第四章 合従連衡 2.
2.
文若は、一族が移り住んでいるという屋敷へは入らず、役所内にある官舎に、部屋を借り受けた。
以前の州牧が使っていたという、今は使われていない一角が、文若の為にすぐ掃き清められる。
荀衍などは
「しばらくは、屋敷でゆっくりされれば良いのに……」
と、しきりに気を揉んでいたが、文若は既にこの地で出遅れている。
因果な性質だが、なるべく早く現状を把握し、足場だけでも作っておかねば落ち着かなかった。
役所の書庫から持ち出した竹簡に、目を通しているうちに夜になっていた。
文字が読みにくくなって、ようやく辺りが暗くなっていることに気づき、文若は灯りをつけた。
机と椅子、床(寝台)だけを運んでもらった部屋は、却って広さが目立つ結果になっていた。
部屋のほぼ中央に置いた机の前に座し、再び麦の収穫高に関する資料を読み始めた。
竹簡の束は、凡そ四、五十巻。
順次、右から左へと移動していき、未読の竹簡があと一つになった頃、不意に灯りが揺れた。
空気の動きに誘われて振り向くと、窓が開いている。
窓には閂が掛かっていたのは、部屋に着いた時に確かめてあった。
予想が外れていたら間抜けだなと思いつつ、文若は窓に向かって声を掛けた。
「調べがついたか?」
窓の外から「はい」という答が返ってきた。
それと同時に、細い影が一つ、部屋の中に増えていた。
「熱心なご様子でしたので、お声を掛けるかどうか迷いました」
「邪魔なら返事をしない。それで判断してくれ」
竹簡を畳んでいる文若に、汀は「はい」と返した後、膝を地に付け頭を下げた。
「ご報告します。鄴の街は現在、滞りなく機能しております」
汀は余計なことは言わずすぐ本題に入った。
「街の人間で困窮する者、店を畳んで逃げ出す者はおりません。流民たちには、郊外に屋根のみの長屋があてがわれ、一日一度ですが、粥の配給がありました。韓馥殿が就任以来、諍いの多かった役人と商人たちも、現在ではすみやかに交渉が行われているようです」
考えるまでもなく、文若は問う。
「俺の一族が入って以来か?」
「はい。穎川からいらした皆様、とりわけ荀諶殿の名前が、商人の口からは、上がっておりました」
らしい話だ――文若は口の端を少し上げた。
「荀衍兄上の名前は、郊外で聞いただろう?」
再び汀が頷き、肯定する。
「はい。流民たちの世話役の男が、気遣ってくれるのは荀衍殿だけだと、感謝しておりました」
荀衍と荀諶の変わりのなさは、文若をほっとさせたが、多少の物足りなさも感じさせた。
「何か、不満の声はなかったか?」
汀は自身の頭の中を探るように、少し間を置いた。
「表立ってはありません。ただ、やはり商人たちの間に、此度の董卓討伐の挙兵のため、韓馥殿に金や穀物を徴発されたことを、根に持つ発言がありました」
「当然と言えば当然だが……」
言い掛けたところで、文若は自分をじっと見上げている、汀の視線に気づく。
「どうした? 何か意見があるなら遠慮しないで言ってくれ。俺はどんな意見であれ、他人の話だけで何かを決めたりはしない」
己の為す行動に関しては、判断も責任も、全ては己に帰すと文若は決めている。
ただ……と文若は続けた。
「何も言わなければそれだけで、求めた情報の価値は落ちるかもしれん」
いつも伏せ目がちだった汀の目が、カッと大きく開かれる様子を、珍しい思いで文若は見ていた。
汀はすぐに、形の良い口元を引き結び、頭を下げる。
「それでは、私見を述べさせていただきます。商人たちの不満は、確かに当然のようにも見えます。が、その一方で、何者かに煽られているようにも見えました」
文若の背筋に、僅かな緊張が走った。
