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第一章 魔都脱出 4.

4.


 城門を突破して、喧騒からは遠ざかったというのに、なぜか胸騒ぎは止まなかった。隣で走っている男も、馬の速度を緩めようとしない。


「篝火を消したのは、あんたの手下だな?」


 廃屋にいた女の言っていたことを、文若は思い出していた。


「おう、検問所にあった弓の弦も切っておいたぞ。ついでに、繋いであった馬も盗んだはずだ」


 男は逃げるのに有利な情報を幾つも教えてくれたが、文若の気はまるで休まらなかった。背後からは何かが迫って来る気配が、濃厚になってくるばかりだ。


「なあ、今の話が本当なら、後ろから聞こえて来る馬のいななきはなんだ? 恐怖のあまりの俺の幻聴か?」

「いや……」


 男は後ろを向き、距離を測って声を張り上げる。


「あんな良い馬が検問所にいる訳がないな。早過ぎる! 董卓軍の兵士だろう」


 文若も振り返ろうとしたが、止めた。

 背後から迫ってくるざわめきの中に、馬の嘶きとも違う奇妙に甲高い叫びが、混じって聞こえるのだ。


「辺境の蛮族は、狩りの際奇声を発するそうだ!」


 男の解説に、文若は眉をしかめた。


「……中原にいるというのに貴重な体験だな」


 通常であれば、珍しい現象にはどんなものでも興味以上を持って接する文若でも、今、追われる立場で聞きたい声ではなかった。


「涼州兵は、馬の扱いが違うな!」


 文若の暗いぼやき声と対照的に、感嘆のつぶやきが、凛と夜風を震わせた。文若は思わず声を荒げた。


「感心している場合か! あんな連中、まともに相手できるか!」

「まあ、俺にも無理だ。もう少し耐えろ」


 何か当てがあるのか尋ねる前に、左前方から新たな蹄の音が聞えてきた。

 新手か?――と心臓が鷲づかみにされた文若に、男の「助かりそうだぞ」という声が届いた。

 前方より駆けて来た二騎は、城門を脱出する際、男と文若を護っていた兵士のようだった。

 城門から出た後、彼らはいつの間にか姿を消していた。


「洛陽からの避難民を狙っている、盗賊を焚き付けました」

「でかした!」


 男と部下らしき兵士との会話から、文若は凡その見当をつける。


「噛み合わせるのか?」

「そうだ」


 男は馬の速度を緩めた。文若も男に合わせた。一騎だけで走れば、それこそどちらからも襲われる。


「剣の腕は、訊かなかったな?」


 男の手には、既に剣が握られている。


「兵士じゃないんだ。当てにはするな」


 言い返しながらも、文若は腰に差していた剣を抜いた。慣れた仕草を見て、男が揶揄する。


「お前を文官と思うのは、どんどん難しくなってるぞ」

「余計なお世話だ!」


 反射的に怒鳴り返しながら、自分の素性は割れているのかもしれないと文若は思った。相手が『曹孟徳』なら、宮城のどこかですれ違っていても不思議はなかった。

 文官として上がった宮城では、当然、剣を振る機会などなかった。

 日々、筆を握り書簡を扱い、簡単に柔らかくなってしまった掌に、鋼の感触は堅く重い。


 簡単な護身術は故郷にいた時に習っていたが、剣を使いだしたのは旅に出てからだった。

 剣の腕と比例して、言葉が徹底的に悪くなったのも、旅の成果だ。


『文若の見てくれに、丁寧な言葉遣いじゃ、襲われても文句は言えない』


 ずけずけ言ってくれたのは、旅先で知り合った年下の友人だった。

 実際それまでに、何度も危ない目に遭っているので、文若は怒る気も失せて『分かった』と頷いていた。

 おかげで今では、そこいらの無頼の輩に負けず劣らず悪い口が利ける。


 男は、ゆっくりと馬を止めると、追手に向き直った。

 おもむろに懐へ手を入れ、腕が隠れる程の袋を取り出し、追い掛けてきた涼州兵に向かって振る。

 馬を止めて対峙した兵士達に、男は提案した。


「ここに金が入っている。すまんが、これで見逃してくれないか?」


 追手は五人いた。中の一人が前へ出てきて「それを寄越せ」と怒鳴った。


「助けてくれるのか?」

「中を確かめてからだ」


 男は頷くと、重みで下の膨らんだ袋を追手に向けて放った。

 受け取った兵士は中を見て、舌舐めずりをしそうな顔で笑うと、「やっちまえ!」と刀を振り上げた。


「強欲どもが」


 ぺろりと端の上がった唇を舐めて、男が刀を握りなおした。

 他の二人と文若の元へも、涼州兵たちは襲いかかって来た。文若も覚悟を決め必死で応戦したが、二、三合ほど打ち合っただけで手が痺れてきた。

 故郷を離れて以来、不本意な揉め事には幾度も遭遇した。

 幸か不幸か、そのたび文若の剣の腕は上がっていた。だが所詮は素人である。

 技量的にも体力的にも、実戦慣れしている兵士に敵うものではない。


「刀が違うんだ。受けるな、流せ!」

「やっている!」


 何度目かのひやりとした感覚が、文若を襲ってきた後、ようやく複数の蹄と剣の音がガチャガチャとその場に聞こえてきた。

 音より少し遅れて、盗賊の一群がその場にぞろぞろ現れた。


「見ろ! お宝は、あの野郎が握っているぞ!」


 高らかな男の声を合図にしたように、どこからか矢が一本放たれた。

 飛来した矢は、一瞬、時が止まったような戦場を縫い、涼州兵の馬の脇に括り付けてあった袋を正確に串刺した。

 夜闇にザラザラと甲高い音を響かせながら、大量の貨幣が踊るように砂の上に落ちた。

 月明かりに照らされた金や銀の光に、盗賊たちが一斉にどよめいた。

 涼州兵本人が一番拾いたかっただろうが、殺到した盗賊相手に、それもままならない。

 金を拾う者、金を奪う者、刀を揮う者、斃れゆく者――下弦の月の下、血生臭い情景が熱く繰り広げられる。

 その生々しい光景に思わず目を奪われた文若の頭を、ぱしっと誰かが叩いた。


「逃げるぞ!」


 闇の中、そこだけ光っているような男の目と合った。


「おう!」


 文若は慌てて頷き男を追う。

 手綱を強く握り締め、後はもう振り返らず、駆けるだけ駆けた。


「もう大丈夫だ」


 ……との声がして、馬を止められた時には夜は明けていて、文若の頭の中は、空っぽになっていた。

 乗っていた馬が力尽き、自分ごとどさっと倒れても、何の感慨も湧いてこない。

 残った力を振り絞り、馬から離れた文若は、強張っていた両手をのろのろと開いた。

 しばし見つめると、思わずというふうにその手を蒼穹に翳した。


「よく、指の一本たりとも欠けずに、残っていたもんだな……」


 刀の血を拭っていた男が、顔には返り血を浴びたままで、「おう」っと笑った。

 文若も、己の口元が緩んだのを感じた。

 硬直していた身体と思考が、砂のようにさらさら解けていくのを感じながら、文若は乾いた大地に身を沈めた。




―――――――――――


第一章 了



楽しんでいただけたでしょうか?

次章は割と有名なあの事件です。


再見!



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