第四章 合従連衡 3.
3.
洛陽の都、西方門を囲むように、連合軍の陣は張られていた。
砂煙と共に行き交う兵馬の中を、夏候淵妙才は、苛立たしい気持ちを、撒き散らしながら歩いていた。
『曹』という旗が掲げられた幕舎の前に着くと、警護の兵が無言で妙才に道を開けた。
ずかずかと中へ入り、妙才は主の名を叫んだ。
「孟徳! 会議は終ったか?」
中央には、卓に見立てた長い板が渡され、その上には洛陽周辺の地図が広げてある。
幕舎の主、曹軍の大将である孟徳は、入口から最奥の位置に座り地図を見ていた。
「来たか、妙才」
孟徳が下を向いたままつぶやくと、その隣に坐した男から、妙才をたしなめる声が掛かった。
「殿と呼べよ、妙才」
二つ上の従兄、夏候惇元譲の落ち着いた様子に、妙才は「おうっ」と応え、孟徳に向き直った。
「殿、まだ攻めに出られぬのか? あちらは二十万、こちらは三十万。首を出した所をひっ捕まえて、さっさと数で押してしまえば良いではないか」
性急に妙才がまくし立てた。
(董卓討伐の檄文に応え、兵を率いて集まって来たまではいいが……)
……城壁を前に小競り合いしか行わず、あとは連日、酒を飲んで騒いでいるだけの諸侯に、妙才は苦り切っていた。
孟徳は、地図から目を離し顔を上げた。
「その話だがな、妙才。城壁攻めの先鋒が決まったぞ」
「そうか! よし」
兵を纏めるために駆け出そうとする妙才を、苦笑気味に孟徳は押さえた。
「まぁ、待て。我らが出陣するとは、言っておらん」
不満を露にし眉を寄せた妙才へ、元譲が厳かに告げる。
元譲の細められた思慮深そうな瞳は、将軍というより学者にも見える。
「先鋒は、孫堅殿だそうだ」
元譲の言葉に、妙才は南から来た将軍を、脳裏に思い浮かべた。
孫堅は、体格こそ左程大きくなかったが、他を圧する存在感を周囲に放っていた。
陽に焼けた黒い肌と、彫りの深い顔立ち。それに加えて、鋭い、まるで鷹のような目を持った男だった。
相当の修羅場を、潜り抜けてきたのだろう。孫堅にも、孫堅の軍にも、常に引き締まった空気があるのは、妙才も認めていた。
ふん、と鼻を鳴らした妙才は、元譲の向いの席に、どさっと腰を下ろした。
「そういきり立つな。我らの出番は、この先幾らでもあろうよ」
手にした筆で、地図に何ごとかを描き込みながら、孟徳がなだめるように口を開く。
妙才は顔をしかめた。
孫堅の兵のような覇気は感じられないが、他の諸侯もそれなりに数や軍装は整っている。
(自分たちは、その中で、たかだか五千名でしかない)
妙才は無意識に呟いていた。
「出番……あるかねぇ」
それを聞きつけた孟徳が、顔を上げた。
「あるさ。お前、この軍が三十万いるとは思うなよ」
どこかで聞いた言葉だ、と妙才は思った。
「いるのは、諸侯の数で割っただけの私兵だ。しかも大半は、飾り物と来ている。今まで、どれだけ大軍が投入されようと、俺たちの他に『戦』をしていたのは、孫堅と公孫賛の処の一部隊しかない」
「一部隊?」
聞き返す妙才へ、孟徳に代わって元譲が答えた。
「公孫瓚が連れてきた、劉備とかいう客将がいただろう。あの軍や、その中にいる関羽という武人は、見事だったぞ」
「あぁ、あの化け物と一騎打ちした男か……!」
妙才が『化け物』と呼んだのは、呂布という、董卓の義理の息子である。
上司であり養父だった丁原を切り殺し、董卓と親子の契りを結んだという話が、巷に広がっていた。
だが『化け物』との別名は、その所業でなく、その力にある。
たった一人で、戦場に死体の山を築き上げる。呂布の強さや姿は、ほとんど悪鬼じみていた。
一度だけだが、妙才もその強さを目の当たりにしていた。
また、そんな呂布に一騎打ちを申し入れ、勝てないまでも互角に戦い、壁の向こうへ追い返した関羽という武将の名前も、この戦場で一躍知れ渡った。
「この陣中で『戦』をしに来ているのは、それだけだ。焦らないでも、孫堅だけで董卓は倒せん。他の手が必要になる」
俺たちの出番は、その時だ――と告げて、孟徳は再び地図へと視線を戻した。
先程の孟徳の言葉が誰と重なったのか、ようやく妙才は思い出した。
気を鎮めるために息を一つ吐き、立ち上がった妙才へ、牽制するように元譲が名を呼ぶ。
「妙才? どこへ行く」
「大丈夫だ。抜け駆けなんぞせん」
妙才は座ったままの元譲を見下ろし、しかめっ面で言い返す。
「兵たちを鍛え直してくるだけだ。味方が何万いようと、俺たちが頼れるのは、うちの五千だけなんだろう?」
