表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/32

第一章 魔都脱出 3.

3.


 文若が連れて行かれた場所は、街の外れの寂れた一角だった。

 時折、人の気配は感じるが、夕暮れ時なのに煮炊きの煙一つ上がっていなかった。

 半壊した建物も多く、その荒んだ様子に文若は気分を沈ませた。

 前を行く男は、慣れた様子で荒廃した街をすたすたと歩いている。

 結局、男は一度も振り返らず、表に並んだ店の一軒に入って行った。


 以前は食堂でもやっていたのだろう。

 壊れた卓と椅子が、辺りに散らばっている。

 廃屋めいた薄暗い奥からのっそりと、腰が深く曲がった老婆が現れた。

 乱れた白髪が顔にばらばらと掛かっていて、表情は見えない。


「俺の客人だ。預かっていてくれ」


 老婆は緩慢に頷き、また奥に消えた。その背を見送っていた文若は、再び表に出て行こうする男に気づいてはっとした。

 文若はあわてて、その背に声を掛けた。


「待て! ここはなんだ?」

「今の洛陽で、一番安全な場所だ」


 簡潔になぞらえ、男は目を細めて店の中を見た。


「荒らされるだけ、荒らされたからなぁ」


 感慨深げなつぶやきには、どこかに悲哀が混じっていた。

 文若は詰問しようとする気勢を挫かれた。


「夜には戻る」と残し、男は立ち去った。

 他に当てがある訳でもないし、乗りかかった船である。

 今さら逃げ出す気も起きず、文若は腹をくくった。

 倒れている椅子の中から、比較的形を保っている物を引き起こすと、立ち上る埃を手で払って腰掛けた。


(何事もなければ、明日また出直せばいい)


 己に言い聞かせるように考えると、椅子の上で静かに目を閉じた。

 やがて日が落ち、外は暗くなっていった。

 灯りの点らない家屋は、外以上に暗くなる。

 文若はふと、先ほどの老婆はどこにいるのだろうかと思った。

 それというのも、奥からはまったく人の気配がしないのだ。

 静かな薄い闇が支配する中、他にすることもない。

 文若はためしに、奥の暗がりに向かって「申し訳ないが……」と声を出してみた。


「……ぁい」


 距離が測れないくらい、聞き取りづらいしゃがれた声だった。ひっそりとしているが、奥にいることは確からしい。

 言葉が交わせるのならばと、文若は最初からの疑問を口にした。


「私をここへ連れてきた武官……あれは、どこの何という人でしょうか?」


 このような場に留まっている方も尋ねる方も、いずれも訳ありだろう。 だからあまり返事は期待していなかったが、一瞬の沈黙の後、押し殺した息のような音が聞えてきた。

 奥を窺うと、黒い影が小刻みに揺れているのが見えた。

 むせているのか?と駆け寄ろうとしたが、よくよく見れば笑っているようだった。

 文若は息を吐いた。


(確かに。こんな場所で見ず知らずの人間を待ってるってのは、間抜けだよなあ)


 天井の染みを見ながら、他人事のように思う。

 別段腹は立たなかったが、老婆は笑ったままで答えそうもない。


(もしかしたら、男の名を言いたくないのかも知れないな)


