」
深く頭を下げた呂伯奢の提案に、孟徳は頷いた。
「そうだな。世話になろうか」
喜色を表す呂伯奢を後目に、文若は不満げな表情を隠さず孟徳を睨んだ。
「機嫌が悪そうだな。この数日野宿ばかりで、お前だって疲れているんじゃないか?」
「そりゃあ疲れてる。だがこんな場所は、早く通過するに越したことはないと思うが?」
日暮れまで駆ければ、明日の昼にはだいぶ都から遠くなる。
まだ敵地とも言える場所で、のんびり供応を受けていて良い状況ではないはずだ。
孟徳は抗議の視線をいなすように文若に近づき、肩を軽く叩いて横に並んだ。
「そう焦るな。お前の言う『こんな場所』で、何が起こるか見たいじゃないか」
耳元近く囁かれる言葉に、文若は『それは何だ?』と目で問うたが、孟徳はただ薄い笑みを口元に浮かべているだけだった。
案内された呂伯奢の別邸は、村の集落から少し離れた場所にあった。
周囲には竹薮があり、さわさわと流れる風が趣を添えている。
こぢんまりとした門から中へ入る路は、人が行き交える程度の幅しかなかったが、開けた場所に辿り着くと、屋敷の屋根が連なって見えた。
「広いな……」
思わず声が出た文若に、呂伯奢は控えめに微笑んで、頭を下げる。
「都の方から見れば、ただ広いだけで、中は田舎の荒ら屋でございますよ」
二人は、こざっぱりとした身なりの家人らに引きあわされ、母屋に通された。
幾つかの棟が奥に広がり、それぞれが回廊で結ばれている。
ちょっとした豪族の邸宅だった。
「別邸でこれか。立派なものだな」
孟徳は回廊に出て、屋敷の中心にある整えられた庭を見ていた。文若は柱に彫られた緻密な文様に目を細めてつぶやく。
「荒ら屋が聞いて呆れるが……商売が成功していたんだろう」
通された客間に、さりげなく飾られている工芸品からも、呂伯奢の家の豊かさは実感できた。
文若は何代もの間、宮廷に高官を送り出した家で生まれ育った。畢竟、『宝物』と呼ばれる品は、見馴れている。
「これだけの物があれば、洛陽から財産を持ち出せなくても、楽隠居できる……よな?」
歯切れの悪い文若の言葉に、孟徳が振り返った。
「どうした?」
「なあ、呂伯奢の店は、まだ洛陽にあると思うか?」
「畳んで来たのではないか? 今の洛陽じゃ、商いにならんだろう」
洛陽の街の様子を思い出し、文若は暗い気分になる。
そうだ。目端の利く商人なら、幾ら都といってもあれだけ混沌とした洛陽からは、早々に撤退するだろう。
しかも呂伯奢には、この屋敷のように外に充分な財産がある。
「そうだよな」
文若は頷いた。
全てを持ち出したにしては少ない、没収されたにしては多い、中途半端な量の荷物。
主人一人と、使用人だけの一行。
呂伯奢の家族は、洛陽にいなかったのか?――等、文若の頭の中に幾つかの引っ掛かりができていた。
だが決定的な情報は不足していて、どれも明確な形には至らなかった。
ぼやっとした思考に体と頭の疲れを感じた頃、下働きの若い女が、孟徳と文若を迎えに来た。
「夕餉の支度が、調いましてございます」
恭しく案内された部屋では、既に中で待っていた呂伯奢が、二人を上座へと案内した。
「このような場所では、気の利いた物は、ご用意できませんが……」
急ごしらえとは思えないほど種類も量も豊富な膳は、呂伯奢の前置きを裏切っていたが、文若は食が進まなかった。
空腹は感じているものの、どうにも気分が落ち着かない。
一方、孟徳はくつろいだ物腰で、呂伯奢から酌を受けていた。
「お供の方も、どうぞ」
笑顔で差し出された酒器を、文若はやんわりと手で押しとどめた。
「いえ、私はもう……」
「そいつは、俺の従者ではないぞ」
盃を口に運びながら、孟徳があっさりと呂伯奢の文若への呼び掛けを否定した。
「は? それでは……」
「宮中の守宮令殿だ。いや今は、亢父(こうふ・山東省済寧の南)の令だったかな?」
文若は目を見張って孟徳を見た。
孟徳はすました顔で、酒を飲んでいる。
結局、ここまで名を尋ねられなかったから、宮中のどこかですれ違っていたのだろうとは思っていた。
(それが、都を抜けた後のために便宜上整えた官名までを、何故知っているのか?)