「物資の徴発は、既に一ヶ月前に終っております。当人である韓馥殿も、現在はこの地にはおりません。ですが、未だにそれが話題に上るのは、不自然に思えます」
文若は肯定も否定もせず、黙ったまま先を促した。
「それに、戦のために物資が代官に徴発されるのは、日常的なことです。理不尽ではありますが、見たところ命が危うくなるほどでもなかった取り立てに、それほど不満が燻ぶるとは思えません」
文若は、机の上に右肘を付いて「そうだな」と呟くと、左手でばらっと竹簡の一つを開いた。
「冀州は肥沃な土地だ。しかもこの記録によれば、ここ数年、凶作の年はない。これが本当なら、わざわざ商人から徴発を行わないでも、鄴の備蓄分だけで二万の兵を半年は養えるはずだ」
「……では、なにゆえに韓馥殿は?」
「州倉の備蓄を減らすより、商人たちから徴発する策を選んだ理由が、あったんだろうな」
「その理由とは、何でございましょうか?」
文若はカラッと音を立てて、竹簡を机に置く。
「さあな。これからも戦は続くから、落ち着いている今の内に兵糧を貯めたがよい、とでも誰かに言われたか……」
文若の脳裏を次兄の面影がよぎる。
「……他にも考えられるが、漢王朝が危機に瀕し、野心を煽られた韓馥殿をその気にさせるのは、誰にでも簡単だと思う」
うまくのせて兵糧を徴発し、倉を満たした。その後、噂を長引かせ、不満を高める。
成程、もう始めていた訳か――文若は他人事のように思った。
「つまり、どなたかが韓馥殿を?」
汀の用心深い問いを聞き、文若は汀の評価を定めた。
「回転が速いな。方向も良い。さすが孟徳殿の部下だな、汀」
満足して頷くと、文若は告げた。
「次の仕事を頼みたい。もうこの街で、調べてもらうことはもうない」
あちこち飛ぶ話に、戸惑った様子を見せたのは一瞬で、汀はすぐに、引き締めた表情を文若に向け、姿勢を正した。
「迷ったが、やはり対董卓戦の成り行きが知りたい。洛陽城外へ赴き、戦の趨勢を見てきて欲しい」
女の身で、戦場は酷かとも思う。
だが、おそらく今の戦場には、孟徳の他の間者もいるはずだ。
今の報告に掛かった時間と内容から考えても、各地に散らばっている仲間たちに、何かしらの伝手はあるだろうと文若は踏んだ。
「頼めるか?」
との問いに、汀は即答した。
「かしこまりました。戦況に変化があり次第、報告しましょうか?」
「噂は逐一、この地にも流れて来るだろうから、それには及ばん。全体を見回し、戦の帰趨を見極めてから戻ってくれ」
「御意」
汀は深く頭を下げると、すぐにその場から消えた。
開いていた窓は、再び音もなく閉じられた。
文若は立ち上がり、窓の傍へ行く。
閂が、内側から閉められているのを確認してから閂を上げ、窓を開けた。
まず目に入るのは、少し離れた所にある漆喰の内壁。
部屋と壁の間には、景観を図って置かれた木と石だけで、生き物の気配はどこにもなかった。
「見事なものだな」
思わず呟いたが、最終的に文若が買ったのは汀の体術でなく、情報収集力、判断力、分析力だった。
孟徳が護衛として、間者を付けてくれたのは分かっていたが、差し当たって今は、この地で身の危険は感じない。
(とりあえず、『今はまだ』ってところだが)
危うい種はあちこちに見えていた。
不意に、夜風が運んできた草の匂いで、今朝までの旅が思い出された。
孟徳や妙才は集められた兵達を連れ、既に洛陽へ向けて出立しているだろう。
(俺があの壁を越えて、戦場へ行けるなら……)
人任せになどせず、この目で確かめられるのに――、文若は頭を一つ振って戯れ言を追い払った。
今、文若にとっての戦場は、洛陽でなく、鄴だった。
(半端な考えでは足を取られる)
肝に銘じながら、文若は再び窓の閂を下ろした。




