第一章 魔都脱出 3.
3.
文若が連れて行かれた場所は、街の外れの寂れた一角だった。
時折、人の気配は感じるが、夕暮れ時なのに煮炊きの煙一つ上がっていなかった。
半壊した建物も多く、その荒んだ様子に文若は気分を沈ませた。
前を行く男は、慣れた様子で荒廃した街をすたすたと歩いている。
結局、男は一度も振り返らず、表に並んだ店の一軒に入って行った。
以前は食堂でもやっていたのだろう。
壊れた卓と椅子が、辺りに散らばっている。
廃屋めいた薄暗い奥からのっそりと、腰が深く曲がった老婆が現れた。
乱れた白髪が顔にばらばらと掛かっていて、表情は見えない。
「俺の客人だ。預かっていてくれ」
老婆は緩慢に頷き、また奥に消えた。その背を見送っていた文若は、再び表に出て行こうする男に気づいてはっとした。
文若はあわてて、その背に声を掛けた。
「待て! ここはなんだ?」
「今の洛陽で、一番安全な場所だ」
簡潔に擬え、男は目を細めて店の中を見た。
「荒らされるだけ、荒らされたからなぁ」
感慨深げなつぶやきには、どこかに悲哀が混じっていた。
文若は詰問しようとする気勢を挫かれた。
「夜には戻る」と残し、男は立ち去った。
他に当てがある訳でもないし、乗りかかった船である。
今さら逃げ出す気も起きず、文若は腹をくくった。
倒れている椅子の中から、比較的形を保っている物を引き起こすと、立ち上る埃を手で払って腰掛けた。
(何事もなければ、明日また出直せばいい)
己に言い聞かせるように考えると、椅子の上で静かに目を閉じた。
やがて日が落ち、外は暗くなっていった。
灯りの点らない家屋は、外以上に暗くなる。
文若はふと、先ほどの老婆はどこにいるのだろうかと思った。
それというのも、奥からはまったく人の気配がしないのだ。
静かな薄い闇が支配する中、他にすることもない。
文若はためしに、奥の暗がりに向かって「申し訳ないが……」と声を出してみた。
「……ぁい」
距離が測れないくらい、聞き取りづらいしゃがれた声だった。ひっそりとしているが、奥にいることは確からしい。
言葉が交わせるのならばと、文若は最初からの疑問を口にした。
「私をここへ連れてきた武官……あれは、どこの何という人でしょうか?」
このような場に留まっている方も尋ねる方も、いずれも訳ありだろう。 だからあまり返事は期待していなかったが、一瞬の沈黙の後、押し殺した息のような音が聞えてきた。
奥を窺うと、黒い影が小刻みに揺れているのが見えた。
むせているのか?と駆け寄ろうとしたが、よくよく見れば笑っているようだった。
文若は息を吐いた。
(確かに。こんな場所で見ず知らずの人間を待ってるってのは、間抜けだよなあ)
天井の染みを見ながら、他人事のように思う。
別段腹は立たなかったが、老婆は笑ったままで答えそうもない。
(もしかしたら、男の名を言いたくないのかも知れないな)
それはそれで仕方ない――目の前にある汚れた卓の上の埃を、申し訳程度に払い肘を付くと、文若はほとんど口を開かずに愚痴をこぼした。
「何で今日になって、警戒が厳しくなっていたんだか……」
「さぐじつぅ……袁紹殿がぁ、ご自分のご領地にぃ、お逃ぃげになられたからですぅ」
届いているとは思わなかった文若は、がばっと体を起こした。
奥から流れてきた声は明瞭ではなかったが、意味は明快だった。驚く文若に構わず老婆は続けた。
「商人の従者に化げでぇ、城門を抜げられだぁそうですぅ……。お陰でぇきょうぅは、通るぅ人がぁ一人一人ぃ、笠の中までぇ調べられておりますぅ……」
何となく耳が痛い。
結局自分は、あの男に助けられたのかと思う傍ら疑問も湧く。
「ですが、もう逃げられたのですよね?」
なら今更、警備を厳しくしても仕方ないんじゃないかと、文若は思う。
「もっどぉ、逃ぃがしだぐないお方がぁ、まだぁ、城内にぃ残っていらっしゃるからぁでしょう」
「それは……」
誰かと尋ねようとした時、表に馬の嘶く声がした。
身構える間もなく、カシャカシャと金物が触れ合う音をさせて、あの男が入ってきた。
武官としての具足に身を包んだ、まるで戦場に向かうかのような姿を見た時、文若の脳裏を微かに過ぎるものがあった。
「待たせたな、行くぞ」
掛けられた声に、思考が中断される。
「ご苦労だったな」
いつの間にか、文若のすぐ後ろに来ていた老婆が、地に両膝を付いて、ちんまりと頭を下げていた。
「回せるだけのぉ、手は回しましだがぁ、容易には行ぎまずまいぃ。御武運をぉ……」
「そんなものは天から奪う!」
老婆の間延びした口上を快濶な一言で遮り、男は文若を促して外へ出た。
そこには一目で駿馬と分かる馬が二頭、文若と男を待っていた。
男はその一頭にひらりと乗ると、もう一頭を文若に示した。
「馬には乗れると言ったな?」
「言ったが……ここから乗っていくのか?」
死んだような街から、いきなり威勢のよい馬が駆け出せば、とんでもなく目立つんじゃないだろうか?
