第一章 魔都脱出 2.
2.
目立たないように、商人風で薄汚れた衣服に着替えた文若は、城門を見渡せる路地の入口に立った。
門の前にある検問所には、城外へ出ようとする民の長い列と、兵士たちが屯している。
先程から日が暮れ始めている。
夕暮れ時は顔の判別がしにくい。兵士たちも詰問するのが面倒になる。
城門は日没と共に閉じられ、明日の朝まで開くことはない。
(まだ火も焚かれていない今が頃合いだな)
意を決して、列へ向かって歩きかけた文若の左肘を、不意に誰かが捉えた。
「待てよ。今は止めておいたほうがいい」
文若は、文字通り跳び上がりそうに驚いた。
肩越しに振り返ると、背後の暗がりに男が一人立っている。
「今日は特に警戒が厳重になっている。少しでも怪しければ捕らえられ、そのまま董卓の前まで連行されるぞ」
暗くて顔がよく見えないが、男の腰に刀が差してあるのは分かる。傲岸で不遜な雰囲気からしても、町人の持つものではなかった。
宮中の人間が商人の扮装で董卓の前に引き出されたら、よくて牢獄、悪ければ宴の余興として生皮を剥がされる。
(適う限り避けたい未来だ)
眉を寄せてあれこれ考えている文若を、男もじろじろと遠慮なく見回した挙句、見下すような笑みを口元に浮かべた。
「商人より商人の女房の変装でもしたほうが、似合っているんじゃないか?」
いきなりの無礼さに、初め何を言われたのか文若は分からなかった。
しかし、すぐに怒りでカッと頭に血が上った。
子供の頃から、己の容姿については何やかやと言われてきた。
哀しいが、お世辞にも男らしい外観でない自覚は文若にもあった。
髭を生やしたりしたこともあったが、却って弱々しい印象になったのでやめた。
知らぬ土地へ行くと見た目で軽んじられたり、侮られたりもする時も少なくない。
今では開き直って利用することもある『見てくれ』だが、相手が誰であれ、面と向かって侮辱されるいわれはない。
「離せ! 痴れ者!」
まだ取られたままだった腕を、力任せに引き剥がす。
振り切った勢いのまま体を回すと、文若は左足を相手の頭めがけて蹴り上げた。
「おっと!」
男は素早く後ろに引き、文若の足は空を切った。
文若は心の中で大きく舌打ちしたが、次の攻撃は思いとどまった。
先刻の蹴りが掠りもしなかったとなると、相手は素人じゃない。
百姓、商人崩れのならず者ならともかく、訓練された武人相手に喧嘩ができるほどの心得は、文若にはなかった。
「なんだ、終わりか?」
笑いを含んだ能天気な声に、また文若の頭に血が上りかける。
(今は揉め事を起こしている場合じゃない)
自制心を総動員させて、どうにか感情を抑え、面倒な事態になる前に立ち去ろう――と翻した肩は、しかしまた掴まれた。
「なんなんだ、あんたは!」
せっかく抑えつけた怒りが、再び噴き上がる。
勢いをつけて振り向くと、きつい印象を与える淡い色の瞳が間近にあった。
鋭い眼光に見据えられて、文若は思わず動きを止めた。
「少し話を聞け。お前が城門を抜けたいのなら、手伝ってやらんでもない」
まだ若い。二十歳を過ぎたばかりの文若より五つ六つ上の、精悍な男の顔だった。
日焼けした肌、高い鼻梁、体格はおそらく武人としては小柄な部類だろう。
しかし、全身から滲み出る存在感が男を尊大に、逞しく見せている。
迂闊に言葉を返せず、睨みつける文若の視線の先で、男は目を細め、にやっと口の端を上げると軽く口を開いた。
「宮中に出仕していた官吏だろう?」
言いながら敵意はないと主張するように、男は両腕を広げた。
「見て分からんかもしれんが、俺も宮中の武官だ。董卓に首を刎ねられる前に、俺も城門を抜けたいのさ」
具足などは付けていなかった。
それでも、腰に佩いている剣は飾りには見えなかったし、身に付けている品も粗末なものではない。
改めて見ると、男の所作も洗練されたものだと気づかされる。
(いや……先ほどまでと今とで、雰囲気を変えてみせたのか)
出会いがしらに言葉で煽られ、わざと怒らせられたことに気づいて、文若は頗る不愉快な気分になった。
(粗野な言動で何を試していたんだか)
気にはなったが、追及する余裕はこの場にはなかった。
「さっさと、お一人で抜ければ良かろう」
口調が自然ときついものになったが、男はまるで意に介さなかった。
「言っただろう。今日は警備がきつい。まともな方法じゃ、俺もお前もまず無理だ。おまけに、ここでお前が騒ぎを起こして、もっと警備がきつくなるのはごめんだ」
指摘されて文若は門を見た。
閉門まであまり間がないのに、まだ大勢の民が城内側に残されている。
確かにどこかおかしかった。
「明日また出直せと……?」
文若の問いに、男の目と口元の笑みが剣呑なものとなった。
男は文若の目の前に、突き出すように右の掌を広げた。
「これからは日が進むごとに、警備はどんどん、どんどん、きつくなっていき、やがて……完全に閉じられる」
刀を持つ者らしいゴツゴツと骨ばった手を広げた男は、ゆっくりと指を折っていき、最後にぐっと握った。
城門が開かなければ、人だけでなく食物や必需品の物流が止まる。
今現在、外から敵に攻められている訳でもない。普通の城郭ならまず閉鎖はないだろう。
だが洛陽に限っては、城内の備蓄が十年そこそこはあるはずだった。
(考えられない話ではないか)
男が口から出任せを言っているようにも聞こえなかった。
「まともでない方法というのは?」
尋ねると、男はふっと微笑み文若に確認を取った。
「お前、馬には乗れるな?」
なぜか弾んだ声に聞こえた。
「人並みには」
無難に返した文若に「よし」と頷いて、男はさっさと、路地の奥へと歩き始めた。
後から付いてくると微塵も疑っていない背中に、多少の苛立ちを覚えたが、他に何か手立てがあるわけでもない。
文若も路地の奥へと進んで行った。