ぱっと孟徳が顔を上げた。
元譲も太い眉を寄せて、妙才を凝視していた。そんな彼らを置いて、妙才は幕舎を後にした。
「どうしているかね……あの秀才殿は」
歩きながら呟くと、妙才の口元が緩んだ。
なまじ、普通の何倍も頭が切れると知っているので、心配のし甲斐がない相手を思う。
むしろ文若のほうで、こちらを心配しているだろう――、一緒にいたのは数日だったが、妙才は当たり前のように想像できた。
これまで何度かあった小さな戦では、際どい場面もあったが、少数であることの足回りの良さを発揮し、曹操軍は殆ど兵を損なうことなく助かっていた。
時として無謀に見える、孟徳の奇抜な戦法も健在だった。
策士の操る、変幻自在の部隊として『曹』軍の旗は、良くも悪しくも、敵味方に強い印象を与えている。
妙才は、冀州へ文若が立つ前日に、交わした会話を思い出す。
『おそらく、今度の戦はこちら側が苦戦する』
今の戦場は、あの日文若の分析した通りに進行している。
ならば、この先も当たっている可能性は高い。
「――既に、苦戦している気もするが……」
妙才は、飛んできた緑葉を掴み、口に挟んだ。
雪のとける頃に始まった戦は、この先の暑さを予感させる風が吹いても、終る気配を見せていない。
せめて、自軍の機能だけは止めぬように、馬、武器、兵糧の管理を厳重にせねば――と、妙才は兵士らの集う野営地に向かった。
先鋒を任された孫堅の軍は果敢に戦い、幾度か勝利の報告が、後方にもたらされた。
予想外の急進撃に、自らの出番がなくなるかも知れないと諸侯らが慌て出した頃、孫堅軍が後退したという知らせが伝わってきた。
突然の報にどよめく本陣へ、時を置かずに、孫堅が自ら馬を駆り怒鳴り込んできた。
「なぜ、兵糧が届かなかったのだっ!?」
血と埃にまみれた姿のまま、激しい怒りを露にして、孫堅は馬を下りた。
盟主である袁紹が、慌てて労いの言葉を掛ける。
「ご苦労だった、孫堅殿。まず一息付かれては……」
孫堅は無言で袁紹を押し退け、その後ろで震えていた袁術に詰め寄った。
「補給部隊は貴公の管轄であろう、袁術殿。答えて貰おうか!」
袁術は、はちきれんばかりに肥満した体を縮こませて「ひいぃっ!」と、か細い悲鳴を上げた。
「わ、わしは、知らなかったのだ!」
「知らなかったで済むとでもお思いか! とっくの昔に手配したはずの、兵糧が一片たりとも届かなかったのだぞ!」
押し潰されそうな袁術は尚も悲鳴を上げていたが、鬼気迫る孫堅の様相に気圧され、他の大将は誰も止めに入れなかった。
「俺の兵たちは、ろくに飲まず食わずで五日! 洛陽の門の中まであと一歩という処で、引き上げねばならなかったのだ!」
妙才はこの光景を、離れた場所から、他の将校たちと見つめていた。
(ひどい話だな)
戦に必要なものは士気とか、武器というのも確かにある。だが、何よりもまず食糧である。
多少の空腹ならば、気力で補える場合もある。
しかし飢えていては、戦うどころか、ただ足を進めることさえできない。
――故に、どのような軍もまず兵糧を集め、長引きそうなら補給路を確保してから戦に臨む。
当然、兵糧を管理する補給部隊は、責任が重い。
部隊を預かる者も、有能で信頼に足る人物でなくてはいけないはずなのだが、軍の『財産』を預かるという職務上、不正も起こりやすい地位だった。
孫堅軍の悲運は、ここにある。
袁術が補給部隊を任された理由は、優れた武将という理由からではない。
盟主である袁紹の異母弟というだけで、『実入りのいい役職』に、抜擢されたのだ。
不意に名を呼ばれた気がして、妙才が振り返ると、いつも以上に固い表情の元譲が立っていた。
合図に従い、人の群れから外れると、元譲は妙才に声を潜めて告げた。
「董卓が出て来るぞ」
「本当か?!」
「先程、物見の知らせがあって……」
そこで元譲は一旦、苦いものを噛むように顔をしかめて、言葉を切った。
不吉な言葉を畏れるような、一瞬の躊躇の後、元譲は再び口を開いた。
「洛陽が、燃えているそうだ」
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※公孫賛=公孫瓚:カギョウ同様、字が見えないとの指摘がありましたので変更しました。
…いよいよ洛陽攻防戦。
…一瞬ですが(笑)劉備も関羽も出せました!
…あんまり書けませんが、戦いのシーンになると指が弾みます。
…謀略シーンも嫌いではないのですが。




