第二章 運否天賦 1.
1.
曹操、字は孟徳。前漢の宰相であった、曹参を祖としている。
だが、父親が宮廷で強い権力を持っていた宦官、曹騰の養子に入ったため、後漢の宮廷では曹騰の孫として知られている。
手に余るほどの財貨を持ち、権勢を誇る宦官には、養子を持つことが認められていたのだ。
孟徳は二十歳で孝廉に推挙され、以来幾つもの職務についたが、その都度、
『功を上げ、上層部の腐敗を指摘し、官職を辞する』
を、繰り返した。
184年に起きた『黄巾の乱』の際も、数万名の一揆軍を滅ぼした功により済南の郡守に任命されたが、朝廷内の一部に不興を買い、あっさり官位を返上している。
だが時代は混沌へと舵を切っており、次々と続く動乱が、孟徳を野に放ってはおかなかった。
再々度、都に召し出された孟徳は、霊帝から直々に西園八校尉(皇帝親衛隊)の一人に任命された。
……その後、一年も経たない内に霊帝は没し、都に董卓がやって来たのである。
「董卓は、俺を驍騎校尉(西園軍筆頭)に任命してやる、と言ってきた。軽く見られたものだ」
快活な笑いが、文若の耳を打つ。
「官位が不足だったのか? いや、あんたは違うな」
未整理の疑問を、文若はそのまま口にした。
聞きようによっては、ひとを馬鹿にしたような相槌を、まったく気に懸けた様子も見せず、孟徳は回答を告げる。
「俺が、あんな獣の下に付くと思われたところがだ」
孟徳の口元にも、獰猛な笑みがあった。
笑い顔のせいだけではないが、この男自身も獣のようだと文若は思った。
不快に映らないのは、持ち前の明るい気質のせいだろう。
実際、多少砕けているものの、見てくれは堂々たる貴族の子弟である。外面も荒々しい董卓とは大違いだった。
だが今、行き交う民から孟徳に浴びせられる視線は、容姿ゆえのものではなかった。
文若も、ちらりと視線を横に流した。孟徳の無防備に曝された顔が目に入る。
再び視線を前に戻すと、文若はふうっと息を吐いた。
「……少し、堂々としすぎてやしないか?」
「こそこそするのは、性に合わなくてなあ」
欠伸をしながらの間延びした言葉通り、華々しく洛陽の門を突破してきた孟徳には、朝廷――董卓から多額の賞金が掛けられていた。
今では似顔絵と特徴を記した手配書が、行く先々の郡壁に貼られている。
「まぁこそこそ動いても、どうせあの門は通れないか……」
諦めて遠方を仰ぎ見る。文若の視線の先には、中牟県の堅牢な城壁と門があった。
孟徳の故郷である譙へ戻るには、どうあっても通らねばならない関所だ。
文若には、譙まで同行する義理はない。
だが、命からがらとはいえ、洛陽から落としてもらった借りは感じていた。
追手を振り切った後も、孟徳の手回しはよく、ここへ着くまでに馬も何度か替えている。
(急いで、一族と合流せねばならん理由も無いし……)
不安定な社会状況を考えれば、一族と合流する理由はあるのだが、文若にはむしろ一族を避けたい理由もあり、積極的にはなれなかった。
またそれ以上に、孟徳のこの強気な逃亡劇の行末にも興味があった。
(だからと言って、見物料を命で払うっていうのもなあ)
割に合わない――。どうしたものかと考える文若の耳に、しゃがれた声が届いた。
「お困りのようですな」
文若が振り向くと、白い髭を長く伸ばした、富商の隠居という風情の老人が一人立っていた。
周囲に人が潜んでいる気配はない。警戒心を幾らか解き、文若は穏やかな口調で問い返した。
「貴方は?」
老人は両手を組んで胸の前に挙げ、恭しく頭を下げた。
「私は洛陽で商いをしておりました、呂伯奢と申す者です。失礼ですが、そちらにおられるのは、曹操将軍ではありませんか?」
文若が声を掛けるまでもなく、既に孟徳は値踏みをするように呂伯奢を見ていた。
口元にうっすらとした笑みを浮かべたまま、孟徳が応じた。
「尋ねられても『はい、そうです』と、気楽には言えぬ立場だがな」
呂伯奢と名乗った老人は、鷹揚に頷いた。
「天下の英雄が、時の権力者に罪を着せられ流浪するなどは、古来よくある話でございますよ。斯くいう私も、国の騒乱に心を痛める者の一人です」
どうでしょう?――と呂伯奢は孟徳に向かって尋ねた。
「私に僅かばかりの、お手伝いをさせてはいただけないでしょうか?」
具体的には、『故郷へ帰る途中の呂伯奢一行に紛れて、関所を通過してはどうか?』との提案だった。
「お前は、どう思う?」
孟徳が、黙ったままの文若に話を振った。
「願ってもない申し出だがな……」
いささか、都合が良すぎる気がしないでもない。
孟徳の行き先が故郷の譙である以上、中牟県辺りで困ることになるのは誰でも予想がつく。
「願ってもないなら、受けるか」
「良いのか?」
『生死に関わる選択をそんなに簡単に決めて』と、目で問う文若を、孟徳は曇りのない、鏡のような目で見返した。
「この先、俺にまだ為すべき使命があるのなら、天も俺を生かしておくだろうよ」
孟徳の不遜な態度に反発を覚え、文若は鼻を鳴らすようにして問い掛けた。
「天命なくば、死んでも構わぬと?」
「そうだな」
孟徳はおどけたように眉を上げ、あっさり応じた。
自棄のようには聞えないが、潔いのとも違う気がする。
未だ得体の知れない相手に、文若は「お前はどうする?」と視線で問われる。
空を仰ぎ、しばし視線を彷徨わせた後、文若は覚悟を決めて頷いた。
「行こう。俺にも天命があれば、生き残れるだろう」
やはり見物料は高いらしい。文若は自虐的に口の端を上げた。
(だが、これから為すべき『天命』が残っていないのなら、洛陽から命辛々、逃げ出してきた甲斐がないではないか?)
理由はどうあれ、同族の荀攸を都へ見捨てて来た苦さは、しばらく文若の胸から消えそうにない。
(己を天に試したいのは、孟徳ではなく自分なのかも知れない)
皮肉なものだと、文若はつぶやいた。