 それはそれで仕方ない――目の前にある汚れた卓の上の埃を、申し訳程度に払い肘を付くと、文若はほとんど口を開かずに愚痴をこぼした。


「何で今日になって、警戒が厳しくなっていたんだか……」

「さぐじつぅ……袁紹殿がぁ、ご自分のご領地にぃ、お逃ぃげになられたからですぅ」


 届いているとは思わなかった文若は、がばっと体を起こした。

 奥から流れてきた声は明瞭ではなかったが、意味は明快だった。驚く文若に構わず老婆は続けた。


「商人の従者に化げでぇ、城門を抜げられだぁそうですぅ……。お陰でぇきょうぅは、通るぅ人がぁ一人一人ぃ、笠の中までぇ調べられておりますぅ……」


 何となく耳が痛い。

 結局自分は、あの男に助けられたのかと思う傍ら疑問も湧く。


「ですが、もう逃げられたのですよね?」


 なら今更、警備を厳しくしても仕方ないんじゃないかと、文若は思う。


「もっどぉ、逃ぃがしだぐないお方がぁ、まだぁ、城内にぃ残っていらっしゃるからぁでしょう」

「それは……」


 誰かと尋ねようとした時、表に馬の嘶く声がした。

 身構える間もなく、カシャカシャと金物が触れ合う音をさせて、あの男が入ってきた。

 武官としての具足に身を包んだ、まるで戦場に向かうかのような姿を見た時、文若の脳裏を微かに過ぎるものがあった。


「待たせたな、行くぞ」


 掛けられた声に、思考が中断される。


「ご苦労だったな」


 いつの間にか、文若のすぐ後ろに来ていた老婆が、地に両膝を付いて、ちんまりと頭を下げていた。


「回せるだけのぉ、手は回しましだがぁ、容易には行ぎまずまいぃ。御武運をぉ……」

「そんなものは天から奪う!」


 老婆の間延びした口上を快濶な一言で遮り、男は文若を促して外へ出た。

 そこには一目で駿馬と分かる馬が二頭、文若と男を待っていた。

 男はその一頭にひらりと乗ると、もう一頭を文若に示した。


「馬には乗れると言ったな?」

「言ったが……ここから乗っていくのか?」


 死んだような街から、いきなり威勢のよい馬が駆け出せば、とんでもなく目立つんじゃないだろうか?

 男はしれっとした顔で、満天の星空を見上げた。


「城門を越えたいんだろう? 多少の危険が伴うのは仕方あるまい」

「……多少で済めばな」


 馬には乗ったものの、とてつもなく嫌な予感がしてきた。だが、ここで尻込みしても始まらない。

 諦めて馬を軽く歩かせると、伸びた影が目の端に映った。

 後ろを振り返ると、ほのかな月に照らされた人影が一つ、二人を見送っていた。

 影は老婆と同じ着物を纏っているようだが、どういう訳か、腰はすっきりと伸び、うっすら浮かび上がる顔には、皺一つ見当たらなかった。


(……主人が、雰囲気を好きに変えられンなら、部下は歳格好を自在に操れるって話かよ)


 文若は手綱をぐっと握りしめた。

 有り難いことに、力が漲ってきたようだった。


「嫌みな主従だな!」


 騙された恨みを思わず口に出すと、一拍置き、廃墟にそぐわない陽気で豪快な笑い声が、夜気を切り裂くように響いた。


「そりゃいい、大いに褒め言葉だ」


 男は文若を振り返った。

 月明かりを弾いているのか、やたら光る男の目を文若が見返したところで、男はぱっと相好を崩した。


「気に入った! この忌々しい街を出るのに、お前のような道連れができて嬉しいぞ」


 場にそぐわない男の上機嫌に呆れつつ、文若は確認を取る。


「出られるんだろうな?」

「任しておけ」


 軽い声とは裏腹に、男は触れれば切れそうに強い視線で、城壁の方角を見つめていた。


『もっと逃がしたくないお方…』


 再び文若の頭の隅を、一つの名前が横切ろうとする。


(まさか……)


 男は馬の速度を上げた。

 程なくして城門の篝火が見えて来たが、男はそのまま馬を駆けさせた。

 いつの間にか男と文若の周囲に、馬に乗った幾人かの兵士たちがいた。 文若は警戒したが、兵士達は距離を置いて二人を護るように駆けているだけだった。

 城門の警備兵がこちらに気付いたのか、ざわめき始める。


 ――篝火がふっと消えた。


 驚く警備兵たちの背後で、閉ざされた、朝まで動くはずのない城門がゆっくりと開き始めた。


「遅れるなよ!」


 男は馬の腹を蹴り速度を上げ、混乱の中に突進した。

「早く門を閉じろ!」という声。「逃げるぞ!」という声などに交じって、


「曹操が逃げたぞ!」


 という声が高らかに響いた。

 文若は全速力で駆ける馬から振り落とされないように、必死に手綱にしがみついていた。

 それでも、途切れ途切れに耳に入る警備兵の叫びを、口と頭で反芻する。


「曹操……、曹孟徳どのか……!」


 黄巾軍を破り、西園八校尉(皇帝親衛隊の指揮官)まで駆け上った武人。

 勇名も悪名も天下に鳴り響いた青年将校。

 前を駆ける男が、当の曹操だというのだろうか……?

 どこか遠くから、男の笑い声が聞こえた気がした。

 他にも馬の嘶きや、人々の雄叫びが、ごちゃごちゃに混ざって頭に響く。


(弓が射掛けられないのは何故だ……?)


 どこかで冷静に思いながらも、文若の背筋には、畏怖とも熱狂ともつかない興奮が駆け抜けていった。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