文若と同じ部屋で働いていた、官吏たちにも知られていない筈の情報である。
孟徳の官位なら調べられないことはないが、任命書は広大な書庫の中だ。誰が探すにせよ、あの混乱した宮中で見つけるには、結構な時間がかかるだろう。
「これはこれは、知らぬこととはいえ、ご無礼を…!」
驚く老人を、孟徳は冷笑を浮かべて見ていた。
「洛陽からの直々の手配書に、こいつの名まではなかったか? 呂伯奢」
「は……?」
「まあ、それが分かっただけでも、ここに来た甲斐はあるか」
呂伯奢の額に大粒の汗が浮かび、顔が見る間に白くなっていく。
「そ、曹操どの……」
突然、廊下へ続く扉がバタン!と開き、血まみれの男の身体が部屋の中に投げ出された。
給仕をしていた女たちが、甲高い悲鳴を上げる。
孟徳は、平然と盃を傾けたままだった。
「わざわざ息子を使って、洛陽まで注進とは、大した忠義だな」
弾けるように、呂伯奢が立ち上がる。少し遅れて、椅子が渇いた音を立てて倒れた。
立ちつくしたままおそるおそる下を向き、投げ出された男の顔を見た呂伯奢は、喉が張り裂けるような悲鳴を上げた。
文若は腰の刀に手を伸ばしながら、事の成り行きを見つめていた。
「あの……死体は、呂伯奢殿のご子息か?」
この屋敷で何が起こっているのかが、徐々に分かってくる。
「おう。ここで網を張って、俺を待っていたらしい。家族が総出で、ご苦労なことだ」
部屋の外から、物がぶつかるような音と微かな悲鳴が届く。
この部屋にいるのは、文若、孟徳、呂伯奢と、女が二人だけだった。
文若は腰を浮かせかけたが、孟徳に留められる。
「心配は要らん。座っていろ」
その言葉通り、程なく騒ぎは収まった。
俄かに訪れた静寂の中、扉がキイっと小さな音を立てて開き、簡素で暗い色の服を着た男が二人部屋へ入って来た。
二人は、孟徳の前に跪いた。
鼻から口元が隠されていたので、洛陽突破の際にいた、孟徳の兵士と同じ人間かどうかは分からなかった。
孟徳が頷くと、男の一人は呆然自失したままの女二人を、抱えて外へ連れ出した。
もう一人の男は、座り込んでいる呂伯奢の身体を立たせ縄を掛けた。
腕を後ろで縛られた呂伯奢は、不意に正気を取り戻したらしく、孟徳に向け、倒れ込むように平伏した。
「申し訳ございません! 都にはまだ、私の娘夫婦が残されているのです! あなた様を捕えたという報せと引き替えに、城門の外へ出される約束だったのです!」
「董卓とか?」
呂伯奢は、平伏したまま何度も激しく頷いた。
孟徳は、不快げに眉を寄せた。
「本当の事情は、話す気がないと見えるな。言い残すことはあるか?」
呂伯奢だけでなく、文若もぎょっとして孟徳を見た。
「そ、孟徳殿! 私が、なぜ嘘を……!」
「お前の理由なぞ、俺が知るものか」
冷然と言い放つと、孟徳は「連れて行け」と、麾下に向かって顎をしゃくった。
呂伯奢の悲鳴は徐々に遠ざかっていき、部屋は内外から漂ってくる血臭と、沈黙に支配された。
文若は、孟徳と並んで、腰を下ろしたままだった。
この部屋だけ、外の世界から切り離されたような気分になった。