男はしれっとした顔で、満天の星空を見上げた。
「城門を越えたいんだろう? 多少の危険が伴うのは仕方あるまい」
「……多少で済めばな」
馬には乗ったものの、とてつもなく嫌な予感がしてきた。だが、ここで尻込みしても始まらない。
諦めて馬を軽く歩かせると、伸びた影が目の端に映った。
後ろを振り返ると、ほのかな月に照らされた人影が一つ、二人を見送っていた。
影は老婆と同じ着物を纏っているようだが、どういう訳か、腰はすっきりと伸び、うっすら浮かび上がる顔には、皺一つ見当たらなかった。
(……主人が、雰囲気を好きに変えられンなら、部下は歳格好を自在に操れるって話かよ)
文若は手綱をぐっと握りしめた。
有り難いことに、力が漲ってきたようだった。
「嫌みな主従だな!」
騙された恨みを思わず口に出すと、一拍置き、廃墟にそぐわない陽気で豪快な笑い声が、夜気を切り裂くように響いた。
「そりゃいい、大いに褒め言葉だ」
男は文若を振り返った。
月明かりを弾いているのか、やたら光る男の目を文若が見返したところで、男はぱっと相好を崩した。
「気に入った! この忌々しい街を出るのに、お前のような道連れができて嬉しいぞ」
場にそぐわない男の上機嫌に呆れつつ、文若は確認を取る。
「出られるんだろうな?」
「任しておけ」
軽い声とは裏腹に、男は触れれば切れそうに強い視線で、城壁の方角を見つめていた。
『もっと逃がしたくないお方…』
再び文若の頭の隅を、一つの名前が横切ろうとする。
(まさか……)
男は馬の速度を上げた。
程なくして城門の篝火が見えて来たが、男はそのまま馬を駆けさせた。
いつの間にか男と文若の周囲に、馬に乗った幾人かの兵士たちがいた。 文若は警戒したが、兵士達は距離を置いて二人を護るように駆けているだけだった。
城門の警備兵がこちらに気付いたのか、ざわめき始める。
――篝火がふっと消えた。
驚く警備兵たちの背後で、閉ざされた、朝まで動くはずのない城門がゆっくりと開き始めた。
「遅れるなよ!」
男は馬の腹を蹴り速度を上げ、混乱の中に突進した。
「早く門を閉じろ!」という声。「逃げるぞ!」という声などに交じって、
「曹操が逃げたぞ!」
という声が高らかに響いた。
文若は全速力で駆ける馬から振り落とされないように、必死に手綱にしがみついていた。
それでも、途切れ途切れに耳に入る警備兵の叫びを、口と頭で反芻する。
「曹操……、曹孟徳どのか……!」
黄巾軍を破り、西園八校尉(皇帝親衛隊の指揮官)まで駆け上った武人。
勇名も悪名も天下に鳴り響いた青年将校。
前を駆ける男が、当の曹操だというのだろうか……?
どこか遠くから、男の笑い声が聞こえた気がした。
他にも馬の嘶きや、人々の雄叫びが、ごちゃごちゃに混ざって頭に響く。
(弓が射掛けられないのは何故だ……?)
どこかで冷静に思いながらも、文若の背筋には、畏怖とも熱狂ともつかない興奮が駆け抜けていった。